それは確かに、静かに、確実に
02:満月
カシャンと硬い音が夜闇の中で妙に響いた。それにも怯まずフランシスコは梯子を上り屋根の上に上がる。石造りの家が多く屋根も冷たく固い。だがそれがフランシスコの足音を消した。鼻歌を口ずさみながら真ん中ほどまで行くと腰を下ろした。長い髪を払いのけて夜空を見上げる。眼下に家々の明かりが見えた。持ち込んだ酒瓶の栓を開ける。小気味いい音をさせて酒の芳香が漂う。少し奮発したそれはコッソリ購入したものだ。
呷ると喉越しもいい酒が腹の中へ滑り落ちていく。開いた襟元から覗く喉が上下した。鎖骨も露な白い胸の上を、口の端から零れた酒が伝い汚していく。少し甘いそれは体に染みていく。手足まで満たされるような充足感。火照るような感覚に知らずに目が潤んだ。とろんとした瞳が夜の街を見下ろした。
「フランシスコ?」
聞きなれた声に目を向ける。手をついて屋根の縁まで這って行くと身を乗り出し声をかける。
「キュリオ!」
くるりと精悍な顔が振り返る。へらへら笑って手を振るフランシスコの様子にキュリオがあからさまに肩をすくめた。呆れたため息が聞こえてきそうだ。
「何している」
「上がっておいでよ。怖いわけじゃないだろう」
何か言いたげなキュリオを残してフランシスコはさっさともとの位置へ戻る。数瞬の間を置いて梯子が軋む音がした。
「お前な…」
苦々しげな声と共にキュリオの顔が現れる。にっこり笑ってそれを受け流すとフランシスコは酒を呷った。さらりとした喉越しの酒が胃の腑へと落ちへいく。
「どうだ、一口」
「お前、こんな時間に」
「だからこそだろう。晩酌だよ、付き合わないか」
それでもキュリオは厭うことなくフランシスコの隣へ腰を下ろした。もう一口呷ると眼下の明かりに目をやる。
「綺麗だろう、昼間じゃあ見られない。たまには酒くらい構わないだろう?」
石造りの家々は明かりがあまり漏れてこない。それだけに窓の明かりは煌々と激しく、目に突き刺さるような強さを持っていた。
酒の所為か体が火照る。襟元をくつろげるのをキュリオの目が見ていた。
「色っぽい?」
「馬鹿か」
ズバリと言い返されてぷーと頬を膨らませる。キュリオの手が酒瓶を取った。思い切り呷る姿が妙に男らしい。口の端から雫が零れる。顎から喉へと伝うそれから目が離せなくなる。
くらりとしてキュリオが初めて気付いた。フランシスコはからかうようにキュリオを見ている。その目が悪戯っぽく輝いた。
「意外と強いぞ、気をつけろ」
「早く言え…」
強い酒を一気に呷って舌の動きが既に危うい。頭がくらくらした。ふらつく上体に縋りつくようにフランシスコが抱きついた。
「色っぽいな」
「お前本当におかしいぞ」
思わずついた手にフランシスコが指先を絡める。柔らかな指先が丹念にキュリオの手を撫でていく。皮膚の薄い指の股をなぞり手首の裏を這う。そこから肘へと指先を滑らせた。
唐突にフランシスコが突き飛ばすようにキュリオから離れる。酒瓶を奪うと一気に呷り、膝で立ち上がると上を向いたキュリオと強引に唇を合わせた。キュリオのほうが立ち上がれば少し背が高い。その所為かキュリオを見下ろすこと自体が珍しかったが、それを堪能しながらフランシスコは口腔の酒をすべてキュリオの口腔へと押し流した。突然流れ込んでくる酒にキュリオはたまらず噎せる。喉を灼くそれに咳き込み、目が潤む。ようやくフランシスコが唇を離すやいなやキュリオが激しく咳き込んだ。
フランシスコは悪戯っぽく笑ってさらに酒を呷った。恨みがましく睨みつけるキュリオの視線をものともしない。幼い頃から一緒にいるだけにその思考回路は手に取るように判る。
「可愛いな」
「お前な…ッ」
咳き込みながらもキュリオは臆することなくフランシスコを睨みつける。強い酒に頭がくらくらする。普段なら跳ね除けられる腕も今は腕に力が入らない。それを知ってか知らずかフランシスコは強引に手を出してきたりはしなかった。
「ねぇもっといいことしようか」
「は、ぁ?」
フランシスコが強引に唇を奪う。その勢いのまま、堪えきれずにキュリオの体が傾いだ。ゆっくりと横たわる体をフランシスコは嬉しそうに眺めた。
「それって、了承ってことかい」
「…違う」
強い酒の所為で視界がぶれる。手足は鉛のように重く、沼に沈みこんだかのように体のすべてが重かった。もがけばもがくほど深みに嵌まっていくような気がした。
「抵抗しないのか? このままいっちゃうよ」
固い屋根と皮膚が融けあったように手足は重い。キュリオは疾うにもがくことを止めてされるがままになっていた。力の抜けた四肢にフランシスコはゆっくりと唇を寄せた。酒の所為で火照った体は妙に温くて心地好い。
「…見られて、る」
キュリオの言葉に目を向ける。とろんとした目は潤んで艶めいている。鳶色の瞳は夜の闇にその色を濃くしている。それはまるで黒曜石のように煌めいていた。
「見られてる? 誰に」
フランシスコが首を傾げた。ここは屋根の上だ。それにほかに人影も見当たらない。
「満月、に」
フランシスコはキュリオの視線の先を目で追った。昼間の太陽より冷たく光る月がそこにあった。熱の感じられない冷たい白さ。それは見事な球形。満月だった。
クスリとフランシスコは笑った。薄く開いた唇へ唇を寄せる。ほのかに熱を持ったそこが融け合うような気がした。
「意外とロマンチストだな」
手が筋肉のついた胸の上を這う。無骨ながらも整ったそれは幼い頃からの鍛錬の賜物だ。フランシスコの手がゆっくりと襟元をくつろげて行く。
「満月、ね。見せ付けてやろうか」
「…酔ってるだろう、お前」
ピクリと眉を痙攣させるキュリオの言葉が聞こえなかったかのようにフランシスコは鼻歌を口ずさみながらその手を緩めない。
「キュリオこそ、酔ってるんじゃないか?」
何か言おうと開いた唇が重なる。潜り込ませた舌がキュリオの口腔を犯した。
天高くから見下ろしてくる
すべてを見通すかのようなそれ
《了》