月を見るとよみがえる
あなたの言葉
あなたの感触
22:女の横顔
夜に染まった景色は昼間と違う顔を見せた。駅から離れれば人気はぐんと減り、二人分の足音だけが硬質に響いた。整備された道路は黒く染まり、思い出したように街灯に照らされる。人気のないそこでオラクルが腕を絡めてきた。驚いたように目を向けるとオラクルは絵に描いたようににっこりと笑っていた。
オラクルのまとう雰囲気はどこまでも穏やかで、見上げるような長身すらときに忘れてしまいがちだ。威圧感が微塵もないのは意外と華奢な体躯の所為もあるだろう。茶色の髪をさらりと揺らしてパルスを見つめてくる。白いうなじが街灯に反射して仄白く光を帯びた。
「ごめんね、こんなに遅くなっちゃって」
窺うように見上げてくる視線は小動物のそれだ。高い背を屈めてパルスに目線を合わせる。パルスはため息と微笑を同時に吐き出した。
「女じゃあるまいし、構わない」
パルスの紅い瞳が紅玉のように煌めいた。通った鼻梁と凛とした雰囲気。それが少し和らいでオラクルを見つめ返した。オラクルはそれに初めて安堵したように笑った。肩をなでおろす仕草が彼を実年齢より歳若く見させた。
髪と同じ茶褐色の瞳が夜空を見上げた。秀でた額に黒子がぽつんとある。それは聖なる証のように神々しく目に付いた。
「月が見えるよ、パルス」
パルスもつられたように夜空を見上げた。月が影を宿しながら光り輝いている。隣のオラクルを見れば、飽くこともせず月を眺めていた。その口元には微笑すら浮かべている。人気のない空気はりぃんと耳鳴りのように音が響く気がした。
「知ってる? 月の模様って月を見る地域によって違うんだよ」
「…そうなのか」
パルスは慌てて目を空へ向けた。仄白いオラクルの皮膚はそれだけで発光しているように白い。茶褐色の瞳は水晶のように潤んだように煌めいていた。その残像がパルスの網膜に灼きついた気がした。見上げる夜空すら気もそぞろだ。耐えかねて目蓋を閉じると、夜空の星とオラクルの顔とが二重に見えた。
空気の流れを皮膚で感じた瞬間、ふわんと触れた。柔らかなそれが唇なのだと気付いて目を開けると閉じかけたオラクルの目が見えた。長い睫毛までもが茶褐色だ。驚きに目を見開くパルスをよそにオラクルはさらに唇を合わせてきた。からかうように濡れた舌先がパルスの唇を舐めて離れていった。
オラクルが悪戯っぽく微笑んだ。
「目を閉じたりなんかしちゃだめだよ」
パルスの白い頬がみるみる紅く染まる。瞳の紅さが際立った。
「だからって、キスなんて…!」
触れる唇。まだ熱が残っているような気がしてパルスの指先が震えた。パルスが一人で泡を食っている間にオラクルは月を見ていた。
ため息をついてオラクルの目線を追う。パルスのすぐ上の兄であるオラトリオと顔のパーツはよく似ているのに、まとう雰囲気がまったく違う所為かその類似は思ったよりずっと気付かれない。
「カニに見えたり、女の人の横顔に見えたりするんだってさ」
オラクルはグラフィックの仕事をしている。その所為か構図などに対する感性は驚くほどの鋭さを見せるときがある。オラトリオと組んで仕事をしていると聞いていた。
「女の、横顔」
「そう、美人かな」
楽しげなその顔にパルスは吐息と同時にわだかまりを吐き出した。パルスが歩き出す。オラクルの手を乱暴にとって引っ張って行く。オラクルはされるがままだ。
「え、パ、パルス?」
「もう夜も遅いんだ、帰るぞ!」
パルスの日に焼けてない肌が紅く染まっているのが見えて、オラクルはこっそりと笑った。長い黒髪は濡れ羽色に艶めいて輝いた。うなじの辺りで一つにくくられた髪がパルスの動きにあわせてサラサラと尻尾のように揺れる。その髪を指に絡めて、オラクルは唇を落とした。石鹸の香りがふわりとする。なびく髪は流水のようにオラクルの指先に絡んだ。
パルスがクルンと振り向いた。その拍子に髪がするんと解けてその動きのままに流れた。
「あ、解けちゃった」
残念そうに指先をうごめかせるオラクルの様子にパルスは肩をすくめた。
「髪くらいどうって事じゃないだろう」
「でもせっかくキスしたのに」
「そんなことしてたのかッ」
あ、とオラクルが口をふさぐ。パルスの目元がうっすらと紅く染まった。離そうとするオラクルの手を、オラクルは再度掴みなおした。細い指先。その指先が数々の作品群を生み出しているのだと思うとなんだか不思議な気がした。
住宅地を突っ切り、あっという間に家の前に着く。オラクルは残念そうに目を眇めた。
「あぁ、ついちゃった」
オラクルの唇がパルスの頬に触れた。のせるだけの甘いそれにパルスは言葉も出ない。
「じゃあね、また今度。パルス」
ひらひらと手など振りながらオラクルは離れていく。それを呆然と見送るパルスの後ろで扉が開く音がした。
「何してんだ、お前」
探るような目を振り切るように、オラトリオの咥えていた煙草を抜き取って踏み潰す。
「家で吸うな」
「へいへい」
家の中へと踵を返すパルスの背中をオラトリオは意味深に見つめた後、オラクルの消えた方向に目をやった。顔のよく似た従兄弟が意外としたたかなのをオラトリオは知っている。オラトリオはポケットから新しい煙草を抜き出すと火をつけた。ふぅッと紫煙が吐き出される。夜空に消えゆく煙を眺めながらオラトリオはクックッと笑った。
《了》