意外な逃走経路
意外な伏兵
26:窓から逃走
夜闇が辺りを包む。何者ともつかない鳴き声が空気を震わせ、家々の明かりが瞬く。夜も遅くなったこの時刻では明かりのついている家も少ない。間延びしたその間隔に目を眇めながらフランシスコは通いなれた家へ向かう。冷たい石畳で足音は硬質に響いた。響く足音に冷や汗が出たが扉の向こうに動いた気配はない。
そっと扉を開く。部屋の明かりは消されていて窓は開いている。開け放された窓から夜闇は大胆に滑り込んで部屋の中を塗りつぶしていく。それでも闇に目が慣れてくるとベッドの上に丸まっている人影が見えた。手に持つ明かりをかざす。鳶色の髪と眉の上から走る裂傷が目に付いた。その傷はキュリオの目蓋を覆って二度と目蓋を開かせることをなくした。肉色の傷が焔の橙に染まりてらてらと発光したような光を帯びた。
フランシスコは明かりを吹き消すとそれをテーブルの上においてベッドに乗った。ギシリとベッドが軋む。キュリオの上に屈みこむと裂傷に舌を這わせる。皮膚の薄いそこは感覚が過敏でぴくぴくと目蓋が震えた。一瞬寄った眉根が開き、とろんとした目が覗く。月明かりでも十分それが見て取れた。芥子色の瞳は夜闇を吸って鳶色や濃灰色へ色を自在に変えた。うっすらと開いた目が見開かれた。フランシスコは構わず唇を重ねる。
月の光を浴びたフランシスコの肌は光を帯びているかのように青白かった。起き上がろうとするのをフランシスコが押さえつける。
「ん、ん――ッ!」
唇を離すとキュリオの喉が喘ぐようにして息を吸った。ヒューヒューとした音が聞こえてくる。それでも伸びた腕がフランシスコを突き飛ばした。たまらずベッドからフランシスコが落ちた。白い頬を膨らませてフランシスコが抗議する。
「いったいですねぇ」
「お前、何しに来たんだ…ッ」
キュリオが唇を拭う。フランシスコはフンとそっぽを向いた。月光が部屋を照らす。フランシスコはさりげなく扉口をふさいだ。退路を断たれたことに気付いたキュリオが苦々しげな顔をする。開け放たれた窓の脇でカーテンがはためいた。
フランシスコが長い髪を背中へ払う。クリーム色の髪は夜闇に染まって淡い青の艶を帯びた。蘇芳色の瞳は血色に煌めいてキュリオを油断なく窺っている。
「観念したらどうですか」
「冗談じゃない」
就寝のために緩めた襟をキュリオが片手で直す。浮き出た鎖骨が服の奥に隠れ喉仏も目立たなくなる。濃灰色へ色を変えた隻眼が潤んだように煌めいた。
じりじりと間合いを詰めるフランシスコとキュリオは油断なく距離をとる。フランシスコはそれを面白そうに眺めている。
「逃がしたりなんかしませんから」
「眠らせろ」
「あなたしだいです」
フランシスコの瞳が猫のように煌めいた。刺すような視線を肌に感じる。思わず襟を確かめる様子に哂う。
フランシスコがその白く細い手を差し出す。にっこりと柔和そうに笑うその表情が営業用だと、付き合いの長いキュリオは知っている。
「観念してください」
キュリオの足が床を蹴った。開け放たれた窓からその身を躍らせる。幼い頃から悪戯で鍛えられた運動神経がものを言った。軽やかに着地するキュリオをフランシスコは窓から身を乗り出して見た。
「なんてこと…」
舌打ちしそうだったフランシスコの顔が不意に笑った。窓の桟へ肘をついて見上げてくるキュリオを見下ろしている。
「キュリオ、いい気にならないでくださいね」
「は?」
反転して駆け出そうとしていたキュリオの体を衝撃が襲った。壁に叩きつけられて息が詰まる。思わず閉じた目蓋を開くと、月に照らされた薄闇の中で黒色がたゆたう。マントを払って白い両腕が伸びる。ターコイズの瞳は海面のように揺らめいた。
目を眇めて皮肉げに笑い、細い指先をキュリオの頬から唇へと滑らせる。
「…ティ、ボルト…!」
「気付くのが遅い。のんきな奴だなお前は」
白い肌の上を月明かりが移ろう。唇の妙な紅さが目に付いた。そんな唇が近づいたと思った瞬間、重なった。少し火照っているのか熱いその感触に息を呑む。
「俺には関係ないんだがな」
ティボルトが楽しそうに哂った。蒼とも碧ともつかない色の瞳が眇められた。
「お前を逃がすと面白くない」
「賛成です」
いつの間にか近づいていたフランシスコの腕がキュリオの腕に絡んだ。
「捕まえてくれて、どうも」
「謝礼は」
「いくら欲しいんですか」
「俺も混ぜろよ、どうせ抱くんだろう」
頭を下げてお帰り願うフランシスコの様子に気付かない振りをしてティボルトはキュリオの体に腕を回した。その手が肩から背中、腰へと位置をずらして撫でる。肌のざわつく感触にキュリオが身震いした。それを見たティボルトが楽しそうに笑った。
フランシスコが少し考え込むような仕草を見せる。キュリオにとってはどっちに転ぼうがろくなことにはならない。二人の腕を振り解いて毛布に包まりたかった。
「仕方ありませんね」
ため息と共に妥協を吐き出したフランシスコにティボルトが笑んだ。
「持ちつ持たれつだな」
「ちょっと待て、俺の意志は」
「ぐだぐだ言うなよ、どうせ楽しめる」
ティボルトの唇がキュリオの唇を奪った。
ティボルトの意外と長い睫毛が見えた。髪と同じ黒色が濡れたような艶を帯びている。
「付き合えよ」
フランシスコが唇を尖らせた。不満げなそれをティボルトが哂う。
「いくらあなたでもそう何度もキスしないでくれますか」
「キスくらい軽いもんだろう。どうせそれ以上のことをするんだ」
「なッお前ら…!」
泡を食うキュリオをよそに二人は涼しい顔だ。フランシスコがにっこりと笑った。
「覚悟してくださいね」
キュリオがひぃッと息を呑む。ティボルトはそ知らぬ顔でキュリオの腕を引く。フランシスコもそれに便乗して暗がりへ体を躍らせた。
「まッ、待て、お前ら…!」
キュリオの悲鳴のような呼びかけに応えるものはいなかった。
《了》