そんな、優しさ
05:子守唄
白い目蓋がピクリと痙攣した。うっすらと開いた目が瞬いて開く。薄氷色の目が部屋の明かりに眩しそうに眇められた。手が伸びて習慣的に眼鏡を探す。見慣れない天井に首をかしげながらも眼鏡を見つけて身じろいだところで記憶がよみがえってきた。
「…雨竜」
聞こえてくる鼻歌。細い影が竜弦の寝そべるベッドまで近づいてきた。縦の部分にだけフレームのついた眼鏡。深い蒼色の瞳。艶やかな黒髪。背丈は自身とそう変わらない。
「起きたのか」
差し出されるコップを竜弦は素直に受け取った。冷たい水が喉を通って胃の腑に落ちていくのが判る。かすれた喉を水が潤した。体を起こすと奥底が鈍く痛んだ。
「まだ夜中だよ」
にっこりと微笑んだ顔はただ優しい。普段のきつい雰囲気はない。真顔になれば怜悧な容貌をしていると知っている。下着にズボンと雨竜にしては珍しく砕けた格好だ。腰骨の先端が覗いている。
竜弦はサイドテーブルの上に飲み差しのコップを置いた。敵視されている竜弦からしてみれば雨竜のこんな顔を見ること自体が久しぶりだ。こちらを睨みつけてくる顔なら何度も見ている。ただ穏やかに微笑む顔はそれだけで稀な気がした。
「…ずいぶん、優しいものだな」
首を傾げて言ってみると雨竜が目を瞬いた。
白く伸びた首。尖った喉仏。綺麗に中央のくぼんだ浮き上がった鎖骨。日に焼けていない白い肌。灰蒼の艶を放つ髪。淡い薄氷の色をした瞳。枕元に投げ出されていた眼鏡に指先を引っ掛けてかけなおす。唇の紅さが目に付く。わずかに笑んだ顔。幼い頃からこの笑顔を見ようとして苦心したものだ。苦手な運動も勉強も幼いながらに頑張ったものだと思い出す。
「…竜弦」
竜弦の顔が不思議そうな顔に変わる。慌てて雨竜は目を逸らす。まさか見とれていたともいえずに黙り込む。冷たい顔が崩れてその様はただ美しい。清冽な表情が砕けて親しみが増す。
「雨竜?」
「――な、なんでもないッ」
背けた顔が火照る。紅潮しているだろうことがその熱から知れる。竜弦の口元が笑んだ。
「照れているのか」
「違うッ!」
反射的に飛び出した言葉。それでも竜弦はすべてを知っているかのように笑った。その顔がひどく愛しいもののような気がした。
ひとしきり笑って竜弦が目元を拭っている。細い指先。自身とは違い完成された肉体。白い肌の上には情交の跡が色濃く残っていた。紅い鬱血点。首筋や胸、痩せた腹の上に散らばっている。下肢だけを布団にうずめた格好で体を起こしている。布団に隠れて見えない内股や下腹部にはもっと紅い点が散らばっていることだろう。
雨竜は振り払うように頭を振った。収まりかけた熱がまたぶり返してきそうだった。
「優しいな、お前は」
見透かしたかのように言われて雨竜はへそを曲げた。フンと顔を逸らす。
「たまにはね」
クックッと堪えきれずに竜弦が噴き出した。雨竜の頬が見る見る紅くなっていく。
「そうか、たまに、か」
「そ、そうだよ」
竜弦の腕が伸びて雨竜の下顎を捕らえた。引き寄せられてベッドに手をつく。唇が緩やかに重なった。熱を帯びたそこは、そこから融けだしてしまいそうな錯覚を呼び起こす。
雨竜の蒼い目が見開かれていく。閉じた白い目蓋が間近に見えた。睫毛すら雪のように白く銀の艶を持っている。意外に長いそれは肌の白さとあいまって気付かなかった。唇はあっさりと離れていく。それでも名残のように余韻が残った。
「雨竜?」
視界が見る見る滲んだかと思うとぽとぽとと雫が落ちた。潤んだ目。眼鏡を取ると零れる涙を乱暴に拭う。竜弦は不思議そうだ。それでも罪悪感があるのか雨竜から目を離さない。穏やかに笑んで竜弦が雨竜を抱き寄せた。温かな腕に抱かれて雨竜は目を閉じた。
「お前らしくもないな」
散々啼かせた体だ、照れることはあっても涙が零れることなどないはず、だった。竜弦の言葉の韻を感じながら雨竜は言葉を紡いだ。
「いいだろう別に。…大体僕らしいって、なんだよ」
「それもそうか」
温かい。規則正しい鼓動が抱き寄せられた胸から聞こえる。人形染みて白い体躯。触れれば壊れそうなそれは陶器のようだが、陶器よりずっとしなやかだ。
強く想う
強く願う
この温もりがまた
自分に触れてくれますようにと
この温もりがまた
消えずにこの腕の中にありますようにと
竜弦はしがみついてくる雨竜を肯定しないが否定もしない。望みはしないが拒否もしない。ただ、受け入れてくれていた。雨竜は頬を摺り寄せる。温かな、体。
子守唄を歌ってくれるような優しさはなく
ただそばにいてくれるだけの優しさで
《了》