輝きを放つそれらは
12:夜光虫
藤堂が訪れると少年が足取り軽やかに駆け寄ってきた。もうそろそろ辺りも夜に沈もうという頃合だ。赤褐色の髪を揺らして少年が藤堂の手を引いた。大きな萌葱色の瞳が煌めいていた。子供しか知らないような道をたどっていく。藤堂は体を屈めたりまたは飛び越えたりして少年の後を追った。
唐突に目の前が開けた。少年がにっこりと笑んでいる口元が見えた。少し前から耳鳴りのように響いていたそれが潮騒なのだと知る。さざめく波音が奥底を揺らすように響いた。
「ほら、綺麗でしょ、先生」
黒い海面に煌めくもの。仄白いそれらは目に灼きついた。
「夜光虫か」
「そうなんですか」
少年がいつの間にか藤堂のそばまで来ていた。おずおずと触れてきた指先は叱られないと見るや大胆になった。腕に絡み体を寄せてくる。子供体温な体は少し火照っているかのようだった。藤堂は好きにさせていた。もとより早々無茶はしないと知れている間柄だ。
「朝比奈がそんなようなことを言っていたな」
ムッと息を詰めるのが気配で感じ取れた。目線を向ければ怒ったように輝く海原を睨みつけるように見ていた。
「スザクくん?」
スザクがしゃがみこみ、つられるように藤堂も腰を下ろす。俯けていたスザクの顔が真正面から藤堂を見た。大きな目が仄白い輝きを浴びて発光しているようだった。
「先生、わがまま言ってもいいですか」
藤堂は闇の中で目を瞬いた。こんなふに予告することはスザクらしくない。それにワガママだといわれては身構えざるを得ない。無理を通す性質でないことは付き合いの中で知れている。
「…なんだい」
問い返しの返事にスザクの手が伸びた。胸倉を掴んで引き寄せる。スザクの顔が闇の中でもよく見える。
「オレといるときはオレのこと考えてください!」
その甲高い声は泣き叫ぶように夜をつんざいた。何か言おうと開いた唇の隙間に舌が潜り込んでくる。突然のことに対処できていない藤堂の体をスザクは体重をかけて押し倒した。
「――…ッ、は…」
離れた唇。紅い舌先が艶めき夜闇に暗緑色となった目が潤んでいる。
「先生」
熱い舌先が顎を伝い首筋へと下りていく。幼い手がもどかしげに藤堂の襟を緩めた。現れた鎖骨のくぼみへと舌先がすべる。
「スザクくん」
自身の名を呼ぶ喉の震えをスザクは舌先で感じた。抱きついた体は静かでそれがスザクにまざまざと見せつけてくる。
「スザクくん」
藤堂の大きな手がスザクの肩を掴んで押しやった。そのままスザクは膝をついた。藤堂が体を起こす間も身動き一つしなかった。藤堂は正直な話スザクを扱いかねた。もとよりこんな関係が築けるとは思っていない。それ以上に聡明なスザクが何故こんな暴挙に出るのかすら悩んだ。藤堂が窺うように見つめてくるのをスザクは享受した。鳶色の瞳は夜闇のフィルターがかかって黒曜石のように煌めいていた。波の音がスザクの神経を逆立てる。
スザクは体を投げ出すようにして藤堂にしがみついた。その勢いに、藤堂は倒れてくれなかった。ただ静寂な体に規則正しい鼓動。スザクの手がぶるぶると震えた。
――自分はどれだけの存在なのだろうと
試すような言動に、それでも縋るように信じている。
「先生、…ごめん、なさい」
スザクの声が震えを帯びていて藤堂は追求を止めた。突き放さない。抱き寄せもしない。冷たくも見えるそれが藤堂の譲歩の上に成り立っているのだと気付けないスザクではなかった。気付く。だからこそ、それ故に。
「ごめん、なさい」
大きな目が潤んだかと思うと雫が落ちた。細い肩が震えている。それを抱き寄せることは容易い。だがその場の感情に身を任せるほど藤堂は軽率ではなかった。
「早く」
スザクの声が震えた。痛ましいような目で藤堂はスザクを見つめ返す。凛としたそれはスザクの甘えをはねつけた。けれどそれでいいのだとスザクは知っている。スザクの顔が泣き笑いに歪んだ。
「早く大人になりたいです…!」
震える声で言うとスザクの手が藤堂の服を離した。
「スザク、くん」
流れる涙もそのままにスザクが藤堂に口付けた。刹那のことに藤堂が動けずにいるのを見放すようにスザクが突き放して立ち上がった。
「ごめんなさい」
スザクが微笑した。その眦からは涙が次々とあふれ出た。フイと顔を背けるとスザクが駆けだす。その背中を藤堂は呆然と見ていることしか出来なかった。小さな背中はすぐに夜闇に紛れて見えなくなる。
指先がなぞるように唇に触れ顎や首筋へと降りていく。ぬるりと滑るその痕跡は鮮明で灼けつくような強さを持っていた。
「大人、か」
スザクの叫びはきっと鬱積していたものなのだろう。子供時代に感じる自由と無力。目蓋の裏に灼きつくスザクの表情が。早熟な少年。目を向けた海原はいっそ眩しいほどに輝きを帯びていた。
残酷なほどに
時は光を放つ
《了》