※キュリオ、女性設定
 キュリオを女性として話が展開します、ご注意


 あと、ちょっと、だけ


   68:神様。わたしは、もう少しだけ優しくなりたい

 少年に扮して身を隠す少女に剣戟の稽古をつけ終える。慌ただしく引っ込む後ろ姿に微笑みながら道具を片づける。ひどく目が回るようなことばかりが起きて日常が取り戻せない。どうしようもないと判っているからなお焦燥は募る。水浴びでもしたいと思いながら袖で汗を拭う。
「ほらまたそんなことをして」
顔を上げれば幼馴染のフランシスコが苦笑している。練色の長髪を豊かに流し蘇芳の双眸が与える印象はどこまでも穏やかだ。女性が黄色い声を上げる理由を納得はしても態度に反映はしない。
「水浴びでもしたい」
「自分の性別がなんだか判ってます?」
「見物人がお前だけなら構わない」
そう言いながら襟の留め具を外していく。抑圧から逃れた乳房が谷間を覗かせる。そのまま無造作に脱いでいきそうになるのをフランシスが慣れた動作で止める。ある程度抑えつけているがどうも育ちすぎる胸部はひそかな悩みの種だ。フランシスコは不自然な動作で目を逸らしてから所用をいくつか並べ立てた。
「手伝ってもらえないかな」
訊ねながらフランシスコはおめおめと引き下がる気はない。そういう性質である。幼いころから付き合いがあれば人となりだって判るものだ。キュリオはいくらかの間をおいてから承諾した。

 用事はちょっとした手続きのようなものでただの雑用だ。石造りの街を歩きながら用事を終えたキュリオは足運びも軽やかに運河沿いを歩く。水面に覗きこむ顔が映る。長くなったら切ることを繰り返す鳶色の髪は不揃いに揺れて、仲間うちの少女達は事あるごとに小言をいった。切るならちゃんと整えて、伸ばしたら綺麗なのに、と並べられてもキュリオに興味がない。なにもしていないのに胸部は膨らみだして抑えるのが少し苦しい。髪形をかえりみない態度は着衣にも反映されて、キュリオは動きやすい男性の恰好を好んだ。踝まであるような長い裾のスカートも穿かないし髪飾りなどももちろんしない。膨らみを隠しきれない胸部とくびれた腹、張りのある大腿部が性別を窺わせるだけだ。隠れ住む少女のように徹底した男装ではなくあくまでも好みの方向性の問題だ。
 女性という性別に不似合いな傷が眉の上から走る。傷は案外深くて目蓋を開くことは多分もうない。少年に扮する少女は自分の所為だとひどく気に病んでいたがキュリオは別にかまわないと事あるごとに言う。傷口はパックリ開いて肉を覗かせる。感覚も過敏で、触られると刺激が奔った。
「身だしなみにでも目覚めたか?」
唐突に響いた声と抱き締める強い腕に体が跳ねる。
 抱擁する腕は細いように見えて強靭でキュリオの動きを封じた。運河の淵にいたキュリオには逃げ場さえない。抱きしめる腕はしだいに移ろって胸部や腰部を指が這った。さらしを巻いて抑えこむ胸を、ぎゅうと潰すように掴んでくる。脚の間を這う指の感触が衣服越しであってもキュリオの体を震わせる。
「んッ、はな…せ…ッ」
キュリオは剣戟を戦闘術とするものとして体格はできているつもりだが性別という絶対的な不利がある。四肢をばたつかせてもがいても、蠢く影は抱擁にじゃれて爪を立てているかのようだ。ティボルトがクックッと笑う。
「細い腰だな。それでよく剣を使う。もっと強みになることを教えてやろうか」
ぐいと反転させられ、身構える前に唇を奪われる。背後の水の流れに仰け反ることさえキュリオにはできない。ティボルトが離れた刹那、腕がしなって平手打ちを命中させた。
 ティボルトは大してこたえるふうでもなく鼻を鳴らしてキュリオを抱き寄せた。噛みつく距離の限度を上手く図っている。睨みつけるだけのキュリオをティボルトは傲慢に見下ろしてくる。
「とんだ跳ねっ返りだ。オーディンの方がよっぽど可愛げがあるぜ」
「俺には関係ない。放せッ」
キュリオは性別を徹底的に偽らない反面で、言葉遣いが男性的であることが徹底している。自分が女性らしい言葉遣いになるなど気持ち悪いだけだと思っている。自分のことも平然と俺と呼ぶ。その知識がどこから来たのかはキュリオにも判らない。幼馴染であるフランシスコは幼いころは僕といい、長じてからは私になった。
 「なんだよ、この髪は。もうちょっと見てくれを気にしろよ」
気のすむまで短くする髪は毛先が揃うことなど稀で、不揃いであるのが常だ。専門職に頼んだりもしない自己流であるからバランスや見てくれも気にしない。入浴の際に鏡の前で鋏やナイフでざくざくと切り落とす。あんまりにもひどい時には女性陣が手を出してくる。目の前のティボルトの方が余程綺麗に整った髪形だ。艶めく黒髪の長さは俯いたなりにも整い、きちんと行き届いている。うなじを隠す黒髪は目にはかからず蒼碧の双眸が煌めくのが見える。
「色気ってものを覚えろよ。行かず後家になるぞ」
キュリオの本気の平手は察知したティボルトに抑えられる。明確な腕力差が恨めしい。腰へ回った腕が抱き寄せて指がやわらかな臀部を鷲掴んだ。
「ひッ、何をす、るッ…!」
裏返った声が上がり、キュリオは顔を真っ赤にしてもがいた。フランシスコより体に密着する服を着ていたことが裏目に出た。衣服による拘束を逃れることができるが、触れられた時の衝撃は比べ物にならない。その間にもティボルトの手が尻を揉んで脚の間へ入り込もうとする。
 「止めッ…! 止めろ、この、馬鹿ッ」
「なんだよ濡れてきたか?」
ティボルトの指が脚の間で卑猥に動く。逃げ場のない状況にしたのが己の落ち度と気の弛みであることを思えば余計に情けない。潤んだ双眸はすぐに許容量を超えて頬を滑る。ぽたぽたと頬を濡らす雫にティボルトも気づいた。
「おい、どうした」
「うる、さい…うるさいっこの馬鹿が! 放せッこの変態」
嘆息したティボルトが拘束を解いた。キュリオの体がその場にくずおれる。膝が笑ってまともに立っていられない。明確な性差が突きつける絶望と恐怖が身を灼いた。解放されたと認識した体のタガが弛む。落涙はおろか洟まで垂れてくる。何度もすすりあげてしゃくりあげながらキュリオは逃げだすことだけに意識を集中した。
 「悪かった。そこまでだとは思ってなかった」
ティボルトは降参だとでも言いたげに白い両手を上げて見せる。闇に身を隠す外套の奥で、二刀を携えた細腰が見える。キュリオは何度も袖で涙や洟を拭う。はしたないとフランシスコに咎められても手近にある拭うものとして使ってしまう。紅くなった目元や鼻をぐずぐず言わせて泣くキュリオにティボルトは肩を落とす。
「悪かった。……好きなんだよ。お前が好きだ」
紡がれた言葉にキュリオが二の句が継げなかった。
 太陽が沈めばすぐ夜だ。不意に視界を曇らせる夕暮れの中でキュリオは茫然とティボルトを見つめた。
「は…、は、ぁ…?」
頓狂に裏返る声さえ遠い。ティボルトとはまだ知りあって間もなく、まして好意など抱きようもない状況下だ。ティボルトという不意の闖入者を受け入れる用意がフランシスコやキュリオの間では出来上がっていない。
「俺の名前も知らないくせに」
「知ってるぜ、キュリオだろう。あの長髪がそう呼んでいるのが聞こえたんだよ。お前ら、名前で呼び合うのはいいが少し不用心だぜ」
混乱に陥ってキュリオは茫然と視線をうつむけた。
「なんだよ、もうあの長髪と将来でも約束してるのか。あれはお前に気があるぜ、見てれば判る」
「…――そ、そんなわけは、ないッ! 俺達は、共になすべきことが、あって」
「なした後はどうする気なんだよ。まさか自分の一生全てがそれで終わるなんて思うほど楽観的じゃないだろう。老臣ならともかくお前はまだ若い」
ずいぶん張りのある胸だ、と揶揄するようにうそぶく。
 「俺がどういう奴か判って、言っているのか」
衣服で飾り立てることはおろか髪を伸ばしさえしない。スカートやフリルには縁遠く、髪留めさえ所持しない。髪を留める前に切り落としてしまう性質だ。ティボルトははんと嘲りを帯びたような息を吐く。
「お前は本当に恋愛経験がないらしいな。好きになることに理由なんかあるもんか。好きになれば欠点なんて見えやしないんだよ。欠点が目につくのは慣れだとか飽きたとかそういう時だろ」
オレにはお前が光り輝いて見えるんだぜ、と紅く澄んだ唇がうそぶいた。しゃがんだキュリオに視線を合わせるように膝を折る。ふわんと翻る外套の裾は闇と区別がつかない。
「どうせ感覚が決断を左右するんだ、だからオレは感情のままに動く。気にくわないし腹が立つから倒したい相手がいるし、守ってやりたいやつもいる。…――お前はそういう全部を台無しにするほど威力があるぜ」
白い指先がキュリオの髪を梳く。桜色の爪先が眼前に迫るまで気付けない。堕ちた夜闇はいつの間にかひたひたと満ちていた。キュリオは明確に好意を示された経験が少ない。フランシスコはキュリオの頑固さを個性として受け止め、同時に幼馴染として具合の知れた相手として振る舞った。キュリオはどうすればフランシスコが反応するか知っているし、フランシスコもまたキュリオを動かすにはどうしたらいいか知っているはずだ。
「盲目的な愛ってのは、厄介だ」
ティボルトは自嘲するように口の端を歪める。整った彼の容貌ではそんな仕草さえ様になる。

「お前に、ともに逃げようと言われたらオレは、頷くかもしれない」

キュリオの芥子色の双眸が集束した。見開かれて目淵から落涙した。濡れて冷えた頬を熱い滴が滑る。
「そのくらいにはお前が好きなんだ。……判ってくれなくていい。赦してほしい」
蒼碧の双眸が蠱惑的に揺らいだ。黒く瞬く睫毛さえ見える。白と黒の対比で成り立つようにティボルトの髪は濡れ羽色に黒く、肌は透き通るように白い。唇が紅く澄んで内側に熱を秘めるようだ。適度な潤みを保持する皮膚に荒れたような気配はなく、触れれば融ける。
 「…――きない、…ッ出来ない…ッ! 俺には、あの子やフランシスコをおいていくことなんて、出来ない…!」
ティボルトの黒髪も蒼碧の双眸もこれ以上ないほどキュリオの体に働きかけてくる。触れれば拓く気がした。口でなんといっても体の感覚としてティボルトに傾くだろうことが感じられる。だが同時にその融解は別離を孕む。守ってきた少女や、これからを共に生きてきたフランシスコや、そういった諸々とすべて捨てることになる。迷惑をかけた相手もいるし結ばれた付き合いもある。一切を捨てていくことなど、非現実でしかない。ティボルトの双眸が冷えたように鋭い。貴族から一転して下層に転落したキュリオには慣れた痛みだ。政権の交代は同時にそれまでの安寧とした生活さえ奪った。一族すべてがその地位を負われて下賤に身を落とした。前政権の近い位置にいた分、転落の度合いはひどく対応できないものもいた。弱肉強食と言わんばかりに力のないものは追い落されて、生き残る能力のないものも同様だ。下層に堕ちてもキュリオがこうして政権転覆に望みをつなげるのはまだいい方だ。
 「お前のそういう優しさは、好きだぜ」
頬を抑えられてすぐに唇が重なる。濡れた頬を厭うこともなく抑える。唇を重ねて舌を吸い上げる。押されるままに後ずさったキュリオの腕ががくんと落ちて運河の方へ傾く。ティボルトの強い力がキュリオの肩を掴んで通路の方へ反転させた。そのまま押し倒される。石造りの街道は固く、肘や腕に擦過傷を負う。ひりひりする痛みさえ甘く呑みこむ口付けをティボルトはキュリオに施した。開かれた襟から覗く胸に触れる。それでも乱暴につかんだりせずに撫でるように触れてくる。
「……キュリオ」
掠れたティボルトの声が甘く響いた。胸を撫でる指先もついばむ唇もどこまでも優しく、それゆえにキュリオの罪悪感を刺激した。
「やめッ、たの、む…やめて、くれ…」
ティボルトの指先はキュリオをすぐさま快楽の坩堝へ突き落す。己がそれに溺れるだろうことは想像に難くなく、だからこそ怯える。切れそうに張り詰めた自尊心をティボルトは尊重してくれた。脚の間を撫でるのを止める。
「キュリオ」
力ずくでティボルトを押し退けられず、だからこそ感情に訴えるように媚びる。その浅ましさに気付いている。眦から幾筋も涙があふれた。情けない、と思う責める気持ちに打ちのめされて余計に涙する。震える唇を撫でてからティボルトは体を起こした。外套の中で白い腕が発光しているようだ。
「他の誰が好きでもいい。オレのことを、忘れるな」

お前が好きな、オレがいる

ティボルトは何事もなかったかのように外套を翻して闇へ融ける。体を起こしたキュリオは襟を詰める。震える指先が留め具を留める。ティボルトの熱にキュリオの体は確かに、拓いていた。
 キュリオはその場で、少し泣いた。


 「あれ、遅かったですね、今戻ったんですか」
練色の髪をなびかせたフランシスコがすぐさま踵を返してくる。キュリオは無表情にそうだがと返事をした。
「何か、ありました?」
キュリオが怪訝そうにフランシスコを見る。フランシスコはランプの明かりだけの中で目元を示す。
「紅いです。泣いたあとみたいだ。あなたが泣いたあとはいつもそう。すぐに判りますよ」
「…別に、泣いてないが」
「ならいいんですけど。あなたは普段鈍感なくせにいざとなると大きく物事をとらえる性質ですから。下手な負荷でも背負っているんじゃないかと気になっただけです」
たじろぐのをフランシスコは面白そうに眺める。
「何かあったら、言ってください、ね?」
優しく微笑みかけてくるフランシスコの笑顔さえ痛い。
 ティボルトのように明確な好意もフランシスコのように控える優しさも持ち合わせていない。ただ己が足りぬということだけは判った。与えられる行為に胡坐をかいて応えることさえままならない。ティボルトのように立場さえ超えて好きだということもなく、フランシスコのように影に徹する気構えもない。半端なありようをまざまざと見せつけられた格好になったキュリオはただ無力を噛みしめた。
「キュリオ?」
蘇芳の双眸が気がかりだとキュリオを見つめる。ぽたぽたと涙が落ちた。
「え、ちょっと大丈夫ですか、何かありましたか」
涙があふれたと思うともう止まらない。しゃくりあげる喉が熱く抑制をあっという間に振り切った。傷で閉じた目淵からでさえ涙があふれた。睫毛を濡らすキュリオをフランシスコは優しく抱擁した。鳶色の髪を梳くように撫で、包み込む。抱きしめる腕の強さは予想以上で、そのぬくもりはキュリオを拘束した。
「大丈夫です、あなたは間違っていません。だから泣かないで」
「……俺が間違っているなんて、何も知らない、くせに」
暴言を吐くキュリオにフランシスコは怒りもしない。ふわりと練色の長い髪が揺れた。
「えぇそうです、何も知りません。だから言えるんですよ。あなたは間違っていない。あなたが泣く理由なんてない、負うべき咎もない。だから、泣かないで」
フランシスコがふふっと笑う。
「柔らかい体だ。こんな小さな肩に重しをのせられるほど私は薄情じゃないつもりですよ。せめて、共有したい」
「…優しいんだ、な」
キュリオの潤んだ双眸がフランシスコを見る。
「優しくなんてありませんよ。私は私の欲望に忠実なだけ。私はあなたに泣いてなんて、欲しくない」
フランシスコを突き飛ばすようにキュリオはまろびでて井戸へたどりつく。ガラガラと釣瓶を鳴らして汲んだ水を頭から浴びる。突き刺すような冷水が痛く、それでいて安堵する。
「キュリオ! 風邪を引きます、そんな!」
溢れた涙さえかぶった水に紛れる。突き刺す痛みがキュリオの在り様をとどめさせた。ガタガタと震えながらキュリオは何度も井戸水を浴びた。
「俺、は…俺は俺が赦せない…!」
膨らんだ胸部が濡れて透ける。さらしだけに守られた突起がかたく尖る。白く巻きつけられたそれさえ見えるほどキュリオはずぶぬれになる。フランシスコは濡れることさえ厭わずにキュリオを抱擁した。濡れた鳶色の髪へ鼻先を寄せ、耳朶へ甘く言葉をささやく。
 震えるキュリオの手をフランシスコが抑えた。カタカタと震えるその指が血の気を失って白い。男性の衣服は必要な布地しかないから濡れれば裸体のように艶めかしい。キュリオの秘められた体の線があらわになった。それを隠すようにフランシスコは抱擁する。
「キュリオ、お願いですから家へ戻って」
フランシスコの声が甘い。
「風邪をひきます。戻って、眠って」
「俺はどうすれば、いい」
キュリオの手が顔を覆う。鳶色の髪をぐしゃりと掴んでむせぶ。
「俺はッ、俺は、誰の想いに、どう応えたらいいんだ、俺はどうすればいいんだ、正しいんだッ?! 成し遂げたいことはある、でも俺は、俺はッ…――優しくされたら俺は、どうしたらいいか、判らな…――」
キュリオに対してきたのは立場と権力を盾に暴挙を働くものばかりであったから、手加減なくはねつけてきた。その対応が一切出来ぬ相手が出現した。ティボルトはただキュリオが好きだと言ってそれ以上は触れてこなくて、だからこそキュリオははねつけることさえできない。優しくされるなんて、初めてで。だからどうしたらいいか判らない。殴りつけたり抑え込んだりすればいいのに。そうすればキュリオは罪悪感なくはねつけられたし嫌だ嫌いだといえたのに。
 フランシスコは力なく震える肩を抱く。好意への対処を知らずに生きてきた体だ。性別を偽るような衣服を選ぶことさえフランシスコたちは黙認してきた。その差異は明確に刻まれて、今、こうして牙を剥いている。女性として庇護に傾くのは悪い傾向ではなく、それが余計にキュリオを苦しめる。キュリオはこれまで誰の手助けも拒否して剣を覚えて生きてきた。男のなりをして服を着て過剰な庇護を拒否してきた。女性との付き合いを数でこなすフランシスコの方が余程処世術を知っている。キュリオはどこまでもいつまでも一人で生きてきた。その壁が今、破られて。
「大丈夫。あなたは、大丈夫ですよ。なにも間違ってなんか、いない」
――あなたの中へ入れたら、いいのに

君はどこまでもいつまでも一人で
誰の助けもなく一人で切り抜けてきたあなたが足を留めて振り向いてくれた
それはひどく嬉しいけれどその理由が傷を負ったことであったなら
私はあなたの振り向く顔など

「キュリオ?」
耳朶に甘く響くフランシスコの声にキュリオの涙腺は崩壊した。
「あぁほら、泣かないで。あなたに泣かれるととても辛いんですよ。どうして泣いているのか教えてはもらえないんですか?」
声が、甘く。
「キュリオ?」
「呼ぶなっ呼ばない、で…――! あいつの声と、混ざって俺は、どうしたら、いいか…」
キュリオは慟哭した。フランシスコへしがみつきながら同時に拒絶する。甘えながら突き放す。しがみつく指先も突き放す手も同じものでありながら。同じ熱源がどうしたらいいか判らないと泣いている。
「あいつって、誰?」
キュリオの答えはない。しゃくりあげる泣き声がすべてだ。不揃いに切られた鳶色の髪が手の内で揺れる。キュリオは見てくれなどかまわぬふうにどんどん髪を短くした。少年に扮する少女が抗いのように髪を切りたくないというのと比例するようにキュリオは髪を短くする。それは女性性を嫌うように徹底した。ナイフや鋏で思わぬタイミングで切り落とすので制止の効果はない。なんだその髪という頃にはすでに切り落とされた後なのだ。
「俺が、もう少し優し、かったら」
キュリオの嘆きがフランシスコの身にしみる。優しさは即ち嚥下にはつながらない。時には意見することが優しさにつながるのを知っている。
「俺がもう少し優しかった、ら、あいつの好意も受け取れたのかな」
ひぐっと喉を震わせて泣くキュリオをフランシスコは抱擁した。黙って抱きしめる。
 キュリオの視界が潤んだ。滲むのがもう何かさえ判らない。触れてくる熱だけがよりどころだ。何故この体についてきてくれる、好きなって、くれる。
「…――ぁ、あぁあ、あ…――」
慟哭が響いた。震える喉を食み、唇を寄せてフランシスコは抱きしめてくる。

命を懸けて好きだと言える相手がいたら、いいのに

キュリオにもフランシスコにもティボルトにもやるべきことやなすべきことがある。三者のそれは奇妙に入り混じりながら別離と融合を繰り返す。誰かの望みが奇妙に領域を広げて誰かの望みを満たす。その繰り返しだ。
「キュリオ。あなたが好きです。あなたがいれば、それでいいとさえ思う。あなたとこうして寄り添って、いられたなら」
「…――俺達には、するべきことが、あるのに」
「判ってます。それは確かになしたいことだ。けれど同時にあなたに隣にいてほしい。キュリオ、あなたがいないなんて私は耐えられない」
キュリオは黙って目蓋を閉じた。淵から幾筋も涙が伝う。頬を滑り落ちる感触が鮮明だ。濡らす睫毛さえ拭うように舌を這わせてくる。傷でふさがった片目を、フランシスコはこじ開けるように舌を這わせた。
「痛い」
「それはそれは」
揶揄するようにうそぶく言葉に真剣さはない。その気負いを背負わせない気遣いが痛い。

神様、私がもっと、もっと優しかったなら

「フラン、シスコ」
キュリオの声が震えた。戦慄く唇をフランシスコは躊躇せずに吸いついた。

誰が好きか、判ったのでしょうか

「ぅ、あぁあ、あぁ…――」
キュリオは突き上げられるままに泣いた。フランシスコの体温が領域を犯す。ただ、涙する。
「キュリオ」
体を犯すフランシスコのかすれた声が、した。

私が誰を好きか知っていたらこんなに、悩まなかったでしょうか?

目の前でフランシスコの熱っぽい視線と同時に、ティボルトの姿が点滅した。黒髪と練色の長い髪が交互に点滅する。蘇芳色の双眸と蒼碧の煌めき。得られる熱源の抑制を受けながらどこまでも広がっていく。

名前を、呼べない。

「あ、あぁぁ、あああ」
溢れ出る嬌声に咽び泣く。


《了》

書いていてひどく楽しかったとかね! なんだこの微妙に報われない感じ!     2010年11月7日UP

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