機会さえあれば
08:お疲れ様のちゅう、おやすみなさいのちゅう、また明日のちゅう
とつとつとつ、と足音軽くフランシスコはキュリオの部屋へ向かう。昼間は時間が空かずに逢瀬の約束が出来なかった。だったらせめて眠る前にとキュリオの部屋へ急ぐ。キュリオは煩わしそうだったが押し付けた元市長の子息の事も気になる。ただの気弱な少年かと思ったらそれは大きな間違いだった。ひ弱に見える外見を承知していて境界線ギリギリまで無理を押し通すしたたかさを持っていた。
勝手知ったる部屋に、フランシスコは遠慮したりしない。
「キュリオーいますか?」
ひょこんと顔を覗かせたフランシスコが固まった。白いペンヴォーリオの手がキュリオの頬に添えられている。唇が深く触れ合っているのが傍目からも判る。ゆっくり離れていく唇。紅い舌先を銀糸がつないだ。その時になって初めてペンヴォーリオがにっこりと笑んだ。その浅葱色の目はフランシスコの方を勝ち誇ったように見ている。
フランシスコの柳眉がぴくぴくと痙攣する。キュリオは少しの間を置いてフランシスコに気付いた。鳶色をした隻眼。驚いたように目が見開かれていく。
「フランシスコ」
「キュリオ」
フランシスコは笑顔を浮かべながらその口元が引きつっている。ペンヴォーリオはキュリオに見えないところで意味ありげに笑って見せた。紅い唇が生意気そうに弓なりに反った。それがフランシスコの意識をかき乱した。
ペンヴォーリオはその片鱗すら窺わせないしたたかさでソファの方へ歩み寄って腰を下ろす。毛布をかぶると上品な声で言った。
「じゃあおやすみなさい」
「あぁ」
キュリオは何でもないように返事をする。それがますますフランシスコの気分をささくれ立たせた。フランシスコの機嫌など知らぬげにキュリオはフランシスコのほうに顔を向けた。
「なんだ?」
「いえ、別に。ところでなんで彼とキスを?」
にっこりと笑っているがその実、腸が煮えくり返っている。長年の付き合いの賜物か、それに気付いたキュリオが後退った。琥珀色の目がキュリオを鋭く射抜いた。
「…いやあいつが」
「彼が?」
キュリオが逡巡する。その合間すら腹立たしい。
「急にお疲れ様って」
「それでキスを」
ふぅん、とフランシスコは不満げに鼻を鳴らした。毛布に包まっているペンヴォーリオは身動き一つしない。すばやく伸びた手がキュリオの胸倉を掴んで引き寄せた。
唇が重なる。驚いて後退るキュリオを追って舌を潜り込ませる。濡れた舌が絡み、卑猥な音が響いた。キュリオの頬が紅く染まる。
「…ッは」
唇を離す頃にはフランシスコの機嫌もいくらか直っていた。片目を眇めて満足げに笑う。
「彼がお疲れ様のキスなら私はおやすみなさいのキスです」
「…馬鹿か」
思わず脱力するキュリオにふんとフランシスコはそっぽを向いた。
クリーム色の髪が部屋に明かりで橙に染まっている。琥珀色の目は炎のように揺らめく。整った顔立ちはある種女性的すらある。その顔が不満げにキュリオを睨んだ。
「それにしてもあんな坊やにキスされるなんて、隙があるんじゃないですか」
普段、キュリオがペンヴォーリオを坊やと呼ぶのを知っての発言だ。殊更に嫌味に言われてキュリオもカチンとくる。鳶色の目がフランシスコを睨みつける。
「お前に関係ない」
「大有りですよ」
フランシスコの指先がキュリオの唇にあてがわれた。よく手入れされた指先は桜色の爪とサラサラとした皮膚をしている。こんな気配りが女性に人気の秘訣なのだろうか。
フランシスコの勢いに押されてキュリオがぐぅと言葉に詰まる。フランシスコは長い髪をバサリと払って誇らしげに言い放った。
「あなたは私のものなんですから」
刹那、キュリオがフランシスコの頭を殴った。キュリオの顔は火でも噴きそうなほど真っ赤だ。フランシスコは不満げに頬を膨らませて殴られた頭を押さえる。
「痛いですねぇ、ひどい」
「お、おま、おまえ…ッ」
「否定するんですか? あーんなことやこーんなことまでして、あんな顔や、そうですねぇ…たまらない顔まで見せておきながら」
「黙れッ!」
キュリオの手がバシンと叩くようにしてフランシスコの口をふさいだ。もごもごとフランシスコが呻く。キュリオの背中を冷や汗が伝った。思わず扉の外を確かめてしまう。
「オーディンたちには聞こえてませんよ。もっとも、貴方がそーいう態度に出るなら声の大きさを変えてもう一度」
「やめろッ!」
しれっと言い放つフランシスコにキュリオが噛み付く。フランシスコは意味ありげに目蓋を閉じた。キュリオは首を傾げてそれを見ている。
「キスしてくれたら言わない」
「…お前な」
キュリオはゴクリとつばを飲み込んだ。長い髪の所為もあってか黙っているフランシスコは人形染みて美しい。白い肌と紅い唇。閉じた目蓋に触れると柔らかな眼球の感触がする。そのまま唇に指先を滑らせた。ふわんと柔らかな感触。キュリオは恐る恐る唇を重ねた。ちゅ、と濡れた音をさせて口づける。その瞬間、伸びた手ががっしとキュリオの頭を固定した。舌先が唇の隙間を縫って潜り込んでくる。キュリオが引き剥がそうとする腕を押し退ける。
たっぷりと味わった後にキュリオの口腔から退いていく。覗いた紅い舌先にキュリオは頬を染めた。フランシスコは満足げに笑んだ。
「ありがとうございます」
何もいえないキュリオの様子にフランシスコはゆったりと笑んで部屋を出ようとする。
「待て」
「はい? なん」
そこでフランシスコの言葉が途切れた。唇の奥に言葉の続きが飲み込まれていく。男の体でも数えるほどしかない柔らかな箇所が触れ合う。触れ合うだけですぐに離れていった。キュリオの頬が紅い。
「じゃあ明日」
キュリオはフランシスコの体を部屋の外へ押し出しピシャンと扉を閉めた。真っ赤なキュリオの顔が残像のようにフランシスコの網膜に映った。
「…あぁ、また、明日」
込みあがる笑いにフランシスコは身をよじって笑った。最初の頃の機嫌の悪さなど疾うにどこかへ置いてきてしまったようだ。触れ合った唇に触れながらフランシスコは自室へ引き返した。
フランシスコが引き返す足音に耳を澄ませる。顔が火照って熱い。耳まで真っ赤になっているだろう事が知れる。触れた唇に指先を滑らせる。驚いたように見開かれた琥珀色の目。たまには驚かせたって構わないだろう。いつもいつもこちらが驚いているのだ。
ふと目を上げると寝転がったペンヴォーリオと目があった。少し頬を膨らませて不満げだ。
「ずるいなぁ」
「さっさと寝ろ!」
キュリオは部屋の明かりを吹き消すとベッドに横たわった。ごろりと寝返りを打ち背を向ける。その頬が熱く火照っていた。
機会さえあれば何度でも
あなたに触れたいの
《了》