君にとっては辛いのかもしれない


   70:私たちは永遠に同じ空の下にはいないけれど


 不調法を承知で藤堂に言いたいことがあるから家へ行くと連絡を入れた。いくつかの作戦を終えて今は潜伏期間とも言うべき時で頃合いを見計らって休んでいる。藤堂はいつも通りの落ち着いた声で了承した。朝比奈はいくつかの交通機関を乗り継いで藤堂の私邸へ向かう。作業に支障が出ることを懸念して堪えていた想いが一歩進むごとに燃えあがってくる。朝比奈が感じている苛立ちは一方的なもので少し冷静になれば堪えられる類いのものだ。冷静にそう考えながら堪えきれないのは情があるからだ。朝比奈は藤堂が好きだし交渉も持った。想いを告げて交渉を持ちたい旨を伝え、藤堂は了解した。
 窓硝子の外に流れる景色を見ながら帯びる色合いの変化に気付く。雑多に人が行き交う個性のない群衆からそれぞれに所以を持つ閑静な景色。呼称の変更と明らかな退位と強制力さえ及ばぬように静かな景色が続いた。適度に手入れの行き届いた公園やしっかりとした門構えを通って少し歩く。商店の前を通れば何か手土産をと考えながら楽しさを求めての訪いではないことを思い出して顔を背ける。地下活動を繰り返すと表層に疎くなる。朝比奈程度の位置では支障もないが藤堂の位置では判りませんでしたでは通らないことも多いだろうと思う。まして藤堂が非の在り処によらず堪えてしまう性質であればなおさらだ。進行方向を睨みつけるようにずかずかと歩を進めて庇のある門扉の前へ立った。朝比奈は呼び鈴を鳴らさなかった。潜り戸を抜けて庭を通る。灌木の茂りが密で目隠しを兼ねる。無粋な壁で覆うことを嫌う気質だ。
 取っ手の具合で施錠されていないことに気付く。玄関扉を開けば藤堂が姿を見せた。私的な休息時間であることを示すかのように和服を着ている。
「すまない、着替えておこうと思ったのだが…こんなに早く来るとは思わなかった」
「別に迎えて欲しいから来たわけじゃないんです。もっと不愉快な思いをさせたいだけの訪問なんです」
藤堂の灰蒼が瞬いたがすぐに眇められる。微妙に弛んだ口元が笑んでいる。藤堂は上がりなさいと伝えて引き返した。藤堂の家は台所が奥にある。朝比奈は遠慮なく上がると靴を直す。内玄関さえ砂利も砂も溜まっていない。不定期に家を空けることも多い藤堂だが手入れは怠らない。それも人を雇ったりして任せるのではなく己ができる範囲内で済ませてしまう。
 朝比奈は断りもなく奥の仏間へ行くと正座して一礼してから鈴を鳴らした。線香の火はつけない。藤堂の両親はすでに亡いから訪うたびに挨拶は欠かさない。顔を見るくらいの付き合いはあったし、藤堂へ慕情を抱くものとして恥じるような真似はしたくない。同性同士の付き合いであっても朝比奈は恥じるような怯みを覚えたくなかった。文句をつけられるのを避ける最良の手段はぬかりなく周囲への配慮をすることに尽きる。朝比奈は少し長く手を合わせた。
 「省悟、食事は」
居間へ戻った朝比奈に藤堂が茶を淹れた。頻繁に訪うので私用の湯呑や食器も確保している。甘くない茶菓子があったかな、と腰を上げようとする藤堂の手首を掴む。細い。
「鏡志朗さん、言いたいことがあってオレは来たんです。話を、聞いて」
藤堂はそっと腰を落とす。立ち居振る舞いに無粋な音を立てない藤堂の凛とした気質は好きで、自ら起こす険悪さを思って気が重くなる。それでも朝比奈にも堪えてきたという言い分がある。発散の心算で訪う以上、不発に済ませるつもりもなく断絶さえ覚悟した。
「言いたいこと、とは」
躊躇する朝比奈に藤堂が微笑んだ。何を言われるか知っている、どんな攻撃が来るか知っている顔。それがひどく気に障る。そんな綺麗な顔でこらえてなかったことにして、そんなそんな。
「いくつか前に行った戦闘についてです。鏡志朗さんが出てくるような場合じゃなかったのにどうして出てきたんですか。具合によっては、死んでたよ」
藤堂の目が伏せられた。鳶色の睫毛が見える。尖った喉仏や首筋、衿の奥の闇がひどく艶めかしい。
「私は私など要らない、だから、死んでもよかった」
発光する激しさでほとばしった感情のままに朝比奈の平手が命中した。平手は正確に藤堂の頬をとらえ、損失なく破壊力を炸裂させた。唐突な衝動であった所為か藤堂の目蓋が少し揺れた。唇の端に傷が走って紅い滴が頤を伝う。つんと朝比奈の鼻腔を鉄錆の臭いがさした。
「鏡志朗、さん」
身を乗り出す朝比奈を藤堂は手で抑えて座らせる。口を開こうとした藤堂が小さく噎せた。口元を覆う指の間から紅い飛沫が飛んで朝比奈が息を呑む。藤堂は小さく、すまないと断ってから立ち上がると廊下の奥へ消えた。ざぁざぁと水流の走る音がして一定のリズムを刻む。同じ程度の間をおいて音の緩急がつく。藤堂が何をしているかの想像はついたが即決するのはためらう。藤堂と朝比奈の戦闘力には驚くほどの差がある。
 戻ってきた藤堂の頤から汚れは消えていたが腫れや裂傷は目立った。手加減なく打った頬は確実に腫れてきている。
「すまない、口を濯いできた。歯は食いしばったつもりだったが…お前の方が速かったということだな」
俯けた視線の先に汚れを見つける。藤堂の紺絣のちょうど膝のあたりに黒い点がある。手で受け止めきれなかった血痕であるのは明白だ。その黒い点がずるずると朝比奈の何もかもを呑みこんでいく。
「…なんで。なんで要らないなんて、言うの」
朝比奈は俯けた視線を上げられない。この問いを発するのも藤堂の堪えに耐えきれなくなって爆発するのも初めてではない。生じる慣れの具合が妥協点を示し、諾々と流されてきた。
「私は、私など要らないからだ」
「聞くたくないっそんなこと、要らないなんて、なんでッ」
世界中の何を亡くしても藤堂だけは失いたくないと朝比奈はずっと信仰にも似て思ってきた。藤堂のためなら何でもするし何でも出来ると思った。それでも朝比奈は藤堂と深く付き合ってから明確に突きつけられたことがある。藤堂が、藤堂を要らないと思うことがどうしても止められない。藤堂のそれは自信喪失などというものではない。自己破壊的なそれは時に周囲さえ巻き込んだ。藤堂が藤堂を要らないということは即ち、藤堂を認めた朝比奈の価値さえ著しく下げる。だがそれはどうでもいい話だ。朝比奈は己がどんな評価をされようが気にしないししても来なかった。ただ、藤堂という存在の価値を著しく軽んじるそれだけがひどく赦せなかった。
「オレは好きなんだ」
眼鏡がずれた。視界が歪んでにじむ。落涙はしない。線が細く可愛らしいという部類で生きてきた朝比奈にとって落涙は目的へ至るための手段だ。だが藤堂はそんな軽挙さえ見抜いてしまう。

「おれがすきな、とうどうきょうしろうをひていしないで」

「私はお前に好かれる価値などないし…――そんなものは、判らない」

すまない、と微笑む藤堂の声が微塵も揺らいでいない。顔を見ずとも判る藤堂は微笑んでいる。声の調子がそうだ。それが判るくらいには朝比奈は時間を共有してきた。
「私は人に好かれるということが判らない」
朝比奈が息を呑む刹那に瞳が集束して揺らいだ。見開いた瞳のまま朝比奈は藤堂を見た。涙さえあふれない。
「そんな、そんなこと…――そんなこと言わないで」
内側を駆け抜ける焦燥がなんであるかを朝比奈は知っている。それは現状からは逃れようもないものだ。朝比奈も、藤堂でさえも、戦闘要員なのである。

 「オレ達はもうどれくらい一緒にいられるかも判らないのに」

いつ死ぬか判らない。もう明日の戦闘で命を落とすかも知れないのだ。それなのにこんな、体の同調など問題ではない。朝比奈は藤堂と一つになりたいほど好きなのに、藤堂は好きが判らぬなどという。藤堂は神妙な顔ですまないと詫びる。それがひどく息苦しくて癪に障ってどうしようもない。
「明日には死んじゃうかもしれないんだよ? それなのに鏡志朗さんは人を好きにならずに逝くの」
「好きな人を無理に作っても仕方ない」
「オレは駄目なの。オレは鏡志朗さんのこと本当に大好きなんだよ、死んでもいい。鏡志朗さんが欲しがるならオレは何でもあげる。命だって体だって想いだって、何もかもオレだって要らないよ、何でもあなたにあげる」
藤堂がうつむいた。頤の傾斜が変わって影を落とす。部位が藤堂は案外細い。影は降りてきた闇とあいまってすぐに境界線を曖昧にする。藤堂が融けていってしまいそうで朝比奈が反射的に手を伸ばした。闇に吸いこまれていた飛白が動きを帯びる。藤堂の体は骨格が確りしてるから引き締まっている。細く見える癖に案外力強い。
「私は、誰かに捧げられるようなものなんて持って、ない」
朝比奈が黙って俯いた。何でも捧ぐという盲目的な行動が藤堂を追い詰めていたことに気付いた。藤堂の自己評価は極端に低く、またそれが周知の基準であると信じて疑っていない。だから、程度の低いものを人にやるという行動に躊躇する。程度が低いと認識している己を捧げる価値を藤堂は見いだせていない。それは同時に朝比奈の言い訳さえ無効にする。朝比奈がいくらそんなことはない、価値はあると言っても意味がない。朝比奈の喉が震えた。熱くこみ上げる塊が喉を塞ぐ。喘ぐ朝比奈の肩に手をおいて藤堂はさすりながら穏やかに言った。
「お前はちっとも悪くないから」
どっと涙があふれた。藤堂にそんなことを言わせる心算はなかった。それでも藤堂の優しさにすがってしまった感は否めない。立ち上がろうとするのを朝比奈がすがって止めた。裾や袖へすがりついて泣いた。
「ごめんなさい」
喉が震えて燃えるように熱くて、それでも言わねばならない一言がある。藤堂の指先は優しく穏やかに言わずに秘めておけと促す。発露させなければ痛手を被ることはない。
「省悟」
「駄目、です駄目、言わなきゃッ…言わなくっちゃオレは後悔する、だ…から言わせて」
朝比奈の潤んだ暗緑色が藤堂を見据えた。冷たく怜悧に光る灰蒼は朝比奈の感情をこれ以上ないほどに揺さぶった。

「おれのすきなきもちを、ひていしないで」

好きです、好きなんです、何よりも誰よりも、あなたが。オレはオレを認められなくても、藤堂鏡志朗だけは認めることができる。朝比奈があふれる涙を堪えきれずに泣いた。打算なく泣いたのは久しぶりだった。ただ藤堂を亡くしたくなかった。哀しくて辛くてでもどこかで、そんなことを言ってくれるのが嬉しくて。

「おねがいだから、しなないでね」



 ぱち、と目蓋が開いた。警告音が耳障りなほどにうるさく鳴り響く。脱出を促す放送だが同時に迫りくる破壊から逃れられないことを突きつける。表示画面上からも紅い死の光が迫るのが判る。あの光に触れたら、いや触れる前にきっとオレは死ぬんだ。朝比奈はふぅと笑んだ。常時表示する藤堂機の表示は安全地帯にいる。よかった。オレが死んでもあなたは生きてくれる。朝比奈の脳裏に藤堂が奔った。数少ない笑い顔や困りきった顔、哀しげに眉を寄せる顔。もっとあなたを見て居たかったな、そばに居たかったな。おこがましいけどオレが死ぬことをあなたが生きる理由にしてくれたら嬉しいな。
「好きだよ」
あぁもっと言いたいことも伝えたかったこともまだまだたくさんあって。時間がないことだけは身にしみるほどよく判る。だからお願い一つだけ。たった一つでいいんだ、これが大事なことだから。オレが死ぬ代わりにしてほしいことがあるんだ、ただそれだけ。

「いきてね」

紅く仄白い光が機体ごと朝比奈を呑みこむ。痛みさえ感じることなく朝比奈の体が、消える。制止する千葉の声さえも遠く。ちりっと灼ける気配、同時に奪われていく四肢と感覚と体と。あぁオレは死ぬんだ。朝比奈の目が中空を泳いだ。藤堂さんが被害範囲にいなければいいな。それだけ。
 紅く白い光に包まれる。あぁ、消える。矢継ぎ早のロスト表示と己の運命。あぁ――
とうど さ 、お ねが、いきて――


朝比奈の機体はその体ごと消滅した。


同じ空を共有できた。
それでもなお、あなたは、
オレの名前を呼んでくれますか
オレのいない明日を生きてくれますか

オレと同じ空を見たいと望んでくれますか?



《了》

なんか朝比奈って藤堂さん好きよね! という!
このくらい人を好きになれたらいいなぁと思いつつ。                2010年11月28日UP

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