本質は違うのかもしれない、でも
 私は、君を


   75:茫漠たる世界の中であなたへ向かう衝動とこの熱だけを私は実感する

 適度な飢餓感と充足に満たされた港湾部は真っ当でありながら健全とは言い難い。白いシャツやアイロンを当ててつけた折目も正しいズボンの男やすり切れたシャツの裾を出したまま足首は踝が見える程度にまくりあげた少年もいる。船出の見送りの人の群れの間を渡り歩く掏りや、日々取り扱う品を変える露天商。人々はちょっとした寂寥と催事のわきたつ気持とでお互いに寛容であろうとして、諍いは表通りでは起こらない。裏通りも通常どおりだ。迷いこめば道案内などという優しいものはなくカモにされるのがいいところだ。
 葵は今日はきちんとした格好で表通りを歩いている。相変わらず襟まできちんとアイロンを当てる性質の葛からは客商売だからちゃんとしろと小言をいただいて出てきた。葵としては真っ当な格好であると思うが葛の中では及第点になっていないようで、襟元を開けすぎだとか袖をまくるなとか具体的に攻めてくる。葵はそれにはいハーイと返事をするが直す気配はない。直す気がないのだ。釦の留められた袖やキチンと襟まで留めた釦は葵の不意の、寂寥や憧憬やちょっとした憎しみとか悲しみとか、そういった複雑なもどかしい何かを思い出させた。葵はいわゆる妾腹に当たる。事実を両親に確かめたことはない。母親はともかく父親が誰かも知らないし、母親も葵と父親の接触を特に強めたがりはしなかった。母親は別宅に囲われ葵もそこで過ごした。ニゴウサンの意味が判ったのは年を経てからで、幼いころは父親のいない不思議と不定期に土産付きで訪ってくれる小父さんとしか思っていなかった。両親に諍いを起こした様子はなく互いに承知の上で疎遠になったり親密になったりしていた。だから葵は父親の存在を小父さんに求め埋めていた。長じてから小父さんがおそらくは父親であったろうと見当はついたが問い質したことはない。知りたくはなかったのかもしれなかった。すぐに葵は逃げるように家を飛び出して国外に居を移した。留学という名目であり、費用ももしかしたらそのおじさんが用立ててくれたのかもしれない。女一人の働きでの報酬など知れたものであるからその可能性は高そうだ。
 葵は重たげに機材の入った鞄を揺すって肩へかけ直す。表にも裏にも通じなければならない本業は決して表立ってはならない類いのものだ。隠れ蓑として葛と居住をともにし、写真館を営んでいる。胡乱な世界だ。路地裏や界隈の暗渠や闇に乗じての任務遂行の多さと、写真館経営の順調さ。表と裏。毎度毎度取る店屋物の店の看板娘も葵と葛が本来何者であるか知らない。会話も交わすし冗談を言い合う。戯れるようなそれを繰り返しながら世界の輪郭は案外胡乱で曖昧だ。表に顔を持ちながら裏では流血沙汰も厭わない。
 ふと足を止めると葵はどんどんと流れに弾かれてついには街路の隅へ突き飛ばされてしまう。葛がこんなふうにして時折物思いにふけるのを知っている。
 男性体として熱の発散処理が必要なことが身近になったとき、互いに白羽の矢を立てた。健全でも真っ当でもない家業を持つ身だ。何も知らない女を相手にするのは危険性があった。誰がどこで通じているか判らないし、水商売にはヤクザ者が絡むのが筋である。通いつめたり寝物語に腹を探られても困る。いつでも切れることができてなお情報に興味を示さないという条件は互いに互いを合致させた。それでも肌を合わせるたびに葵は思う。

葛はきっと、真っ当だったのだろうな

父なし児と後ろ指さされるような己とは違う。葵に世界は薄暗かった。何も見えなかった。何も聞こえなかった。何も響かなかった。生まれながらに有していた特殊能力がそれに輪をかけた。オレは違う。オレは――

どこか欠けた出来損ない、で

葵の特殊能力も含めて留学経験や資質を買ってくれたのが今所属する稼業だ。裏稼業の分類にされるだろうが葵には構わなかった。葛とも、会えたし。
 初対面はけして良好とはいえない。そもそもありきたりにお見合いのように対面したわけではない。互いに腹と実力を探りあった後に同居することを告げられた。顔見せと実力と能力の確かめを兼ねた任務の際に仲間は互いが共に行動する一団であることを教えられた。葛の体術は綺麗で確実だ。明らかに戦闘訓練を受けており、特殊能力など必要ないくらいだ。葛も自覚があるのか、能力を使うことを忌避する。葵などは通常手段として能力の効果を考え含めるしためらいなく使う。だが葛は違う。使わずに済むなら使わぬし、必要があればという条件が必ず枕詞についた。それは葵には出来ない。

だってこんな
こんなにも不確かで曖昧ですぐに何もかも変ってしまう
人の命は強くなんかない 儚くて だから
人の意志は強くなんてない もろくて だから

オレがオレでいるためにオレはこの能力を使うよ。




 「遅い」
がらごろと鐘を鳴らして表玄関、店先から帰って来た葵に浴びせられたのはその一言だった。
「何言ってる、こんな閑古鳥の店で遅いも早いもあるもんか」
「心構えとして聞け。だいたい客あしらいはお前の得意分野のはずだろう」
「葛ちゃんも接客法を覚えたほうが好いとオレは思うね」
機材の点検を兼ねて一つ一つ定位置へ戻していく。葛は相変わらずさらさらと帳面に何事か書きつけている。どこかで習ったものか葛は字が上手いから依頼書だとか公式の文書や他者へ提出する書類などは葛が一手に引き受けている。葵が書いても良いのだが一度試したところで諦めた。不備が多数発生して仕事時間の割が合わないのだ。
 机に向かい少し俯き加減の葛の襟足は白く揃えられている。すべらかそうに白いうなじは芸妓のそれに似て艶めかしく、頸骨の数が数えられそうだ。白皙の美貌と言っていい顔立ちである。眉目秀麗。出来の良い顔容と頭脳を持っている。帳簿の帳尻合わせはいつだって葛の仕事である。化粧したような眉と黒く密な睫毛。通った鼻梁に白い肌は肌理も細かく病的なそれではない。官能的なほどの乳白色で紅潮した際の紅色の鮮やかさが葵は実は好きだった。整った葛を乱してやるのも面白い。堅物であるから閨の冗談などを真に受ける。普通の冗談も流さない。その真面目さが葵は好きだ。葵にはないし出来ない。
 互いを交渉相手とした以上閨は共にした。葛の体は明確に訓練を受けたそれだ。着痩せするのか、裸に剥いた葛の体つきに葵は、本気で抵抗されたら負けるな、と思ったものだ。だからそれは葛の照れや意地からにじみ出た本当の心だと言うことにして葵は葛を抱いた。葛も抱かれた。あの時の熱だけは本物だった。少なくとも葵はそう信じている。求めあうようにすがり腕を絡めてくる葛の腰を抱き寄せた。枕辺の小卓の上の卓上灯の橙の灯りは艶めかしく葛の肌を照らし、汗の粒は琥珀へ変わる。舐めたら味のしそうな蜂蜜色の涙を擦って、紅く色づいた唇を食んだ。
 「葛ってさ、綺麗だよな。言われたことない?」
「ない」
即答である。動揺を期待していた葵は大げさに、えェッと驚いておどけて見せる。
「お客の女の子とかは? 可愛いなーって思った子とかいなかった?」
「客に惚れる店員がいてどうする。対象外だ。そもそも年の差を考えろ。女の子だと?」
「女性って意味だって判ってよ。へぇえ、ふぅん…」
もともと葛に浮ついた話がない。形はなかなかだと思うのに醸す空気はピリッと沁みる冷気のようで他者を容易には近づけない。近づくのは命知らずか葵のように必要に迫られたりした場合だ。ちなみに命知らずは己の無力さを叩きこまれて退散する羽目になる。葛は喧嘩も戦闘も強いのだ。口げんかももはや喧嘩の域を超えて論争だ。しかも正論で攻めてくる上に裏付けまであって太刀打ちできない。
 そんな才能を遊ばせておくなってもったいないと葵は思うが、だからこそ実力主義の裏稼業なんかに必要とされるのかもしれなかった。ずるずると足を引きずるように近づくものが背後にいるのを葵は気づいている。黒々として重たく腹へたまるその気配は、幼いころに父親がいないのを囃したてられた時のそれに似ていた。使えるものやいるものがあるならなぜ使わない見ないふりをする、あるんだったら使ったらいいじゃないか! 葵の目がスゥッと眇められて葛を見る。細まる肉桂色に葛の手が止まった。真っ直ぐ黒曜石の玉眼が見返してくる。

「持っていることが幸せであると、誰が極めたんだ?」

それだけで葵の中はがらんがらんと崩れていく。取り繕おうとする葵の躊躇の間にも葛は言葉を重ねてぶつけてくる。
「そんな顔をしている。能力もそうだ。持っているならなぜ使わないとお前は言う。だが持っていることの意味さえ知らぬものを俺は使う気にはならん…無論、非常時であったりすれば話は別だがな。命と天秤にかけたりはせん」
葵の指先が震えた。戦慄く。唇をぎゅうっと強く噛みしめてから葵は戸棚の硝子戸を叩いた。平手で打った所為か、割れはしなかったがびりびりと震える振動音が強くこだました。
「持っていない辛さを知ってるのか?! 後ろ指さされて陰口叩かれて! それでも、だから、オレは…」
「だったら訊くがな。持っているゆえの辛さと強制的な是正をお前は知っているのか?」
二人が所属する団体は大なり小なり、常人にはあり得ない能力を有したものばかりだ。何処から調達してきたかは明らかではないがその者の一生を変える決断が必要であったことは明白だった。
 葵がぶるりと身震いした。それは怯えた猫の威嚇にも似て総毛立つようなものだった。見開かれた肉桂に黒曜石は辛そうに潤んだ。その潤みも瞬きで消え去る。葛がしきりに瞬いた。睫毛が重たそうに上下する。そうしていないと潤みや雫がこぼれてしまうと言いたげに頻繁だった。葵は葛の言葉にうなじの後れ毛が逆立ったような錯覚を覚えた。ぞっとした。皮膚や筋肉の収縮が顕著に感じ取れた。
「葵、俺達は選ばれた。だがそれが幸せであったかどうかは後世にならんと判らん。選ばれたことの幸不幸など、今俺達が論じたところで意味はない」
葵の喉は乾いて皮膚がひきつれた。フーフーと音を立てて呼吸する。暴れ出すのを抑えつけているかのように、怯えを隠しているかのように、葵は何かを堪えるように呼気を鳴らした。
 「でもオレは! オレは目に見える証が欲しい!」
刹那、葛の濡れ羽色の双眸は哀しげに瞬いた。
「オレは、オレがオレでいられるのは葛のおかげだと思ってる! 変なチカラ持って生まれちゃってしかもそこもいいとこじゃなかった。でも葛がいてくれたから。葛に会えたから。だから、そのきっかけだった能力を、否定されたらオレは…オレは行くとこもないただの、『三好葵』になっちゃう…」
しゃがみこんで膝を抱える。本能的な防衛姿勢であることを葵は知らない。葛は知っている。葛の攻撃の手が明らかに意識的に緩められた。
「特殊な能力を持った宿命だな。だが責任があるだろうが抱え込む義務はないぞ」
怜悧だ。綺麗で頭も良い葛。オレなんかじゃあ追いつけない。だからその言葉が、遠く…――
 くしゃ、と葵の肉桂色をした短髪がかきまぜられた。顔を上げると葛が膝をついてそこにいた。わしゃわしゃと動物の頭でも撫でるように葵の頭を撫でている。髪が乱れているのも承知の上でだ。
「…葛ちゃん?」
「そんな顔でちゃんづけされたら怒れんな。…泣きだしそうな顔をして」

母親は謙虚な人だった。どうして小父さんは時々しか来ないの?都合があるのよ。母さんは寂しくないの?寂しいわね。だったらずっと一緒にいようって言って見たら?駄目よ、人にはね、相応の分というものがあるのよ。過分に望めば罰が当たるわ。それに私はあの人がときどきでも来てくれることが嬉しいから気にならないわ。オレの変な力の所為?ふわりと微笑む女性の顔。天の神様がくれたものを変などと言ってはいけないわ――……

ときどきでも会えることが幸せだと言う。会えなくなるのが不幸せだから。完璧だけを求めてはいけないことを葵は知った。妥協しなければならない場面があることも知った。
 「葛、オレはこんなふうに生まれたことを感謝するべきなのかな、それとも恨んだ方がいいのかな」
「能力を得たことや受け入れてくれた人がいることは感謝すればいい。それがきっかけで両手を血まみれにしなければならなくなったら恨めばいい」
葛の目がじっと葵を見据える。頭を撫でていた手はいつの間にか葵の肩へ移動していてがっしりと抑えこんで葵は逃げられない。葵がしがみつくように葛に体当たりした。そのまま二人で床へもつれて倒れ込む。
「気は済んだか?」
ごちんと音がしていたから葛が頭でも打ったのだろう。葵はぐずぐずと鼻を鳴らして顔を伏せたまま上げようとはしなかった。葵の唇が震えた。震えている癖に怯えている癖にどこかで確固たる芯を持つ。

 「葛、お前はお互いに始末しろという命を受けたら、どうする?」

「そうだな、お互いに受けると言うからには両方要らんということだろうから。お前を殺して俺も死んでやろうか」
クックッと葛が笑う。その振動や葛の鼓動は葵には心地よかった。
「じゃあ、オレを殺せって言われたら葛はどうする?」
「殺す。それが命令であるなら。お前を誰かほかの人間の手にかけさせたりはしない。誰かに殺させるくらいならば俺がやる」
「冷たいな」
「温情だろう。その後で俺も死んでやる」
シャツ越しに伝わる鼓動。とくんとくんと一定の律動で動いている心臓。葛はどんな問いにも動揺しない。
「じゃあオレがお前を殺すと言ったら?」
葛は笑って葵の肩を抑えた。真正面から向かい合う。黒曜石の潤みの中に葵の肉桂色が煌めいた。

「殺されてやる」

その後お前がどうするかは知らんがな、とうそぶいて見せる。蒼いが、ははっと笑う。葛の、だからこういう、葛のこういうところが好きなんだと思う。葛の怜悧さは損得勘定に長けているようで案外感情の機微をそこへ含めることができるのだ。上手い男だと思う。
「やっぱり葛はいい男だなー」
涙で潤みきったそれを誤魔化すように葵は瞬くが、逆効果であったようでぼろぼろと涙があふれた。

「ありがとう」


胡乱で曖昧な世界。
その中で貴方は私の感情や恋情や怒りや嫉みやそういったもろもろが向くことを赦してくれた。
私の世界はあなたで満ちている。

そんなあなたになら殺されても構わない。


《了》

なんか無理やりお題っていうかお題にさえなっていないような(汗)
いつも通りの誤字脱字チェックなしィ!(しろよ)          2011年12月3日UP

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