そのときは目を閉じて?
27:一分間の祈りを
幹部連中のスケジュールは出来る限り把握した。変更がなければ藤堂は自室に引っ込んでいるだろう。群れを率いていながらどこか孤高が抜け切らない男だ。皆に慕われ、藤堂自身もそれを承知している。それでも息が詰まるのだろうか、不意にどこかへ姿をくらましていることがある。ディートハルトはそれを執拗に追ったりはしない。理由がなければはねつける男だ、下手を打つよりはと自粛している。それすら恐れず藤堂に付きまとうのは彼の部下である四聖剣の一人、朝比奈くらいなものだ。ただ、彼ならば多少の無茶も許されるのかと思えば心穏やかではなかったが。
普段と違う空気に肌をざわつかせながらディートハルトはそっと扉を開いた。ノックもせず音も立てずに扉を開いた所為か、中の人物は身動き一つしなかった。固い床にきちんと正座して背中も真っ直ぐ伸びている。そろえられた靴が彼の几帳面さを現しているようだ。
まとう空気が何より違う。同じ空間にいるはずなのに温度が違うような気さえした。玲瓏としたそれは皮膚をぴりぴりと震わせた。祖国ブリタニアに属していた頃ですら感じることのなかったそれがこんなにも近い。硝子のようなそれは一押しすれば粉微塵に砕けていきそうだった。
「おや」
たまらず発した驚いたような声に藤堂が目蓋を開いた。灰蒼の瞳はゆったりとディートハルトを見た。振り向くその仕草すら、ディートハルトの劣情を刺激する。
「…ディート、ハルト」
声はディートハルトが想像していたよりずっとよく通った。朗朗と響く声を聞いているのは自分だけなのだと思うとそれだけで気分が高揚した。
ディートハルトが膝をついて藤堂ににじり寄った。藤堂は臆することもなくそれを見つめている。ディートハルトの長い指先が藤堂の顎を撫でる。指先だけだったそれはすぐに手の平に変わり、指先は揶揄するように藤堂の唇をなぞった。少し乾いた指先が唇をなぞり開かせる。藤堂がされるままに唇を開くとディートハルトがすかさず口付けた。唇が重なった。
「…驚きませんね」
ディートハルトの舌先が藤堂の唇を舐めて離れていった。指先はすかさず襟を緩める。
「感じていたからな」
「だったら殴り倒してください」
響いた声に二人が振り向いた。
腰に手を当てて朝比奈がそこにいた。細い肩を怒らせ、ディートハルトを睨みつけている。苛立たしげに小首を傾げると揃った暗緑色の髪がさらりと揺れた。丸い眼鏡がきらりと煌めく。暗緑色の瞳が怜悧に輝いた。
「朝比奈」
「藤堂さん、そんな奴殴り倒してください」
「おや、乱暴ですね」
「お前にはそれで十分だ」
目を瞬かせるディートハルトを朝比奈がギロリと睨みつけた。ディートハルトが藤堂の肩へと腕を絡めるとその眉がみるみるつり上がる。しなだれかかるように藤堂の方へ体を預ける。藤堂はされるがままだ。体が徐々に傾いで終にはディートハルトが藤堂を押し倒した。
「離れろ!」
飛びかかりそうな朝比奈を横目にディートハルトは唇を重ねた。少し湿ったその感触にも藤堂は驚かない。灰蒼の瞳は妙に静けさに満ちていた。ディートハルトはつまらなさそうに唇を離した。
「驚いたあなたが見たかったんですが」
「気配で判った」
「だからそんな奴は殴ってくださいってば!」
平然としている藤堂と喚きたてる朝比奈との差にディートハルトは堪えきれずに吹き出した。朝比奈がそれに噛み付いた。
「何がおかしい!」
「朝比奈!」
藤堂の思いのほか鋭い声に朝比奈がビクリと肩を揺らした。ぐぅと言葉に詰まりながらも何か言いたげにジェスチャーした。藤堂がため息をついてディートハルトの体を退かす。ディートハルトはそれに逆らわず体を退かせた。
「からかうのはやめてくれ」
「あなたは最高ですね」
藤堂が体を起こす。緩めた襟元から浮き上がった鎖骨が見えた。くぼみに指を這わせる。強く押すと黙って息を詰める。
「たまらない、人だ」
口付けようとしたディートハルトの体が止まった。朝比奈が上着の襟首を掴んで睨みつけている。息の詰まるそれにディートハルトは体を起こした。
メディア関係者だと嘯くわりには締まった体躯をしている。緩みなどなく綺麗な線を描いている。それは衣服の上からでも窺い知れた。藤堂も黙って立ち上がる。朝比奈は歯軋りしながら二人を見ている。
「それでは、これで」
「何か用があったんじゃないのか?」
ディートハルトの暴挙などなかったかのように藤堂が目を瞬いた。ディートハルトは堪えきれない笑みを湛えながら肩をすくめた。くすんだ金髪がさらりと揺れる。
「いえ、暇つぶしのお相手願おうと思っていただけですよ」
ディートハルトの目がチロリと朝比奈を見た。蒼色のそれが面白そうに朝比奈を眺めた。
「十分、お相手していただけたのでね」
朝比奈がツカツカと歩を進め扉を開け放った。
「だったら帰れ」
剣呑なそれに何か言おうとした藤堂をディートハルトが制した。藤堂に向かってウインクするディートハルトに朝比奈の顔がみるみる歪む。
「もう帰りますから」
扉口で朝比奈がディートハルトを睨んだ。ディートハルトはそれに気づいていながら気にも留めない素振りで部屋を出る。朝比奈が荒々しく断ち切るように扉を閉めた。
「朝比奈、なんでディートハルトを」
「あいつの事なんか忘れてください」
藤堂が不思議そうな顔をした。それだけで朝比奈は地団太踏んで歯軋りしたくなった。藤堂が朝比奈の腕を引いた。寝台に座らせるとその手で目蓋を閉じさせる。訪れる闇と静寂。皮膚から感じる藤堂の温もり。
「落ち着け。ゆっくり息を吸うんだ」
藤堂の声は優しく耳朶を打つ。言われるままに息を吸う。ささくれ立った気分が少し収まったような気がした。
「ありが」
藤堂の手が離れて目蓋を開いた朝比奈の眼前に、藤堂の顔が見えた。閉じた目蓋。睫毛がよく見えた。触れ合う唇。熱の融け出していきそうなその感覚に酔った。眼鏡が取り去られて視界がぼやける。唇をふさがれて抗議も出来ない。それ以上に藤堂から口付けられている事実に朝比奈の脳は凍り付いていた。身動きできずに享受する。藤堂の唇がそっと離れていった。当たり前のように唇を舐める舌先の紅さが妙に灼きついた。
藤堂は平然と眼鏡を返す。呆然としている朝比奈など気付かないかのようにそろえてあった靴を履いている。
「――ッと、藤堂さん?!」
「なんだ」
「なんだって、なんだって…! だって、あんな、えぇえ…ッ」
「落ち着け」
目を白黒させる朝比奈に藤堂が呆れたように言った。その口調に朝比奈が冷静さを取り戻す。深呼吸して朝比奈は改めて問い返した。
「なんでキスなんか」
「お前もして欲しいのかと思った。違ったか」
「いえ、嬉しかったです――…って、そうじゃ、なくて!」
思わず即答してから朝比奈はブンブンと顔の前で手を振った。言い募ろうとするのを唇でふさがれる。離れた唇に朝比奈は呆然とした。
「して欲しかったなら構わないだろう。気にするな」
朝比奈の顔がみるみる紅くなる。その変わりように藤堂が目を瞬いた後に笑った。
尖った喉仏が上下する。覗く鎖骨。緩められた襟から覗くそれらに朝比奈は目を奪われていた。不満げに唸ると藤堂がすまんと謝った。
「精神を統一すると、鋭くなるみたいでな」
「へぇ」
朝比奈は手を伸ばした。真意を知りながら藤堂はその腕に体を絡め取られていく。
「じゃあオレも精神統一しようかな」
「集中力がつく」
朝比奈が笑みを浮かべた藤堂の唇を奪った。灰蒼の瞳が驚いたように瞬くのをこれ以上ないほどの歓喜の中で、朝比奈は見つめた。
《了》