この際だから、はっきり言おう
77:重要なのは、どうして好きなのかじゃなくて、どこがどれだけ好きかってこと!
写真館の経営は良好だ。表だてられない本業に忙殺されるかたわら何とか予定をやりくりしている。本業を疎かにするわけにもいかず、自然と期日の短いものから手掛けるようになった。それが予約制のような効果を発揮し、飛び込みやふりの客は激減した。もっとも格式ばった記念日に写真を撮るのである、当日申し込みは基本的に断っている。葵や葛にも都合というものがある。二人で切り盛りしているので自然と作業の振り分けが行われた。客あしらいや先方へ出向くときには葵が、格式を求めるような客である場合には葛が例外的に出向く。葛は基本的に帳簿や現像と言った裏方を担当した。葵のフランクさが裏目に出そうな客の場合のみ、かっちりとした葛が応対した。
そうこうしているうちに本業が途絶えた。もっとも不定期にいきなり呼びつけられるのだから休めるときに休むのが最良だ。本業は思う以上に二人の疲労を蓄積させる。
「葛、もっと楽にしてろよ、せっかくの休みが台無しだ」
帳面にペンを走らせる葛を見た葵の一言だ。この問答は今に始まったことではない。本業の合間を縫って写真館の裏方作業をするのは葛にとっては何ら不自然でもないし無理でもない。
「勝手に休んでろ。いざという時使いものにならなくては困る」
「お前にも言えると思うんだけどな、それ」
「俺は休息は取っている」
「じゃ、休憩しよう。葛ちゃん」
いつの間にか机の前に立っていた葵がひょいと帳面を取り上げる。行き場を失ったペン先がカツンと机を打つ。
「おい」
「すごいな今日の午前中の分まで終わってる。もうやることないだろ、終わり終わり。だいたい机にかじりつくなんて脳なしのやることだ。十分な休みが取れないほど仕事をするのを美徳だとは思わないな、オレは」
「お前に関係ないことだ」
むっと葵の顔が歪んだ。葵は感情表現も豊かで顔の筋肉も柔軟だ。意志表示も明瞭だし、否か応かは問えばすぐに返る。隠しごとが似合わない性質なのだ。本人もそれを理解していて、そのうえで上層部と皮肉をやり合うのだから肝も据わっているだろう。躊躇の不利益と即断の利益を明確に理解し、そのうえで悲壮感さえなく裏稼業をこなす。能力の使用も躊躇しない。葵の中で自分の特殊能力は持ち得る武器として認識されている。
それは葛とは違う点だ。葛は驚くほど表情が変化しないし、他者と会話している時ほどそれが明確になって程度もひどくなっていく。笑ったことさえ思い出せない。葵が店屋物を頼む店の看板娘をからかっているのを指摘する時でさえ真顔である。葛は裏稼業をこなす際、出来るだけ自分の力で解決しようとする。その力というのは純粋な戦闘力や諜報活動であり、生まれもった特殊能力ではない。葛は目指していた進路をこの能力ゆえに断たれた経緯があるので葵ほど素直に好意的に受け取ることはできない。そして何より違うのは――
「葛、好きだよ?」
パタンと洋墨も乾いていない帳面を閉じて葵はニィーっと笑う。葛は頭を抱えたくなったが肘をついてそっぽを向くにとどめた。二人がたとえ殴り合うような諍いや別離という選択肢を選んだとしても、二人は共に暮らしていくしかないのだ。二人はそれぞれの意志で同居を決めたわけではない。手の届かないような上層部の指令で二人が一つ屋根の下で暮らしており、おいそれと、はいサヨナラとはいかない。自然と葛は妥協することを覚え始めていた。
「かずら、すき」
机に向かっている葛のそっぽを向いた耳元で葵は甘く囁く。飴玉のようにごろりと甘く、喉を塞ぐように大きい。葵は本人が言うには、「葛が好き」であると言う。性別として避けがたい事態に熱の発散があり、その相手をそれぞれお互いに求めた。商売女に通いつめてはどこの誰が聞いているかも判らない街路で機密を話すに等しい。かといってそのあたりの素人女と普通に付き合えば世間の流れとして婚約や結婚といった手続きがあり、裏稼業を持つ身としてはそれに応えるのは不可能に近い。同性同士だし行為の際のちょっとした手間にさえ目をつぶれば互いに熱の発散は可能であった。葛は元々は軍属の学校に籍を置いていた。性別の偏りが著しい場所で取る手段はどこでもだれでも同じらしい。同性を行為の相手に選ぶことに対する寛容さや慣れが生まれていた。
「ねー何考えてんの、オレはさ、さっきから葛ちゃんのことばっかり考えててもう破裂しそう」
「勝手に破裂しろ」
「好きだっていう相手にそんなことを言う?!」
「俺から好きだと言った覚えはないが」
べしん、と葛の頭頂部を帳面が直撃した。角で殴るような悪質でもなくただたんに葵の方が位置が高いだけの理由である。座っている葛のどこが殴りやすいと言えば頭である。
「オレは葛ちゃんのこと大好きだよ?」
「好きだと思うなら殴るな」
「愛の鞭?」
「疑問形ならば余計にするな。だいたいなんだ、貴様は何かあると好きだ好きだと…好きのたたき売りか」
悪しざまな云いようでなおかつ辛辣だが葵はにやにやとした笑いを崩さない。葵は平素でも口の端が吊りあがっていて笑っているように見える。真顔になればそれなりに精悍であるのに平素の葵から威圧感さえも感じないのはこの薄笑いの所為だ。だから葛は葵の好きを素直に受け取れない。
日常的に「好きだ」と言われてはその真意が葛には測れない。挨拶や惰性のようでそれでも行為をすればそれなりに火照るし燃え上がりもする。互いの役割は時々によって変わったが主に葵が上になることの方が多いような気がする。もっとも行為を仕掛けてくるのはダントツに葵の側なのであるから当然と言えば当然の帰着ではある。
「うるさいだけだ」
簡潔な葛の言葉に短気を起こさないのは葵の慣れだ。暮らし始めの当初はかなり諍いが頻発した。葛の言葉は簡潔で用件のみである。そこに行った経緯とか、相手を気遣うような言い回しなど一切省く。求められるべきは結果だけであって葛が重視したのも結果だった。葵はそこまでお固くないし、どうにもならない事情があるのも知っている。理性と感情の衝突は必然として起きた。だが何度かそれを繰り返すうちに葵にも葛にも変化が表れ始めた。互いの妥協点を見出したのだ。葵は葛の言わなかった部分を慮り、葛もあまりに機械的で冷徹な意見は言わなくなった。二人の歩み寄りが見せた結果として好意は必然的に行われた。
葵はむっと唇を尖らせる。そういう幼い仕草は葵が何か言い返したいのを堪えている時だ。葛も葵の仕草と感情の連動を覚え始めている。肉桂色の短髪を揺らして小首を傾げながら肩をすくめる。留学経験があると言う葵の仕草はいちいち大げさに葛には思えて仕方ない。沈黙するだけの間に肩をすくめたり小首を傾げたり、必要もないのにそんなことをする理由が判らない。凛と太い眉は葵の意志の強さや頑固さを示しているようにくっきりしている。ぱっちりと大きめの双眸は化粧筆で刷いたように一筋だけぴんと睫毛が長い。ぱっちりとした大きさが際立つ効果がある。事実葵は実年齢より若く見積もられがちである。
「いいか、好きなどとは何にでも言える言葉だ。俺はお前が好きだ。俺は饅頭が好きだ。ボルシチも好きだ」
葛にとって葵のいう好きはそれらでしかない。オレはお前が好きだ、と頻発するたびにそれはどの程度であろうか、好みの食べ物や仲の良い友人としてなのか。だがそんなことを考えてしまう自分を逆説的に考えると。耳や目元を紅くした葛がぎッと葵を睨む。
「好きだなんて言葉は信じない。どれだけ好きかなど馬鹿らしい。誰のどんな、何が好きなのか明確に標的を指摘しろ!」
葵の好きが日常的に発せられる好きだったら葛はきっと食が細るくらいには好きだと思う。仕事があるから必要なことはするが、もし葵の好きがそうであったら、葛はもうきっと葵と行為に及べない。及ばないだろう。共にいることさえ悲愴だ。だからせめてすがるような思いで葛が確かめたかった。
あなたのスキはどんな好きなの?
「キレーな髪。手入れ怠ってないなー。あれだけ殴りあいだってするくせに綺麗な手。指の節が太くないのは水仕事に慣れてないから。肌も白くて肌理細かい。だからナイフがかすっただけで血が垂れるんだ。紅い唇。熟れた林檎みたいだ。噛みつきたくなる。頑固そうな眉。切れ長な目。眼光鋭く、ってこういうことだと思うな。それに頑固。自分の意志は絶対に曲げない。でも――必要だと認めれば泥さえもかぶってくれる」
葵が膝をついた。葛と目線が合う。震える唇を引き結んだ葛と穏やかな笑みを浮かべた葵が対峙する。何もない。葵は帳面をもう机に放り出しているし、もしこれを武器と言えるならばペンを握っている葛の方が優勢なはずで。それなのに葛は微動だに出来なかった。葵はしれっとした顔でつらつらと葛をほめたたえ、揶揄し、慈しんだ。
「うん、だから見た目は悪くない。むしろ好きだな。それに頑固な性格も好きだ。オレは自分で何かを決められないようなやつはご遠慮願いたいからさ。その点、葛ちゃんは正反対で全部自分で考えちゃうんだもんなー、たまにはそこにオレも入れてよ」
けらけらけらと葵が笑う。それはけして揶揄とか嘲弄と言った悪意のある笑いではなくただ、愛しむかのように。
「葛、オレはねオレに正直に生きたい。大切に思った人もいた。でもオレはその人たちから、人を愛する喜びや充実や、そういう苦労も愉しさも教わった。『楽しいだけの出来事はどこかで誰かを犠牲にしてる。』オレはそう思う。だから、オレはその犠牲に報いるために好きな人には正直に、オレはお前が好きなんだって伝えたいんだ」
葵の顔が真面目だ。口元は微笑んでいるが口の端を吊り上げるような笑みではない。ほのかに温かいような、それは葛の知らない葵の顔だった。葵だけじゃない。葛の周りにいた人すべてにこんなふうに、微笑まれたことなんか――
相手の弱みにつけ込むなど卑劣な。
武士の子であることを忘れてはなりません。
君のその能力を生かしてもらいたい。
みんな、みんなそう言って。俺は叱責を受けるばかりで、ただ流されているだけで、葵のことは、葵のこと、なんか――
「…――ッ」
戦慄く口元と鼻を隠そうと口元を反射的に手が覆う。俯く。涙すること自体を恥だと思いなさい。厳格なしつけを葛にした祖母の言葉だ。だから葛は泣かない子だった。悶絶するような痛みにも耐えた。だが、葵の告白はそれ以上で、どうしたら良いか判らない。溢れる涙を隠したくて俯く。膝にぽとぽとと落涙の染みができた。
「うん、そうだな。具体的に言うならこれくらいかな。だからオレは葛ちゃんが大好きです!」
バッと両腕を開いて構える葵に葛がぽかんとした。葛の鈍い反応に葵がぷ―と頬を膨らませた。
「こういうときはね、「あおい!」って言ってこの両腕に飛び込んでくるもんなの」
「机があるが」
不備を指摘された葵がギクッと震えた。しばらく気まずい沈黙が流れたが葵ががしがしと頭を掻いてから行動に出た。ひょいと机に飛び乗り、座っている葛を椅子もろとも押し倒すように抱きしめた。椅子ごと転げて葛の視界は天井と床と壁をランダムに写し、しばらくしてからドスンという衝撃音と肩を痛打したような鈍痛が走った。
葵が猫がやるように葛の胸元に鼻先を擦りつけてくる。
「猫か。止めろ重い」
「あれだけ具体的な好意を持ってる相手にその一言?!」
ぶっと膨れた葵は意地になるように葛を抱擁した。しがみついたと言った方が正しいような気がしたが、葛にとっては確かに抱擁だった。
「………別に嫌いだとは言って、ない」
口元までかっちり止めた釦の奥の首筋や耳まで真っ赤になって葛が言った。葵は一瞬、きょとんとしたがすぐに言外の意を理解したのがへへへ、と腑抜けた笑みになる。
「一日中こうしてよっか」
「人が来るぞ。閉館の看板を出してない」
「こないよ。予約はないし出張予定もないし」
先を読んだかのように葵がにゃあと笑う。揶揄の得意な猫を思い出させる笑みだ。葵は葛の渇望や葛が結局こうして折れることや、もろもろのことを予測していたのかもしれない。だが、それでもいいと今の葛は思っている。
葵がこうして具体的に好意を肯定してくれたことが嬉しかった。自分はまだ生きていていいのだと。こんな能力、と忌んだこともある。特殊な能力であればなお、夜中に包丁を握りしめて手首や首筋にあてがったことも一度や二度ではない。進みたかった大学校へは結局断念せざるを得なかったのはこの能力の所為だ。だがこの能力だからこそ葵を得られたのなら。それも悪くは――なかった、かな。
「あぁ、もう、葛、泣くなよ。綺麗な顔が台無しだろ。もっとも綺麗なお前の泣き顔ってすごくそそるし綺麗だけど。でもオレは笑顔の方が好きだな。真顔のお前も好きだよ、もちろん」
頬を濡らすそれが涙であると葛はその時初めて悟った。落涙は収まったと思ったのに新たな涙があふれてくる。だがそれさえを赦してくれる、葵という存在が。
ありがとう
葛は唇を血が出るほど噛んで泣いた。あとで唇を噛みきったことを叱られた。流血の手当てをする葵の手順を見ながら葛は、あぁこれはきっと幸せなのだと。しあわせってきっと、こういうことを言うのかもしれないと。
だから、ありがとう
『お前のそういうところ、大好きだ』
双方の見識が合致した刹那だった。
《了》