あなたのためならなんだってする


　　　28：追跡者

　緩慢に響く楽器の音色を背に校門を出る。下校時間をずらした所為か人影もまばらだ。妙に仰々しい門をくぐって通りへ出る。今日はあいにく練習室を借りる手はずが整わず、練習を諦めた。奏でる楽器が楽器なだけにどこでも練習出来る気軽さはない。自然と練習場所も限られている。巻き込まれてコンクール参加が決まるなり所属していた部活から練習に打ち込めとばかりに締め出されてしまった。拒否されたわけではないのだが部活に出るたびに口々にコンクールに向けての練習はいいのかと問われては、煩わしくて仕方ない。それが嫌で自然と足が遠のいた。人付き合いは苦手な方ではないが女性が苦手という性質が関係してか友人関係も限られてくる。気付けば同じ面子でたむろしている。それでも徹底的に気のあわない輩はいる。
　目の前に見えたコンビニの看板に軽食でも摂ろうかと思い至った。道路を渡ろうとした目の前に高級車が滑り込んだ。思わず脚を止めると後部座席の窓が開いた。長い紫苑色の髪を肩の後ろへ長し、穏やかそうに微笑む瞳はトパーズの輝き。
「乗っていかないかい」
「…家、近いんで結構です」
「つれないな」
　柚木は微笑んだまま車を動かそうとはしなかった。だんだんギャラリーが増えてきている。土浦はさっさと会話を打ち切って帰路につきたかった。柚木は学校でも目立つ存在だ。ファンクラブまであるというのだからその人気は自他共に認めるものだろう。対照的に、土浦は大衆の中に埋没していた。サッカー部で活躍していたことも微々たる物だ。唐突にコンクールに巻き込まれなければ柚木をはじめとする音楽科の面々とも挨拶程度の会話しかない仲になっていただろう。だからこそ余計に柚木が執着してくる理由が土浦には判らなかった。
　遠巻きなギャラリーの壁を突っ切って土浦は帰途に着いた。空腹を我慢して自宅へ急ぐ。それでもぐずぐずと遠回りなどをして時間を潰す。真っ直ぐ帰る前に気分転換をしたかった。
「…あほらしい」
土浦は自宅の方へと足を向けた。今日は他の家族がそれぞれ外出して家を空けている。だから練習に精を出そうと思ったのだが出鼻をくじかれた。その上、柚木とのかみ合わない会話だ。こういう日は何もかも忘れてさっさと眠ってしまいたかった。
　次第に見えてくる自宅の前に見慣れた車が止まっていた。おもわず呆然とする土浦に柚木は穏やかに笑いかけた。
「どうして、ここに」
「教師とは仲良くなっておくものだ。そう思わないか」
土浦の山桃色の瞳が柚木を睨んだ。
「用はなんですか」
「お前に興味がある」
柚木の口調から丁寧さが落ちた。にやりと笑う顔が上から見下ろすものの顔だ。
　土浦は柚木の脇をすり抜けて玄関に立った。鍵を開けて扉を開くと後ろから扉を押さえられる。思わずその手を払いのけようとするのを土浦は必死に押さえ込んだ。腕力でいえば運動部である土浦の方が勝るだろう。けれどコンクールを控えた音楽家が楽器と同じように指先にも気を使うのを土浦は経験で知っていた。その自制が柚木を増長させた。
　扉を開くと柚木は体を滑り込ませてくる。華奢な体は隙間をすんなり通り抜ける。土浦が止める間もなく柚木が上がりこんだ。
「ちょっ…！」
「今から追い返すか？　悪いが車はもう帰らせたぜ」
土浦は慌てて玄関の外へ目を向けた。あれだけ大きかった高級車が影も形もない。肩を落として諦めた土浦の様子に柚木は満足げに笑った。
　柚木がチョイチョイと指を曲げて土浦を呼んだ。傲慢な態度にももう怒りすら感じない。気を使うべき周りがいなくなると態度をがらりと豹変させることにも慣れた。普段は人当たりがよく何でも受け入れるが一度裏の顔を見せた相手には気遣いなど皆無だ。傲岸不遜に遠慮も物怖じもしない。学校で黄色い声を上げる女生徒にこの姿を見せ付けてやりたいとすら思う。
「なん」
そこで土浦の言葉は飲み込まれていった。触れ合う唇が柔らかくそれでいて芯のある手ごたえだ。開いた隙間から大胆に舌が潜り込んでくる。
「ん、ん…ッ」
土浦はあらん限りの力でそれを引き剥がした。離れた柚木の唇は紅く、濡れたように艶を放っている。灼けつく紅さの舌先が覗いた。
　柚木の指先が土浦の頬を撫でた。火照って紅いそれは子供のようだった。
「俺から逃げられると思うなよ」
「…諦めました」
柚木の手元が試すように襟をくつろげていく。それでも決定的でないそれは土浦を試す。二人の体が傾いで床に倒れこむ。思い出したように部屋に薄闇が満ちた。視界の境界をぼやけさせるそれに土浦は身を任せた。
　柚木の髪が土浦の上に降り注ぐ。手入れのされている髪からはほのかに甘いような香りがした。サラサラとすべるそれが土浦の頬を撫でる。
「俺は優しいぜ」
「…だといいですね」
土浦は上体を起こすと柚木と唇を重ねた。境界の曖昧な熱が融け出すのが感じられるような気がした。


《了》