たとえ痛みを引きずってでも
69:貴いのは、誰かのために死ぬことじゃない。誰かのために生きることだよ
ありふれた諍いだ。元来キュリオは物怖じしない性質であるから喧嘩を売られれば買う。厳密に言えば諍いの切欠や喧嘩を売ったのは少女だが、連れ立っていたものとしてキュリオが一切を引き受けて少女は逃がした。こうしたことは初めてではない気安さもあってキュリオは相手を叩きのめした。思い切り体を動かす口実だと思って日々の鍛錬の結果をいかんなく発揮する。権力から逃れ暮らす隠遁生活の鬱憤もたまっていた。
囲まれたことだけを頭に留めて肘や膝を叩きこむ。親指を握りこんでから殴るのはこなした喧嘩の数を示す。ぎらりと煌めく刃が踊る。むやみに突きだされるそれを避けながら目測を誤った。頬に紅い線が引かれて血が垂れる。裂傷を指で拭うとすぐに新しい血がにじんだ。紅く色づいた指先を舐めてからキュリオは体を低く沈めた。
命が惜しいわけでも、ないし。
やりたいことはあるしなすべきことがあるのも判っているがキュリオはそろそろ堪えが限界だ。生き延びることは時に殺される以上の忍耐を強いる。
「面白い」
相手は次々に隠し持っていた獲物を手にした。それぞれ不揃いな大きさや形の違いは正規の手段を踏まえていないからだ。無理を強いる圧政のもとで兵士とゴロツキの区別はない。冷やかしとばかりに野次馬が集まって壁を成し、それが逆に双方の退路を断つ。キュリオは丸腰だがルールもない喧嘩に正当性の主張は無意味だ。ふんと鼻を鳴らして迎え撃つ。一人一人を退けるのに時間がかかりだした。キュリオも体力を消耗している。まして多数が相手であればなお消耗は早い。緻密な戦略や予定を組み立てるようなことはできないから長期戦は不利だ。まずいな、と思った瞬間、気が抜けた。煌めく刃をかろうじて避けたが腹部を蹴り飛ばされて体が浮いた。人ごみへ突っ込んだキュリオはその場で吐いた。ざわりと喧騒が揺れた刹那、高い声が響いた。
「掏りだ!」
途端に雑踏は軽いパニックに陥る。ただでさえ市民に手持ちの余裕がない状況が続いている。不用意な損失を避けようとするのは当然だ。
ふらつく視界のまま立ち上がったキュリオの腕が強く引かれる。抵抗や声を上げる前に強引に引っ張られて人ごみをくぐり、何度も角を曲がって駆け抜ける。引っ張られる力が弱まったのを見計らってキュリオは掴まれていた腕を解いた。余韻で視界がぐらつく。服の裾を翻して怒りをあらわにしているのはフランシスコだ。
「馬鹿じゃないか。医者へ行くよ、もう話はしてあるから」
「いらない」
「君の都合なんか訊いてない。だいたいもうちょっと慎重にしろって日頃から言われて」
「うるさいッ黙れッ」
キュリオは力任せにフランシスコの頬を打った。荒い呼気に上下するキュリオの肩では手酷い打撃とはならない。赤らんだ頬を撫でてからフランシスコは嘲るようにキュリオを見下す。
「全然力が入ってない。女の子みたいだ」
女の子みたいだ、というフランシスコの容姿の方が余程そうだと悪態を心中でついた。嘔吐と全力疾走で体が疲労している。膝をついたり折ったりこそしないがそれはキュリオの自負がそうさせているだけであって、今にも抜けてしまいそうに力が入らない。はぁはぁと荒い呼吸に忙しなく喉は乾いて灼ける。吐瀉物が汚す頤を拭うこともできない。
フランシスコの白い指先がキュリオの鳶色の髪を掴んだ。壁へ背を押しつけるように圧されて喘ぐ。背を丸めるようにして耐えていたのを無理矢理引き起こされて痛みさえある。
「後始末できないなら喧嘩なんかしないで。君が死んだって悪くこそなれ良くなんてならないんだから」
「うる…さいッうるさい、弱虫ッ」
平手が炸裂した。髪を引っ張られて抑えつけられていては逃げることも衝撃を緩和することもできない。口の中に血がにじんで余計にみじめだ。鼻腔へ通る鉄の味と臭いに目が潤む。頬へ受けた傷が開いて熱い体液が垂れる。フランシスコがそれを指で拭って口へ含む。唐突に髪を放してキュリオを解放する。膝が砕けてキュリオはその場へ座りこんだ。初めて呼吸をする嬰児のようにキュリオはおそるおそる息をする。フランシスコの蘇芳の双眸は冷たくキュリオを見下ろす。幼いころから共に時間を過ごしても全てを知りあえるわけもない。
「とにかく医者へかかって。そんな状態で連れ帰ったらみんなが心配するじゃないか」
引きずられるようにして連れ込まれたのは裏と表に半ば身をおく医師だ。真っ正直に医師の看板を掲げはしないが隠しもしないし、必要であれば診る。困窮する市民の状況を知り、同時に判っている人種だ。キュリオを診察室へ叩きこんだフランシスコは見張るように出入り口へ場所を取る。キュリオも観念して医師に状況を伝える。フランシスコに殴られたことは言わなかった。殴打の痕は明白だが誰が殴ったかなど関係ない。医師はキュリオにいくつかの質問と触診をしてから、手当ての仕方と必要なものを告げた。後ろで控えるフランシスコへ聞こえるのも承知だ。フランシスコが礼を言ってキュリオを立たせ、その場で支払いを済ませた。医師は最後に療養食とは言わないが、摂りやすいものを摂って休むように告げた。フランシスコがそうさせますと笑顔で返答した。
キュリオの足運びが鈍る。フランシスコはせかすように引っ張る。
「キュリオ」
「うるさいッ、はな、せ」
フランシスコを突き飛ばすようにしてキュリオが座りこむ。膝が笑う。裕福ではない生活の中で熱量を酷く消耗した。目の前がぐらぐらした。排水路へ身を乗り出しても吐きだされるものさえない。引きつけのように痙攣する喉に喘いだ。垂れた唾液がぽたぽたと水流にのみ込まれていく。
「大丈夫か」
背をさするフランシスコの手を払いのけたい衝動にかられた。
「うるさいと言ってる! 構うなッもう、いいんだ……野垂れ死んだって」
乱暴に髪を掴まれ引き起こされた刹那に拳が頬を殴打した。倒れ込むキュリオの上にフランシスコが覆いかぶさってくる。
「馬鹿ばかり言うなッ! やるべきことがあると、僕らは」
「関係ないッ」
フランシスコが黙る。我慢のように言いたいことを堪えるように口元が震えていた。
「俺達は、負けたんだそれだけだッ! 皆、皆、死んだ…彼女もまだ幼くて、俺達がいる意味なんて、ない」
嵐の夜を思い出せる。悲鳴と怒号と吹き上がる血しぶきに混乱した。大量の鮮血に嘔吐する暇さえなくキュリオもフランシスコも剣をとった。初めて人の肉を裂いて血が噴き出した。混乱の中での情報を必死にかき集め、逃げのび、隠れ住んだ。少女のもとへ集まりながらその意味を少女に伝えることさえできていない。ただひっそりと住み、守り、抑えこまれる日々にキュリオは倦んだ。あの夜に、あの戦闘の派生において、キュリオとフランシスコは親を亡くした。安定した生活の喪失と貧困の中への放逐。少女が辛いと知っている、けれど痛みを感じないほどキュリオも鈍感ではない。
「あのとき死んだ方がよかった」
「ふざけるなッ!」
般若のように怒りに歪んだフランシスコの一撃に手加減はない。少女じみて可愛らしいと評判をとった顔を憤怒に歪めてフランシスコはキュリオを責めた。練色の髪が揺れてきらきらと不規則に輝く。水面を反射した明かりで照っているのだと気づくのが遅い。
「それが馬鹿だっていうんだ! 死んだ方がよかった? 嫌だよ嫌だ絶対に嫌だ赦せないッ! キュリオが死ぬなんて絶対に赦さない!」
「じゃあ、じゃあ」
フランシスコにほとばしる想いがあるようにキュリオにも堪えがある。誘発されたように言わずに秘めていた想いがほとばしった。
「じゃあどうしろって言うんだッ! あの子はまだ小さくて俺達はガキで! 何も出来ないなんの力も影響力もない! 我慢しろって言うのか! 待て待て待て待て、ずっとそうだ、ずっとずっとずっと! いつまで待てばいいんだ俺はッ! ずっと堪えろって、それを堪えてためたそれを、どうすればいいんだ、呑みこんで消せって言うのかッ」
蘇芳色が泣き出しそうに潤む。キュリオは眦から垂れるそれに初めて気づいた。瞬くたびに新たな滴が頬やこめかみを撫でる。耳のくぼみへたまっていく感覚がある。
「辛いよね。辛いよ。僕だって同じことを思う。でもキュリオがいるから僕は耐えられる。キュリオがいるから。だからお願いお願いだから」
触れてくるフランシスコの頬は冷たく、その意味をキュリオは唐突に理解した。
「死んだ方が良かったなんて、言わないで」
高い声が震えた。泣きだす前のそれと酷似していることと、フランシスコが最近まったく泣かなくなったことを思い出す。子供の我儘が通る境遇ではなく、キュリオもフランシスコも多少なりとも我慢を強いられた。
「死んでほしくない。キュリオが死ぬなんて嫌だ絶対に嫌だ。だってずっと一緒にいたのに。これからも一緒にいて」
ぱたぱたと熱い滴がキュリオの頬に降る。真っ赤に潤んだ双眸の中で蘇芳の瞳が水面のように揺れた。
「お願いだから僕を一人にしないで。キュリオがいてくれなくちゃ嫌だよ。だって、だってキュリオがいなかったら前みたいな生活が、愉しさが、消えて、しまうよ」
死んだ方がいいなんて、言わないで。フランシスコはぐずるようにキュリオの上で泣いた。
「生きて欲しいんだと思う。キュリオにまで死なれたら、僕は僕が生きている意味を見失っちゃう」
キュリオは返事をしない。肝心な時に黙り込んでしまう癖がある。普段は諍いをするほどフランシスコと言葉を交わす癖に、そこへ他者が入り込んだり肝要な時に限ってキュリオは寡黙だ。フランシスコの舌がべろりとキュリオの頬を舐めた。傷がちりちり沁みる。身じろぐキュリオにフランシスコが聡明に微笑む。
「死ぬことなんて考えないで。生きることをだけを。どんなに格好悪くても惨めでもいいから生きて。いつか会えると思うだけで僕を、生かすから」
度重なる殴打と裂傷にキュリオに頬の感覚はあまりない。フランシスコは手加減なくキュリオを打った。
「馬鹿はお前じゃないか」
キュリオの目の奥が痛む。泣きだす前兆であることを知っている。恥も外聞もなく泣きわめいてやりたかった。親が死んで辛い。知り合いが死んで辛い。下層に身をやつして暮らすことが辛い。それでも、幼馴染の言葉一つで生きたいと思う己がひどく憎くて。哀しくて。
自分はきっと死にたくなんてなくて、けれど一人でそれを言うのは辛いから誰かに死ぬなと言ってほしい。
フランシスコが死ぬなと言うそれがひどく、嬉しい。
芥子色の双眸が瞬いた。フランシスコの蘇芳色の双眸がそれを見据える。
「キュリオ、貴いって言葉、知ってる」
「知らない」
フランシスコは泣き顔に赤らんだ頬を押し付けて笑う。キュリオがむっと口元を引き結ぶことにさえ笑う。
「馬鹿だと思ってるだろう」
「思ってないよ。……――きっと、知らないってことが肝要なんだ。知らない人ほど、それに近いんだよ」
吐瀉物にまみれた唇をフランシスコは唐突に吸った。たじろいで逃げるキュリオを抑えこむ。
「…ッン、ば、かッ」
自分の口であってさえ嫌がるのを吸うフランシスコにキュリオが信じられないといった目を向ける。フランシスコは挑発的に笑う。紅い唇がどこからかの明かりで照った。
「馬鹿ッ、……は、吐いたんだぞ」
「知ってますよ、見てたから」
フランシスコはべろりとキュリオの汚れた頤さえ拭うように舐める。慌ててたじろぐキュリオを面白そうに見ている。
「泣いてるなんて、可愛いな」
「泣いてないッ」
「うそ。ほら、涙がボロボロ」
ぐずっと音を立てて詰まる鼻にキュリオが虚勢を張る。双眸から幾筋も涙が伝う。腫れた頬を撫でる涙が強張りを融かしていく。堰を切ったように溢れる涙は止まらない。哀しくなんてないのに、と慌てるキュリオをフランシスコは優しく見守る。
「涙があふれるのは哀しい時だけじゃないんだよ」
キュリオはフランシスコの胸に顔を伏せて慟哭した。不規則に絶え絶えな呼気や泣き声をフランシスコは受け入れた。肩や背を優しく撫でてくる。練色の髪が幕で覆うようにキュリオの泣き顔を隠す。白い頬を寄せて囁く。
「大好きだから、死んでほしくないんだ、ごめんね」
芥子色の双眸が紅く潤んだ。溢れる涙に過剰な潤みを帯びる。瞬くたびに雫が滴る。腫れた頬を冷やすように撫でる雫にただ、泣く。嗚咽すら途切れてそれでもキュリオは強い力でフランシスコにしがみつく。
「大好きだよ。君は、貴い」
ただ、泣く。
《了》