その一言がすべてを照らす
30:あなたの灯籠
石造りの道は足音を響かせた。すっかり夜に沈んだ街を心なしか早足で歩く。女ではあるまいしと思いながらも大通りから伸びる裏通りへの暗がりは不気味だ。夜闇に紛れて何者ともつかない闇が息づいている。所用を済ませた先から足元ご注意と持たされた明かりがゆらゆらと揺れる。ちろちろと燃える焔は橙に煌めいていた。
家々から伸びる明かりは不意について足元を照らしたかと思えば目の前で消えたりする。不安定なそれらの点滅は間延びして視界を狂わせる。手元の焔が心細げに揺らめいた。温もりを感じさせない家々の明かりはどこか無機的だ。暖かな焔色なのにその温もりは微塵も感じられない。明かりに照らされた箇所を縫うようにして歩いていく。空を見上げれば星が煌めいていた。仄白く光るそれらを安寧の中で見上げていた日を思い出す。
不意に口を開ける夜闇の恐怖のように、運命の一夜を思い出す。こんなふうに星が煌めく夜は特にそうだ。揺らめく焔も握った剣の感触も喪った痛みも。幼馴染のフランシスコもキュリオと同じように親を失っている。喪った命はあまりに重過ぎて。古傷のように不意に痛み出す。それでも託された命もあった。それを守るために必死で生きてきた。感情を押し殺す術も覚えた。泣くのを堪えるのも怒りを呑みこむのも、慣れた。長年の隠遁生活は感情を殺す術をキュリオに教えた。
それでも必死に抗うように、キュリオは託された少女に剣を教えた。再興を夢見てといえば聞こえはいいがただの仇討ちかもしれない。少女を上手い具合に使っているのではないかと苦悩した日も今では遠い記憶だ。少女に託す運命は重く、皆は真実をまだ少女にいえずにいる。ただ16歳を迎える日を待てと、少女に言い聞かせるたび自身にも言い聞かせている。
彼女が16歳になるまでは。目を背けて、いられる。
足早に歩を進め家の扉を開く。待つ人のいない家は静かだ。隠れ住んでいるともなればなおさらだ。部屋の中ほどへ進み出たところでキュリオの体がギクリと震えた。照らし出された人影がゆっくりとキュリオの方を向く。
「あぁ、おかえりなさい」
「フランシスコ…」
クリーム色の長い髪が焔色にてらてらと輝いた。蘇芳の瞳はどこか虚ろだ。聡明なフランシスコらしくないそれにキュリオはこっそりため息をついた。昏く煌めく瞳がキュリオを映し出す。どこか女性的ですらあるフランシスコの顔立ちは、女性たちが黄色い声を上げるだけあって整っている。全体的に見れば優男だが時折意志の強さを見せる。
キュリオが部屋に備え付けのランプへ火を移そうとするのを不意に伸びた白い手が止めた。そのまま唇が重なる。キュリオがそれを嫌って体をそらして逃げると追ってくる。焔色に光る狭い視界の中でフランシスコの紅い唇が見えた。フランシスコが足をかけてキュリオを押し倒す。すんでのところでテーブルの上に置いた明かりは無事だった。
「おい…ッ」
石造りの家とはいえ、テーブルや椅子、調度類の類は立派な可燃物だ。何よりフランシスコらしくないそれに恐れを抱いた。
フランシスコはクックッと笑う。蘇芳色の瞳が眇められて舐めるようにキュリオを見た。
「大丈夫ですよ。あなたが明かりを置いたタイミングで足を払ったんですから」
「お前…ッ」
腕力ならキュリオの方が上だ。それなのにフランシスコは妙に強くキュリオを拘束した。襟を緩め鎖骨のくぼみを強く押してくる。息苦しさに頭部が膨張したような感覚を覚える。思わず喉をそらして喘ぐキュリオの唇をフランシスコがふさいだ。突き出た喉仏をフランシスコが舐った。少し弾力のあるそこに歯を立ててくる。
キュリオがたまらずフランシスコを押し退けた。細身の体はキュリオの力に負けて押し戻される。長い髪がさらりと流水のように流れた。
「お前…ッな、に考えて」
「あなたのことです」
妙に据わった声にキュリオの背筋を冷たいものが滑り落ちた。蘇芳色の目が虚ろにキュリオを睨んでいる。
「あなたが、悪いんですよ」
フランシスコの目が思いのほか強くキュリオを睨んだ。カッとなったキュリオの腕がしなり、フランシスコの頬に平手を炸裂させた。乾いた音が響き手ごたえがあった。
傾いだ体が揺らいでフランシスコは床にしりもちをついた。キュリオはその間に体勢を立て直した。明かりの届かない部分は暗闇の中でひそやかに息づいていた。フランシスコの目が輝きを帯びたと思った瞬間、フランシスコの拳がキュリオの頬を捕らえた。勢いのままに倒れるキュリオの上にフランシスコが圧し掛かってくる。腫れた頬を殊更に撫で上げ舌を這わせる。
「何を…ッす、る」
「それはこっちの台詞ですよ。いきなり殴るなんてどういう了見ですか?」
明かりに照らされてフランシスコの頬が赤味を増していた。微妙な腫れが見て取れる。それでも拳で殴られたキュリオの頬の方が無残で痛々しいだろうことは痛みが教えてくれた。
腫れたそこから感覚が抜け落ちたようだ。ただ脈打つような痛みと感覚の麻痺した感触だけが感じられる。そこをフランシスコの指先が這いまわった。
「ねぇキュリオお願いがあるんですけど」
フランシスコはそこで唇を歪めて笑った。優男のフランシスコがそんな表情をするとまとう雰囲気が一変する。蘇芳色が血色にすら見えてくる。
「抱かせてください」
キュリオの腕がしなるのをフランシスコは予知したように腕から縫いとめた。紅い唇が弓なりに反った。
「馬鹿を、言うな!」
「だめですか? あんなに、抱きなれた体なのに」
クックッと笑うのフランシスコにキュリオは顔を背けた。キュリオを隻眼にした傷が明かりに照らされててらてらと光った。フランシスコがそこへ舌を這わせる。
目蓋を押し開くような動きにキュリオはたまらず声を上げる。閉じた目蓋はきっともう開くことはないのだろう。それでも目蓋をぴくぴくと痙攣させる。
「――ッい、たい…ッやめろ!」
「痛かったら泣いてよ。ねぇ、キュリオ、泣いて?」
フランシスコの手が服の前を開いていく。滑り込む手の冷たさにキュリオが身震いした。
「――ッやめ、ろ!」
キュリオがフランシスコを突き飛ばした。華奢な体躯は簡単に吹っ飛びキュリオは自由を取り戻す。荒い呼吸に肩が上下した。
「フランシスコ」
「だって、あなたは」
フランシスコの声が震えた。キュリオは頬を滑り落ちる煌めくものに気付いた。
「好きだって言ってくれないじゃないですか…」
キュリオはそっとフランシスコの頬へ指先を伸ばした。濡れたそこを拭うと潤んだ蘇芳色の瞳と目があった。近づくキュリオの体にフランシスコが抱きついた。
「好きです、好きなんです…抱かせ、て」
キュリオは体が傾いでいくのに任せた。押し倒されたキュリオをフランシスコが不思議そうに見た。鳶色の髪をゆっくりと梳く。
「いいんですか?」
「…泣いておいてそれを言うか」
「あなたに泣き落としが通じるなんて思いませんでした」
道化たように笑うフランシスコにキュリオは言葉を紡いだ。
「俺もお前が、好きだ」
蘇芳色の瞳が驚いたように見開かれていく。みるみる盛り上がった水滴が眦からあふれ出して頬を濡らす。わずかに開いた唇が噛み締められて泣き声を堪える。
「あ、は…ッそ、んな」
フランシスコの声が震えていた。キュリオは黙って這う手を覆うように手をかぶせた。
殴って腫れた頬を撫でる。
「ごめんなさい。腫れてしまいましたね」
「俺も一発殴ってるからな。どうってことはない」
キュリオの閉じた目蓋を指先でなぞる。キュリオは黙ってフランシスコの好きにさせている。細い指先が妙に華奢に見えた。
「ありがとう、ございます」
涙に濡れた瞳がキュリオを射抜いた。その口元がクスリと笑った。
「じゃあもう手加減しませんから」
「してたとは思えないんだがな」
クックッと笑うキュリオの声にフランシスコも笑った。その白い手が明かりを手に取り、吹き消した。闇が部屋に満ちる。蠢く人影が月光に照らされた。
《了》