感覚で、解ってる
それがなんなのか、知っている
72:その矛盾を愛と呼べばいいだけのこと
昼間の路地裏はどこか正当性を帯びて閑散としている。人の量はあると思うのにどこか倦んだように活気がない。真っ当な売人の少なさと欲を抑えた通行人で夜間のような喧騒は稀だ。それは良し悪しであると思う。手酷い痛手がない代わりに実入りも少ない。損失を孕む駆け引きは同時に利益さえうかがわせるものだ。ティボルトも夜間に生きる部類のものであるから常ならば寝ている。それでも時折考え事に頭が飽和して眠れぬことを繰り返す。原因は判っているからなおさら馬鹿馬鹿しい。呆れながら深みへ嵌まった体はもう意志程度では身動きさえ取れなくなって手詰まりになる。どうせ眠れないならと起きだして街路を眺めることは、間も悪く習慣化した。
「キュリオ、か」
初めて姿を見せた際に警戒と威嚇を見せた。人懐こい性質ではないだろうと思っていたが目に見える警戒に少し傷ついた。少女が少年に扮している情報と正体を明かさぬままに見守ってきた経緯。なにもして来なかったろうと詰られれば返事に窮する。恋を恋と自覚せぬ武骨な男であると認識していたにも関わらず直に対面してティボルトはあっという間に身動きが取れなくなった。想い慕うだけで満足できるような恋ではない。あの体をねじ伏せて甚振って泣かせてやりたいと思う。キュリオのなりは明確に性差を見せつける。どんなに酩酊していてもキュリオを女性と誤認することはないだろう。体つきは確りしているし腕力もある、戦闘力も有する。鳶色の髪は短く俯けばうなじが見える。最大の要因は眉の上から走る傷だ。キュリオを隻眼にした傷は、由来を知らずとも威嚇には最適だ。
「馬鹿馬鹿しい」
窓辺から離れようとして人ごみからはずれた姿に足が止まる。蛇のようにうねる人の流れは流動的で、それゆえに停止する動きは明確に区別して見える。キュリオは背も高いし不慣れなようにあたりを見回している。ついには流れからはずれて壁へ背を預けてしまう。誰かと待ち合わせでもしているのかと興味がわいた。地下に生活圏を置く以上、人目を忍ぶ付き合いがあるのは当然だ。目線が外せずにティボルトはいつまでもぐずぐずと居座る。キュリオの待ち人も現れず、隠すようなやり取りもない。ティボルトの方が高い位置にいるから手元はよく見えた。外套を羽織ったままキュリオは茫洋と人の流れを眺めている。探るように目線を投げて一時の間追いかけては視線を解くのを繰り返している。その対象の共通項に気付いた。黒髪の人影にキュリオは興味を示しては気を逸らす。
「あの、馬鹿ッ…」
ティボルトは振り払うように窓枠を押して体を反転させると二刀をホルダーごと鷲掴む。階段を降りながら装着して外套を羽織る。裾を引っ張るように整えながらティボルトは人の流れにまぎれてキュリオの背中へ回り込む。
気配を窺うが気付いた素振りはない。ティボルトは靴音を殺しながら近づいた。キュリオの顔は時折横顔を見せるがすぐに別の方へ目線を投げる。こういう間抜けなとこが厄介なんだ、と思う。ティボルトが襲撃者であったならキュリオの首をかき切れる。警戒の仕方が杜撰だ。ティボルトは外套の下で肩を下ろして腰へ手をあてる。口元が弛んでしまうのが止められない。
「おい、間抜け面をさらしていると犯されるぞ」
ばちっと弾かれたようにキュリオが振り向いた。鳶色の短髪が揺れて隻眼にした傷がよく見えた。芥子色の瞳が驚きに見開かれて瞬く。
キュリオの眼差しが雄弁であることにティボルトは最近気がついた。武骨な性質を隠さない通りにキュリオは言葉少なで、咄嗟の折りにも声を堪える方だ。
「…てぃ、てぃぼる、と」
「名前くらい覚えろよ、冷たいやつだな。バカみたいな顔をするなよ」
キュリオの口元が不服げに痙攣した。良くも悪くもキュリオは相手の力量と抑制の度合いを測れる。
「どうやってここまで来たんだ。まさか偶然通りかかったなんて下手なことを言うなよ。しばらく上から見てたんだ」
キュリオの芥子色がきょろきょろ階上の住宅を探すが、窓枠に表札など下げていないから区別はつかない。ティボルトは堪え切れずに笑った。喉を震わせる高い笑い声にキュリオは目に見えて不機嫌な顔をした。
「ほら質問に答えろよ、どうやって来たと訊いてるだろう」
しばらく抵抗するように黙っていたがその肩が落ちる。同時にため息をついてキュリオは負けを認めた。
「酒場で訊いた。お前の家を知らないかと」
「それはそれは。お前がオレの女だってことが周知の事実になって嬉しいぜ」
ティボルトの軽口にキュリオは何か言い返そうとして口ごもる。猫の威嚇に似て、敵意をにじませながら攻撃に転じようか迷っている。ティボルトの細い眉が跳ねる。
「なんだ、言いたいことがあるなら言え」
「……何故俺が女なんだ」
「くだらないこと訊くなよ。お前の性質がそうだろう。飼い犬よろしく主に忠誠を誓って手も出せないような腑抜けは女にされたことも恩に感じろよ」
「意味が判らない。…お前以外にも女だと言われたし」
キュリオが示す人物が誰かをティボルトは知っている。はからずもキュリオを挟んでの相関図を描くことになった。平素であれば見向きもしないタイプで小賢しくさえ思う。長い練色の髪と蘇芳の双眸を宿す彼は性質悪くキュリオに絡んでくる。
「あの長髪の云うことを真に受けるなよ。だいたいオレの台詞も聞き流せ、普段何を聞いているんだよ、大事なことは聞かない癖にくだらないことばかり気にして」
つけつけと放たれる悪意にキュリオは目を瞬かせたがすぐに眇める。それはどこか悔しさにも似た表情でティボルトはいつも怯む。ティボルトの知る限りではキュリオは人前で泣くことはおろか感情の揺らぎさえ見せないし、人を好きになるという弱点も示さない。厄介な位置にいるフランシスコの方が女性のルートから揺さぶりをかけやすいくらいだ。キュリオは一人で成り立ち、またつけいる隙さえ与えない。身体的にも心積もりでも優しさでさえつけ入れない。それともそれはティボルトとの付き合いがまだ警戒範囲内にあるからなのだろうかという懸念もある。ティボルトはキュリオを泣かせたい欲望と同時にキュリオの内部へ踏み込みたい願望がある。
「来いよ。男を訪うってことは了承したって意味なんだぜ、今頃になって嫌だとは言わせない」
ティボルトがキュリオの手首を掴んで引いた。撥ねつけが可能であるにもかかわらずキュリオは仔犬のようについてくる。ティボルトがどこへ向かうか明言しないのを追及したりもしない。ティボルトは界隈で暗黙の了解に属する袋小路へキュリオを突き飛ばした。そこは客商売をする娼婦が客を連れ込むことも多く、その目的は明白だ。そこを占有出来る正当な理由はすなわち交渉だ。素人と玄人の区別なく交渉を邪魔されたくなければ連れ込み、またそれを界隈のものも承知している。多少の泣き声や殴打では人も呼ばれない。痛撃を交渉に含める行為があるのを周辺は承知している。
「ほらどうされたい。思いっきり痛くしてやろうか。それとも女にするように優しく、抱いてやろうか」
ティボルトの手がキュリオの外套を脱がせる。襟を開くように留め具を千切って開ける。あらわになる皮膚へ舌を這わせた。ぬるりと濡れる感触にキュリオの体がピクリと震える。
「男同士の交渉だから止めてもらえるなんて思うなよ、そんなのありふれてるんだ。第三者の止めなんか入らないからそのつもりでいろ」
ティボルトは強引にキュリオの唇を奪う。噛みつかれても退かぬつもりであったがキュリオは緩く口を開けた。舌を入れても甘く食んでさえ来ない。ティボルトの方がキュリオの唇を噛んだ。口の中へ広がる鉄錆の臭いと味が満ちる。噛み傷へ舌を這わせても痛いとさえ言わない。ティボルトは強調するように傷を舐めながらキュリオの唇を吸った。
キュリオの喉仏が揺れて流し込んだ唾液を嚥下したらしいことが判る。滑り込ませるティボルトの手さえ拒否しない。さわさわと肌を撫でるうちに胸の突起が尖る。きゅうときつくつまめば目を眇めて堪える。下腹部が熱を集め始めている。
「なんだよ、痛くされるのが趣味なのか。言っておくがオレは手加減なんかしないからな。やるときは徹底的にやるぞ」
ふふっとキュリオの吐息が笑った。ティボルトはむっと唇を尖らせてキュリオの顔を上げさせる。胸倉をつかみあげるのは路地裏の住人として反射だ。
「本当にひどいことをする奴は予告なんてしない。いきなり切りつけたり殴りつけたりする」
「…なんだそれ、経験があるのかよ。とんだ忠臣だな」
「お前が初めてじゃない」
殴りつけたいとか痛めつけたいとか、いつもそんなことを言われる。キュリオは平然とそんな台詞を吐いた。真っ当に考えれば頼もしい体格は、裏を返せば征服欲の餌食だ。ティボルトはふんと鼻を鳴らした。先を越された不満とキュリオの動揺を見たいあてが外れている。もっとあたふたと狼狽するのを想像していた。
「じゃあ手加減する必要はないんだな。馬鹿馬鹿しい」
キュリオの芥子色はひどくおとなしくティボルトを眺める。潤んだような揺らぎは蠱惑的にティボルトを誘う。娼婦より打算に秀でてどこかで優しさを期待する子どものようなそれをひどく扱うことにためらう。キュリオの目は無意識的な手加減を知っていてティボルトが加える温情もどこかで知っている。優しさを当然のものとする傲慢さと稚気が垣間見える。そしてティボルトがそれに気付くことさえもきっと知っている。殴りつけたい衝動とたまらない愛おしさが同居した。甘くないとはねつけたい一方で撫でてやりたいような慕情を起こさせる。
「キュリオ」
ティボルトは名前を呼んだ。キュリオの表情が揺らぐ。ティボルトは何度も繰り返した。包み込みたい衝動と殴りつけてやりたい激情が宿る。キュリオはきっと毀れない。ティボルトがどんなに手酷く扱ってもきっと毀れない、けれど一方でひどく脆い。その危うさはたまらなくティボルトを魅了した。己の手加減次第でどうとでもなる存在というものに対したことは、ほとんどない。その不慣れと高揚とが体を奔る。指先を握りこんで潰すことも、手の平で包み込んで護ることも、どちらもできる。そしてそのどちらを選ぶかをキュリオはティボルトに譲渡している。不平も言わない。不満も述べない。異を唱えることさえないだろう、それでもいつまでもどこかでちくちくと責める。キュリオの少ない言葉は、言葉の紡ぐ量の少なさを明言する。
「キュリオ?」
ティボルトはいつも泣きだしたくなる。差し伸べられる手があることなどなく、ティボルトが泣くのはいつも一人でだからこそ泣かなくなった。それなのにキュリオの態度はティボルトを泣きだしやすくする。そして優しく手を差し伸べたりはしないのだ。どこまでも冷徹に眺め続ける。撥ねつけられると知ってなお、ティボルトはキュリオに会うたびに泣きたくなる。キュリオはどこか、そんな抑圧を解放する強さを持っている。そのキュリオ自身が涙を堪えているかもしれないのに、そんなことはちっとも考えさせずに無心に涙を流せるだけの許容をキュリオは秘めた。
「キュリオ」
思い至るより先にティボルトの膝が砕けた。しゃがみこんでしまうのを追うようにキュリオは膝を折る。その腕で抱きしめられると泣きたくなる、だからはねつけたいのにティボルトの体はもう動かないのだ。キュリオのぬくもりに包まれてこのまま目が覚めなくってもいいとさえ思う。
「くそ、こんな、…と……き、に」
目蓋が落ちそうなほど強い眠気がティボルトの体をとらえた。考えればもう何日も眠っていなくてそれは当然であるのに、最悪のタイミングだ。キュリオの体が欲しいのに。しがみつく指先さえふらつく。
「眠れ。眠いんだろう」
「眠く、ない」
口にする言葉は幼子のような無駄な強がりだ。ティボルトの指がゆるゆると上げられてキュリオを象徴するように隻眼にした傷へ触れる。皮膚が張っただけのそこに触れられるのを嫌うくせに、今のティボルトが触れるのを払いのけもしない。それはティボルトの現在の位置と力の無さを示したが、ティボルトは不快を感じる前に指を下ろした。爪で抉ればえぐれそうな肉の感触と薄い皮膚の熱。
「キュリオ」
ティボルトの声が細い。渇いた喉で声がかすれてそれでもティボルトは水が欲しいとは思わなかった。
「お前のことを考えて、眠れなくなる夜が、ある」
キュリオの目が見開かれていく。腰に携えた二刀が重い。腰が沈んでキュリオの体へ体を投げ出す。キュリオははねつけもせずに受け止める。ティボルトの指が強くキュリオの服を掴んだ。
「どういったらいいか判らない、けど、オレはお前が」
すぅと息を吸うタイミングでティボルトの体は眠りに堕ちた。キュリオは黙ってその熱を受け止める。
「ティボルト…?」
キュリオの隻眼は優しく眠るティボルトを見つめた。黒絹のような髪も今は見えない蒼碧の双眸も。白い肌が作り物めいて仄白い。眠れないことがあるといったとおりに体は疲労していて、キュリオの動揺でさえ目覚めない。突き飛ばされた袋小路に追い詰められたままキュリオはティボルトを受け止めて座り込んでいた。起こすのもかわいそうな気がして身動きが取れない。ティボルトの体は細くて扱いを間違えれば折れてしまいそうだ。流れるようにうなじや目元を隠す黒髪は艶めいて照る。白い肌は発光しているかのように息づいて艶めかしい。肉体労働に傷んだ己とは違いすぎる指先にキュリオはいつも怯んだ。
「お前の気持ちが俺には、判らない」
差し伸べられる手には常に下心が付きまとってキュリオはそれらすべてを拒否してきた。いつでもキュリオを飼いならしたい成金ばかりでキュリオはすべてに拒否と侮蔑を投げつけた。くだらないと嗤う己の価値がないことをキュリオは誰よりも知っている。笑いはねつける裏でキュリオは常に悩んだ。己にそんなに価値があるのか。ティボルトはそんな中へむやみに切り込んできた。お前の具合など知らないし興味もない、オレはお前を抱きたいんだ、ただそれだけ。ティボルトのそれはキュリオにはひどく新鮮だった。こんな男くさい体を抱きたいという神経も判らない。それでも抱かれたくないと言えばそれを拒否しきれない気持ちがあるのをキュリオは気づいていた。キュリオの怯みにつけ込むようにティボルトは責め立てる。それはひどく心地よかった。
乱暴に扱われる自覚はあるのに突き離せない。嫌いにもなれない。キュリオのどこかでティボルトを容認している。ティボルトに乱暴に扱われるのをキュリオはどこかで望んでいる。己の価値など乱暴に扱われる程度であると誰かに言ってほしいのかもしれない。乱雑に扱われて痛手を負いたいのかもしれない。それにティボルトを利用している自覚があり、だからこそ明確にティボルトだけを悪者には出来ない。
「お前が俺を嫌いだと言えばそれで終わってしまうのに」
ティボルトの正体を突き止めたかった。同時に惹かれた。キュリオのなりにも臆さず性質にも怯まず、乱暴に扱うティボルトの人柄に惹かれた。見かけに左右されない彼の人となりはどんなであろう、どんな性格なのだろう、性質なのだろう。興味はいつしか好意に変わる。それをティボルトに明言したことはないし、墓まで持っていくつもりだった。悟らせてしまったならばそれはキュリオの甘えと落ち度だ。それでもそうであったら嬉しいと思う己がいる。
ひどく扱われたい。傷を負わされたい。
あなたの中へ、残りたい。
「キュリオ」
ティボルトの声が響いてキュリオの体が凍る。薄く痙攣して開いた目蓋が蒼碧の目を映す。黒く密な睫毛が揺れてすぐに閉じる。ティボルトの体は頬ずりでもするように体を押し付けてくる。
泣きたくなった。
《了》