底辺を這うようでいて甲高いそれらは
09:どこかで虫が鳴いている
乞われるままに時間を延長して稽古に付き合ったら外はすっかり夜に沈んでいた。何者ともつかない鳴き声が響いている。少年に手を引かれるままに縁側へ導かれる。汗ばんだ皮膚を夜気が冷やした。赤褐色の髪は毛先が元気よく跳ねている。夜闇の中で暗色に変わる。零れ落ちそうなほど大きな碧色の目が藤堂を見上げた。そろいの胴着を着た二人連れが縁側に腰を下ろした。
「先生、すいません、こんな時間まで」
「別に、構わないよ」
一度母屋へ戻った少年が飲物を手に戻ってきた。運動で火照った体をよく冷やされた飲物が冷やしていく。コクリと上下する喉仏をスザクは盗み見るようにちろちろと眺めた。部屋の明かりも点いておらず夜闇は開け放たれた場所から侵入してくる。濡れ縁に腰を下ろした二人の体を冷たい夜が包む。
リリリリと虫が鳴いた。甲高いそれは霧雨の雨音のように体に侵入してくる。雨のように皮膚に染みとおる。聞くともなしに二人は虫の音を聞いた。藤堂から口を利くことはあまりなかた。それでも沈黙が苦にならないだけの好意をスザクは藤堂に抱いていた。凛とした雰囲気。日本刀の切っ先のような。鋭く、それでいて美しい。茶褐色の髪と鳶色の瞳は夜に塗りつぶされて黒色に見えた。黒曜石のように煌めく瞳。飲物を口へ運ぶ仕草は洗練されていて、それはどこまでも優雅と言う言葉の中に。
遠くを眺めるように眇められていた目が不意にスザクの方を見た。その動きにスザクの心臓が高鳴った。優秀な師である藤堂はそれ故に慕うものも多い。藤堂に師事する数多の者の中で自分は一体どの位置にいるのだろうと嫉妬や羨望にも似た思いでスザクは藤堂を見返した。
「どうした、スザクくん」
「先生」
その真っ直ぐな視線に耐え切れずスザクは顔を前へ戻した。それを誤魔化すようにむやみに飲物を呷る。コクコクと喉を鳴らして嚥下するのを藤堂は不思議そうに見ていたがやがて視線を戻した。
「ずいぶん、腕を上げたな」
「本当ですか?!」
呟くような藤堂の言葉にスザクは律儀に食いついた。幼い顔に満面の笑みが広がる。その笑顔だけは妙に大人びたスザクを歳相応に見せた。権力者である父の元では色々な制約や重圧があるのだろうと藤堂は思いをはせた。
「先生と一緒にこんな風に夜空が見れて、嬉しいです」
頬を桜色に染めてスザクが興奮したように言った。藤堂がそんなスザクの様子に淡く笑んだ。
「私もだ」
潤んだような碧色の目が藤堂を射抜いた。潤んだように煌めく瞳。月明かりの中でスザクの肌は仄白く輝きを帯びていた。
「先生…、鏡志朗さん」
意を決したようにスザクの唇が藤堂の名を紡いだ。スザクが体を投げ出すように藤堂に抱きついた。飲物が入れ物ごと地面に落ちる。じわじわと染みを作っていくのが妙に目に灼きついた。子供の早い鼓動が藤堂の皮膚から伝わる。薄い胴着の奥、高鳴る鼓動に二人は身を任せた。子供体温の熱い指先が藤堂の胴着をしっかりと握り締めていた。虫の鳴く音が妙に耳に響いた。時が止まったかのように身動きが取れなくなる。子供ながらも真剣なのだとその端々から感じ取れた。元々藤堂は他人を無下には出来ない気性の持ち主だ。それは相手が子供であっても変わらない。
「きょうしろ、う、さん」
熱っぽく囁く言葉はまだ声変わりもしていない。伸び上がった体。触れる唇は熱かった。藤堂の目が驚きに見開かれていく。子供っぽく紅い唇。大きな目は閉じられて身を任せるようでいてしがみついてくる手が藤堂を責めるように爪を立てた。
ガサリと響いた音にはじかれたように離れる。それでも名残のように唇に触れる。道化た声が二人の間に割って入った。
「何してるんですか、藤堂さん!」
「朝比奈か」
もう藤堂は冷静さを取り戻している。スザクは拗ねたように唇を尖らせた。それでも触れた唇の感触は本物なのだと思うだけで優越感に浸った。
丸い眼鏡が月明かりを反射して白く輝いた。暗緑色の髪と目は黒い艶を放っている。
「どうした、朝比奈」
「藤堂さんの護衛です」
「は?」
藤堂が間の抜けた声を出した。朝比奈は当然のように胸を張っている。藤堂とスザクとそろいの胴着を着ているところを見ると稽古を終えてからずっと待っていたのだろうかと藤堂は思った。朝比奈は軽薄なようでいて妙に律儀で執拗なところがある。
「先生は強いから護衛なんかいらないよ」
「お前みたいな奴がいなけりゃな、ちび」
足をぶらぶらさせながら嘯いたスザクに朝比奈はすぐさま応戦する。癇に障ったらしいのがすぐに知れた。二人の眉根がみるみる寄り、互いを睨みつけている。藤堂だけが訳が判っていない。朝比奈は開き直ったのかずかずかと近寄ってくる。それまで茂みに身を隠していたのか、肩や腕についた葉や小枝を払い落としている。
「お前なんかに護衛されるほど先生は弱くないよ、帰れよ」
「だから言っただろうが、ちび。お前みたいな奴がいるから護衛が必要なんだよ、ちび」
殊更にちびと言われてスザクの顔がみるみる険しくなっていく。訳が判らない藤堂は一体何の話だと問うてみたかったが問うと二人から謗りを受けそうな気がして黙っていた。朝比奈が藤堂にしなだれかかってくるのをスザクが歯軋りして睨みつけている。スザクの目が潤んでいる。藤堂が手を伸ばしかけるのを朝比奈がさえぎった。
握る指先が指の股を撫で、手首の方へと滑っていく。奥底から火照ったような熱が朝比奈の皮膚の奥に眠っているような気がした。じんわりと犯すように熱い指先が藤堂の皮膚の上を滑る。朝比奈の目はスザクの方を向いている。その顔が勝ち誇ったように笑んだ。
その刹那。朝比奈の顔が眼前に見えた。触れ合う熱い唇。火照ったようなそれは藤堂の体を犯した。虫の鳴く音が耳の奥で殷々と響いたような気がした。
「――ッ朝比奈!」
悲鳴のようなスザクの声が響く。じっくりと藤堂の唇を味わった後で藤堂を解放した。その顔が勝者の余裕でもって笑んだ。
「ちびの時間はここまでだよ。ここからはちびには出来ないことをするんだから」
藤堂の首に腕を回して朝比奈が抱きついた。スザクが悔しげに地面に降り立つと地団太を踏んだ。その顔が怒りのあまり涙ぐんでいる。
「あ、朝比奈?」
「藤堂さんは黙っててくださいね」
朝比奈は目線すら向けずにつけつけと言い放った。
「鏡志朗さんは渡さない!」
「馴れ馴れしいよ、ちび。おねむの時間だ、さっさと帰りな」
ぽろぽろと涙を零しながらスザクが駆け出した。その後を追おうとする藤堂の体を朝比奈が押さえつけた。
朝比奈の顔がふいに真摯になった。道化た仕草の多い朝比奈だが真面目な顔をするとなかなかどうして男前だ。だが藤堂は見掛けにだまされてくれたりはしない。
「朝比奈、ああいう言い方は」
「いいんですよ、あのちびにはあのくらいで」
フンと朝比奈がそっぽを向いた。その頬が紅い。目を瞬く藤堂の唇を朝比奈が奪った。再度重なる唇。舌先がからかうように歯列をなぞり、唇を甘く噛んで離れていった。
「藤堂さんは、いつもあのちびのことばっかりですね」
「スザクくんか?」
平等に接しているつもりだった藤堂を朝比奈の言葉が揺るがした。思わず思考にふける藤堂に朝比奈はため息をついた。
「気付いてないんならいーんですけど」
「…分け隔てなく接しているつもりだったんだが」
「変なところ食いつきますね、藤堂さん。あのちびには好きにキスさせたり、下の名前で呼ばせたりするんですね」
つーんと朝比奈が顔を背けた。下唇がわずかに突き出されているのを見ると、拗ねているのか。藤堂がフワリと笑った。
「口付けならお前だってするだろう」
朝比奈の顔がみるみる紅くなっていく。湯気でも噴きそうなほどのそれに藤堂は目を瞬いた。
「反則ですよ、それ。ずるいなぁもう…」
「そうか」
藤堂は平然としている。その藤堂に抱きつきながら朝比奈は目を閉じた。虫の音が妙に響く夜だった。
静かに確実に侵食してくるそれらは
《了》