あなたに手を引かれて
あなたの手を引いて
聞いた声は何者ともつかない何か
21:鵺のうた
空に星が瞬き月が光を帯びる頃合。カサリと茂みが音を立てた。警護をやり過ごすと人影が小石を拾い、一室の窓へとそれを投げた。こつんと小石が当たり、からりと窓が開く。明かりをかざす人影が見えた。
「キュリオ?」
キュリオが手招きだけで早く来いと急かすと少女じみた顔が引っ込む。フランシスコが降りてくる頃合を見てキュリオも場所を移動する。裏口からそっと出てくるフランシスコを利かん気の強そうな顔が待っていた。
手元にわずかな明かりを持ち、茂みに隠れるようにしてフランシスコを待っている。
「寝たかと思ったぜ」
「ごめん、ちょっと本を読んでたものだから」
警護をやり過ごしながら二人が夜道を歩き出す。まだ幼い年齢であることもあって夜道を歩いた経験は二人にはほとんどない。大抵リューバが引く馬車に乗っている。二人の親は大公に仕える身だ。キャピュレット家家臣としてそれなりの財力や権限を持っている。夜道を馬車で走る頃は大抵眠っていた所為か二人の足は慎重だ。
「ねぇ怒られないかな」
恐る恐る歩を進めながらフランシスコが気弱な声を出した。細い声がすぐにでも口を開けて待っている闇に飲み込まれてしまいそうだった。キュリオはチロリと目を向けたがすぐに前方へ目線を戻した。手元と足元のみの明かりだ。慣れていない上に警備の大人の目を誤魔化している。気を抜くことはできなかった。
「たぶん、殴られる」
大公家臣の一族は総じて厳しいしつけを受けている。こんな時間にこんな年齢で外出したとなれば父親から拳骨の一つも食らうだろう。
「怖くないの」
「じゃあ帰れよ」
「…や、やだよ!」
フランシスコがひしっとキュリオにしがみつく。細いその指先がキュリオの腕をしっかりと握り締めている。フランシスコの白い顔が緊張の所為か青白い。紅く熟れたような唇も噛み締められて色をなくしている。かたかたと震える指先を握り締めて隠している。
キュリオの方もフランシスコにそう言った手前隠してはいるが内心かなり慄いている。明かりを持つ手が震えないか気が気でない。それでもしなやかに伸びた脚はズンズンと歩を進める。フランシスコ同様、キュリオだってこんな時間の外出は初めてに近い。リューバも護衛もないこの状況では何か起きても自分たちで解決するしかない。キュリオの喉がゴクリと鳴った。
くすっと笑う気配にキュリオはフランシスコの方を見た。フランシスコは目を眇めて笑っている。腕を取って体を寄せてくる。白い手がキュリオの胸に当てられた。
「ドキドキしてる。緊張してるの」
フランシスコの顔はいくらか色を取り戻している。白い頬が薔薇色に染まっていた。試すようにキュリオを見上げてくる。蘇芳色の瞳が橙を帯びて焔のように揺らめいた。
「馬鹿いえ」
「鼓動が早鐘みたいだ」
キュリオはフランシスコの手を払い落とした。キュリオが空いた手をフランシスコの胸に当てる。伝わる鼓動は平素より早く強かった。キュリオが笑う。
「お前こそ。ドキドキしてるだろう」
歩くうちに目的地に着く。キュリオが明かりをかざすとその片鱗が見えた。整備された墓地だが放っておかれたままの墓石や十字架が妙な威圧感を放っている。刻まれた名前は恐怖を煽る以外の何物でもない。見知らぬ名前の下に見知らぬ骸が眠っているのかと思うと底知れぬ恐怖がこみ上げてくる。それでも二人は生唾を飲み下しながら歩を進めた。黒々とした闇が二人の行く手に漂う。それでも墓地の最奥まで行くと立派な墓があった。墓というよりは塚や神殿に近い。柱と屋根が照らされ、端々に黒々とした闇が口を開けて待っている。キャピュレット家の代々の墓だ。明かりを浴びたアイリスは白い花弁を橙に染めて揺らめく。昼間に見れば神々しいそれらは時間が違うだけでこんなにも恐ろしく見える。
フランシスコがアイリスを一つ摘んだ。仲間内では度胸試しの証拠が必要となる。フランシスコはいくらか誇らしげにそれを見せた。キュリオもほっと息をつく。
「つんだよ」
フランシスコが唇を重ねてきた。焔色の唇が柔らかくキュリオの唇に触れた。フランシスコの長い睫毛が見える。クリーム色の髪がなびくのが視界の端に見えた。
「自慢できるね」
「お前と一緒だけどな」
二人がクックッと笑い合う。明かりの範囲内で二人は声を殺して笑いあった。
不意にバサバサと鳥が飛び立つような音がして二人は弾かれたようにそちらを向いた。夜闇の所為で何があるのか判らない。キュリオが恐る恐る明かりをかざした。その手が震えている。フランシスコもキュリオの体にしっかりとしがみついてそちらを固唾を呑んで見守った。ただ無味乾燥な墓石があるだけだ。けれどそれらは最早すっかり意味を変え、恐ろしいものとして二人の目に映った。
「なんだよ」
キュリオが強がるように声を出した。刹那、布を引き裂くような不気味な声が辺りをつんざいた。
「ひッ…」
キュリオがたまらず腰をぬかした。フランシスコも一緒になってその場へ座り込んでしまう。二人の体がカタカタと音を立てそうなほど震えた。手に持っている明かりがぶれる。鳥とも獣ともつかない声だ。
「キュ、キュリオ、ど、どうしよう」
そう言うフランシスコも歯の根があっていない。白い肌は青くなって蒼白いほどだ。紅い唇も色をなくして震えている。キュリオは生唾を飲み込むと意を決したように前方へ視線を据えた。
「誰だッ!」
声が殷々と響く。応えはない。二人は固唾を呑んで成り行きを見守った。辺りは嘘のように静まり返っている。飛び立ったものも気配を消して二人の呼吸音と鼓動だけが妙に耳元で響いた。
「なんだ――」
ふぅッとキュリオが息をついた瞬間、何者ともつかないけたたましい鳴き声が空気をつんざいた。
「うわぁぁぁぁぁッ!」
どちらからともなく悲鳴を上げて踵を返した。体をすばやく反転させて駆け出す。手元の明かりはいつの間にかなく、闇が二人を包み込む。
「やっ、やだぁ、なんで? なんで?!」
「知るかッいいから走れ!」
フランシスコが振り向こうとするのをキュリオが引き止める。その間にも二人の足は止まらず駆けた。後ろを窺い見るキュリオの目が潤んでいた。芥子色のそこからぽろぽろ涙が零れている。
「う、うわッ」
がくんとキュリオの体がバランスを崩した。ズザッと音を立ててキュリオが転げる。
「キュリオ!」
フランシスコが足を止めた。その間にもキュリオは跳ね起きて駆け出す。その膝小僧が赤く擦り剥けていた。流れる血もそのままに駆け出してくる。
「大丈夫?」
「馬鹿ッいいから早くッ」
思わず速度を緩めるフランシスコの手をキュリオが引いた。つないだ手がひどく貴重な気がしてフランシスコの心から恐怖が消える。この温かい手をつないでいるだけで。
二人の家の位置から見て分かれ道に当たる場所にいたって初めて二人は足を止めた。荒い呼吸に話す余裕すらない。明かりがないせいか月明かりしか頼りがない。
「じゃ、じゃあね、キュリオ…」
「おぅ、じゃあな…」
キュリオが生唾を飲み込むのが見て取れた。二人は恐る恐る手を離してそれぞれの家路へついた。
翌朝はこっぴどく叱られ、しばらくの間の外出禁止令が出た。家に仕える召使のだれそれが見ていたとかの証言の積み重ねでフランシスコが夜中に外出していたことがばれた。そこへキュリオが訪れてくれた。外出が禁止されていても友人同士の訪れは召使たちが大目に見てくれた。キュリオの頬に湿布が貼られている。
「どうしたの、それ」
「親父に殴られた」
キュリオのほうでも夜半の外出がばれたらしく、父親にひどく叱られたとキュリオが嘯いた。
「ねぇ、昨日の声だけど」
キュリオが目線だけを向ける。二人しておびえて駆け戻ってきたなど不名誉なことに変わりはない。それでもフランシスコは持てる知識を総動員した。
「鵺じゃないかな」
「鵺?」
「伝説の化け物鳥。夜に不気味な声で鳴くんだって」
「へぇ…」
キュリオがしぱしぱと目を瞬いた。素直に感心するところは可愛げがある。鳶色の髪が風になびいて揺れた。芥子色の瞳が聡明にフランシスコを見つめてくる。
フランシスコが頭を押さえた。それからばつが悪そうにへヘッと笑う。
「僕も打たれた。拳骨で思いっきり」
「俺なんか平手だぜ。拳じゃないだけいいけどさ」
キュリオがツンツンと腫れた頬をつついて笑った。二人でクックッと笑い合う。キュリオの目がフランシスコの机の上に止まった。
「お前、それ」
「あぁ、なんだかしっかり握り締めてたみたいで」
少ししおれたアイリスが机の上に活けられていた。キュリオがにまっと悪戯っぽく笑った。
「証拠はあるな。自慢できるぞ」
「二人して逃げ帰ってきたけどね」
二人して声を立てて笑った。フランシスコがキュリオの唇を奪う。柔らかなそれにキュリオは応えた。触れ合うだけの甘いキス。
「でも楽しかったな」
キュリオの言葉にフランシスコはにっこりと笑った。
《了》