不合理なものの結果はきっと
人知の及ばないそこ
100:月読のたまご
夜も更けた頃合いになってルシードは時計を確かめた。ブルーフェザーの面々は、各々が個室を持っておりそこで寝起きする。仕事場と寝床が一緒になっているというのは利便性があると言えば聞こえがいいが上層部はお荷物部署と化したそこへ予算を振り分ける気がないというのが見え隠れした。ルシードは新参者になるだろうが、この建物を建て替えたという話も聞かない。お荷物部署に行き届いた寝床は要らないという消極的な拒否にうんざりした。ルシードはあてどなく字面を追っていた本を閉じると気を使って部屋を出た。蝶番は常に軋み油をさした数など覚えてもいない。魔力を有するという共通項で集められた面々の中でも古参のメンバーは意外に勘がよく侮れない。幸いというべきか目的地まではルシードが拾ってきてそのまま居ついてしまったティセという少女の部屋の前しか通らない。彼女は恐るべき確率でルシードにのみ害のあるドジっ子だ。ティセの失敗の多くがルシードに対してである。ひっくり返ったコーヒーカップはもれなくルシードの頭部から降り注ぐ有様だ。
こつこつ、と静かにノックをしてから返事も待たずにルシードは目的の扉をあけて部屋へ入った。扉を閉じる際に思わず背後を気にするが良い意味で能天気なほかのメンバーたちはとっくに眠りについているはずだった。
「意外と遅かったな」
笑いを含んだ声は心地よく響く低音だ。机の明かりだけがついていてカーテンが開け放されている。焼却炉や盆栽の並んだ棚のある裏庭がよく見える。机に広げられている本は写本などの訓練以外ではルシードが目にすることはないだろう類の本だ。
「なんだよ、カーテンくらい閉めろよ。見られたってしらねぇぞ」
少し抉れた月が窓から見えた。ゼファーは任務の際に右脚に負った怪我が原因で戦闘を含む前線から退いた。その後釜にと、白羽の矢が立ったのがルシードだ。ちょうど良く保安学校を卒業し、その際の適性検査で魔力反応が出たのもまずかった。いきなり室長ポストを与えられてこのブルーフェザーへ叩き込まれた。ルシード本人は花形である第一捜査室を希望していたがそういった条件の重なり具合で、図らずも同郷のゼファーと同じ部署へ身を置くこととなった。ルシード自身、結果的には不本意だがゼファーと同じところで寝起きできるのは願ってもない幸運だった。ゼファーは幼い頃からルシードの一歩先を行く少年で、年長者の少年たちの中でもさりげなく重要な位置に属する性質だった。年上の彼らのすることは新鮮で刺激であり、その波がゼファーを中心に収斂するのを見ている。そのゼファーを追うようにルシードは保安学校へ入学を決めた。
ゼファーが立ち上がろうとするのを制してルシードがそっとそばへ寄りそう。座っていれば気にならないが、身長はいまだにゼファーの方がある。ゼファーの長い栗色の髪を梳く。馴染みの理髪店以外は倦厭するくらい頑固なくせに髪が伸びるのは意外と放っておいている。
「髪、なげぇよな」
「お前だって同じくらいあるだろう」
ルシードも髪は長く腰へ届くほどだ。だが猫っ毛なのか細い髪な所為なのか、ゼファーほどのボリュームはない。髪に唇を寄せるふりをしてゼファーの首筋へ吸いついた。ゼファーは喉元や鎖骨を無防備にさらす黒のシャツを着ており、その上に蝶の羽模様をあしらったコートを羽織っている。ゆったりした袖口や服装の所為で見過ごされがちだが、前線を退いた後も最低限の鍛錬は続けているらしく緩みのない体つきをしている。細く引き締まった手首を掴むとゼファーはぼんやりと外を見ていた。
ルシードは構わずコートを脱がせる。夜闇の薄暗さにゼファーの黒色の上下は融けていきそうだ。それでいて緑柱石のような瞳が潤んだように煌めいている。
「月読を知っているか」
黒いそこにぽっかりと口を空けた月は絵で描いたようだ。えぐれ具合で暦も知れる。月明かりというのは意外に目を射すまぶしさで流星群などと重なるともう運が悪いとしか言いようがない。
「月読? なんだそれ、なんかあれか、月を見て日付とか見るやつか?」
ゼファーの方へ重心を預けようとしていたルシードの思いのほか真面目な回答にゼファーがくすりと笑んだ。
「笑うなら訊くんじゃねぇ」
ルシードはもともと感情を隠さないし言いたいことは意識する前に口にしている性質だ。ゼファーも幼い頃からの付き合いでそれを知っている。それを承知の上で揶揄したり惑わせたりするのだからゼファー相手の約束事はよほどの注意が必要であるのをルシードは何度も痛感した。
ゼファーは博識で正義感もあるし、気配りもうまい。だが問題なのはその人となりだ。ゼファーが意外と頑固で変わり者なのは付き合いが深くなればすぐに判る。だが変わり者と言っても格別害があるかというと、意外とない。ただ無知や失態を指摘されるだけなのだとルシードは了解している。話していて煙にまかれたり話題が飛んだりするのはゼファーの頭の回転が速いからでルシードはそういう気性でないことを少し残念に思った時期もあった。
「月の女神だそうだ。東の方だったか…月読の卵をはらむのはどういったものなのだろうな」
「なんで卵なんだよ。普通に考えたらまんま孕むだろ」
「ルシード、東の方ではな、神は剣を噛んだり目を洗った際にすら生まれているぞ。普通に人が孕むか?」
ゼファーは読みさしのページへしおりをはさむとぱたんと閉じだ。立ち上がってカーテンを閉める。長身のシルエットが刹那に映り消えていく。机の手元の明かりのみが妙に光る。本の豪奢な装丁が見て取れた。それでいてどこか時代遅れなのはそれが古いからなのだろう。
「待て、こっちが孕むのかよ。神同士で孕めよ」
「なるほど、その通りだな」
人を食ったような口調とつり上がった口の端が見える。暗緑色の瞳だけが宝石のように力を持って輝いているかのような錯覚を起こす。ルシードは脱がせたコートを椅子の背へ放ると闇色へ手を伸ばした。触れる直前にはもろく消え行きそうなそれが、触れた刹那から確固たる形を取る。蝶の大柄があしらわれたベッドカバーのかかった上へ押し倒す。ゼファーの趣味は盆栽に石磨きに書の鑑賞、といささか理解に時間を要する事柄ばかりだがポイントさえ押さえれば洗練されている。問題はゼファーの実年齢がそうした趣味を持つには若いというところか。ほかの者が遠巻きにするそれらをルシードは「じじくせぇ」と切って捨てる。だがそれは拒絶ではなく容認なのだと気づけないほどゼファーも馬鹿ではない。だからこそこうした夜の逢瀬へ応じる心意気も生まれようというものだ。
「少年は卵から生まれると言ったのはだれだったかな」
「じゃオレたちも卵から生まれたってか。卵、ね。卵ならオレ達にも孕めそうだよな」
「男が孕むのか」
「お前、昔、男の神からも神は生まれたとか言ってたじゃねぇかよ」
ルシードは幼いころ神話の本を手にゼファーから聞きかじったそれを必死に頭の中で広げた。ゼファーはこらえきれないと言った風に笑った。震える喉の振動は心地よくルシードはそこへ唇を寄せた。
「よく覚えているな」
「お前の卵なら孕んでもいいぜ。むしろオレがお前を孕ませたいくらいだぜ」
「下品だな、ルシード。神話の描写にそんな生々しさは必要ない」
「これからその下品なことする奴の台詞かよ」
黒いシャツをたくしあげれば少し痩せた腹が見える。脇腹を掴めばびくびくと体を震わせる。
「男は生むのは夜の神か? 陰と陽とどっちを生むんだろうな」
不意にゼファーは口付けた。何か固いものをぐいぐいと押し込まれる。少し小粒なそれの鮮烈な甘さと詰まるような喉越しにルシードはそれを嚥下してしまったのを知る。
「…何食わせた」
「卵だと言ったらどうする?」
「テメェを孕ませてやる」
弾かれたようにゼファーは笑った。それでも時間帯や体裁を気遣ってかひそやかな笑いだ。
「飴だ、飴。ちょうど飽きたのでな」
「人に押し付けんなよ…」
「お前なら綺麗な卵をうみそうだな?」
「卵生むとかいうな、ニワトリじゃねぇんだぞ。お前こそ覚悟しろよ」
「本当に孕みそうだな」
ゼファーは苦笑して肩をすくめると一気にシャツを脱いだ。ルシードも上着を脱ぎ捨てる。
「キスしてやろうか?」
「今度は何も食わすなよ」
重なった唇の体温が温んで融けていく感触は心地よく、ルシードは下準備へと取りかかった。その背をしならせる動きすら美しい影絵となって壁に歪み照らされた。生命の営みから外れた交わりの結果が卵であるのはふさわしいような気がしてルシードはひそやかに笑った。そこから生まれるのはきっと人間ではなく。とりとめもないそれを見抜いたかのようにゼファーは意味ありげに微笑んだ。
《了》