君を覚えておくために


   64:目をあけているとすぐに見失うから、瞼の裏の君をおもうよ

 夜が更けてもこの街はどこか騒々しい。裏道をたどって港へ行けば非合法の露店が布で張った屋根の下に不揃いに並ぶ。警邏や厄介が起きればすぐにでも散っていくがそうして空いた場所へはまた別の売り手が店を構えてしまう。絶え間ない人の流れが発する熱量は空気を騒がせた。明かりの消えた室内で葵は茫洋と慣れた人ごみを思い出した。必要があれば身分を偽ることさえ頻繁だ。その変動は上下に拘泥せず、葵の意志はまったく考慮されない。夜半の人の流れにまぎれることもよくあり、時には売り手に変わることもある。皆で似たような素材や作りの上着をはおり、それでいてどことなく個性がある。同じようなというくくりは厳然とそこにあるのに個性も根付いている。葵は散漫に広がる思考に倦んだように目線を戻した。柳眉に切れあった眦が月白に整った美貌を作る。昼間に仕事場で眺めるときは冷たいだけに見える顔なのに夜の月明かりに照らすだけで魅力は跳ねあがる。皮膚を照らす月光でさえ誂えたようなそれが歪むのを葵はあまり見たことはない。
 葛は元々口数の少ない性質だ。それを言えよと葵が憤慨したのは、知りあった期間の長さを考えても多めだ。それでも二人がともに居を構えるのは、彼等の意志を反映したわけではない。知りあったことでさえはるか上位の計らいであり諍いが起きたからと言って住まいを別にする自由もない。不自由で気詰まりな同居は負担が大きく、互いに譲歩を繰り返して円満に過ごしている。無造作に命を懸ける本業は感情を刹那的にする。ある程度の間をおいて自然と同衾した。それからは不定期に行為を繰り返し、その際の役割は二転三転した。今は葛が葵に覆いかぶさっている。脚の間にある腰は案外骨がある。着痩せするのか着衣の葛は細身に見える。
「なにを考えている」
葛の声は実は高いんじゃないかと常々思う。意識的に低くしているような気がした。低い声と高い声のどちらが威嚇に有効かは明白だ。黒髪を上げて後ろへ流す葛の白い額は賢しさのように秀でている。行為に及ぼうとしているので軽装だがシャツの白さなど手ぬかりはない。
「別に? 葛ってきれいだなーと思って」
軽口で感情を誤魔化すと葛の眉が寄る。誰にも気付かれなかったこの処世術は何故か葛にだけ通用しない。
 「なぁ、ほんとにすんの? なんか顔怖いよ」
葛の唇が薄く開いて嘆息した。広い肩が落ちる。解放されるのかと思えば逆に襟を掴まれた。
「言いたいことがあるなら言え」
肉桂色の葵の双眸が眇められる。葛の言葉はいつでも直截的だ。飾らない。本質や核心を衝くのが上手く、誤魔化しや小手先はすぐに見破る。だが複雑な経路を経ている話題は入り組んでいて、核心を衝くことがすなわち判りやすさに直結しないので唐突に思えるのだ。頭の回転が速いものが突拍子もないことをするように思える一因だ。
「なんだよ、なんもないよ。お前が綺麗だなってそれだけじゃないか。この間はオレが上だったから今度は下なのかなーって思っただけ」
あくまでも逃れようとするのを葛の漆黒がひと睨みする。葛の双眸が不意に冷酷な光を帯びる。葛の体つきは明らかに訓練を受けたもののそれだ。まともな戦闘になれば葵をねじ伏せるくらいなんでもないだろう。そうしないのは葛のわきまえと温情があるからだ。
 その葛は他者からの温情など受け付けない。優しさと同情は同義になり、それは憤りと侮蔑の対象でしかない。感情の交錯を葛が嫌うのを葵は承知している。そのうえで葵は感情的に働き掛ける。元来人懐っこいに分類される葵は緊張を解くことも得手であった。直接的にぶつかりあうことでこれまでを切り抜けてきたやり方を悔いたり改めたりする気が葵にはない。葛も慎重な人付き合いを止めるつもりはなく、二人の要望は平行線をたどりけして交わらない。体を重ねてからもそれに変化はない。葛の頑なな態度は自然と葵の善意を奪う。よくしてやりたいと思うのに素直にそう言えない。明確に嫌うことこそないが皮肉の応酬はよくあるしすれ違いも日常茶飯だ。そのたびに憤りと後悔を繰り返す。
 葛が沈黙した。明確に責めないが歩み寄りもしない。葵は葛の世界には有と無の二つしかないんじゃないかと思ったことがある。少しとかちょっととかそういう曖昧さを排除するだけの気概が葛にはある。その割り切りが葵にはうらやましくて憧れだった。感情の真意を読み取るのは容易ではないのに人は簡単に感情を見せる。判断材料は皆無で、それなのに人は判ってくれないと嘆いて失望して涙する。馴染んだ地域から居住を移した経験が葵にはある。背景もとらえ方もまるで違う環境を経験した。ある程度の見識はあるつもりだしその範囲も狭くないと自負する。それでも葛は深淵のように口を開けて広がる。その底を見せずただ虚ろでつかみどころがない。
「なんだよ、黙っちゃって。ひょっとして惚れた? 綺麗ですとか言われて胸を打たれたとか」
だから葵は道化たように明るく、辛くなんてないと振る舞う。
「道が一つしか見えないお前の言葉に俺が胸を打たれるか」
一本気だとか正義感だとか評される葵への皮肉だ。むっと唇を尖らせれば葛は口の端だけを吊り上げて笑う。それでも葵は自分にはこれで十分なのではないかと思う。触ることさえできない状況に、慕うものが行ってしまった経験が憶病に慎重にさせる。触れるんだからいいじゃないか、皮肉や悪口でも声が聞けるんだからマシじゃないか。葵は自分をそう納得させて生きてきた。
 「だから、堪えていることがあれば言えばいいと、言っている。俺は嘘をつかれるのは嫌いだ」
葛の強い視線に葵の背が慄然と震えた。その視線は深く深く突きささって葵の体を貫いた。大事に隠してきた心臓を直接抉りだされた気がした。葛にはきっと葵が必死の思いで隠してきた醜悪な本質が見えている。隠れているつもりであった醜態を見抜かれている羞恥と怒りとやるせなさに葵の体から力が抜ける。何故判ったとは訊かない。認めることになるし知りたくもなかった。黙り込む葵の襟から手を離して葛の手が頬を包んだ。葛の体温は低く葵のそれは反対に高い。融けるような衝撃の後にすんなりなじんだ。短く不揃いに切った短髪を梳くように撫でてくる。葵の髪は瞳と同じように色の抜けた肉桂色だ。あらわにしている襟足のあたりを葛の指先が移ろった。強引に襟を開いたりしないのは葛の性質のようだ。葛の堪えは表に出ないがその分相手に強いることもしない。
 紅い唇が喉を食むのを葵は好きにさせた。喉仏を舌先が押して息苦しい。深く息を吸おうとして胸部が膨張するのを添えられた葛の手が包む。抑えるような意地悪さはないが葵の引け目を感じてもいる。くすりと葛の口元が笑んだ。
「…だって、しょうがないじゃないか」
葵の言葉を葛は黙って聞く。口数の少なさは葛が話を聞く性質であることを窺わせる。葛は言い訳でも真実でもとりあえず言い分を聞くことができる。
「お前はすぐにいなくなるし。だったら幻でも何でも都合よく見える方がいいじゃない、か」
「お前が幻で満足できるとは知らなかった」
それは皮肉というよりちょっとした揶揄のようだ。悪意はあまりなく言葉尻を捕らえるだけである。葛のそうした遊びは珍しく葵も指摘しない。葛の態度は厳しいがそれは同時に自身へも反映される。
「俺を嫌うなら能力を使ってでも逃げろ」
互いに特殊能力を使用してまでの逃避はしない。それほどの無理強いもしない暗黙の了解がある。葛に対して甘えがなかったと言えば嘘になる。黙り込む葵に少し考えこんでから葛が口を開いた。考えこむ際に小首を傾げる癖があることに気付いてからその無為さに葵はうんざりした。
 「失う可能性を否定はしない」
突き刺さった気がした。葛の言葉は真実で、真実は時に鋭い切れ味で裂いていく。言葉もない葵を葛は変わらない表情のまま見つめた。もともと葛は表情を変えない性質であるからそれはありふれている。意識的に変化を堪えていても判らないということでもある。なんでも。なんでもほらこうして裏と表があってそれがどちらかなんて決して判りはしないのに。それでも葵は相手の誠意を測る。嘘か冗談か本気か真実か。それが正答であるかなんて知らない、ただ好悪の情で判断するだけなのに。
「だが…だったら、隣で手を繋いでいればいいと、想う」
慣れ合いを嫌う葛の譲歩に葵は泣きたくなった。葛の潤んだ漆黒が月白で水面のように照る。髪の黒さと肌の白さで葛は白黒で構成されているかのようだ。写真じみたそれの造作に目を奪われる。葛の肌は肌理も細やかで月白に照るようだ。
「触っていればいなくなる前兆くらい、掴めるだろう」
それから対応すればいい。葛はこともなげにそういう。いなくなるのが怖いなら背を丸めずに手を伸ばしてつかみ取れ。挑発的な大胆さがギャップを呼んだ。葛とともに暮らして判ったことは彼は慎重で堅実だということくらいだ。その葛が乱暴に掴み取れなどと言う。
「…なんだ、葛って案外」
葵はそこで言葉を切った。葛がピクリと眉を跳ねさせてから続きを問うた。
「案外、なんだ」
「さぁ? 案外、オレ好みだなって」
「馬鹿ばかり、言う!」
憤慨したように一瞬、そっぽを向いた葛が葵の唇を奪う。とろけるほどの発熱は葵の体に融ける。体温が沁みてくるのを心地よく味わった。葛の頬が紅い。間近に見えるそれは発熱を帯びているかのようだ。澄んで紅い唇が火照ったように潤んで艶めく。
「だが、そういうお前が俺は嫌いではない」
声がひどく心地いい。葛の堪えを帯びたような低音が葵の耳朶を優しく撫でる。危ういバランスで成り立つそれを、それでいてその負荷を感じさせない。なんでもないこととして聞き流させるそれがひどく心地よかった。
「葛、声。低くしてるだろう。喉を潰すぞ」
「こんな声は潰れたところでたいして損害もない」
葛は謳うように声が良くてどうする、役になんて立たないとうそぶいた。
「オレがお前を思い出すのに必要だろ」
「声になんか頼るな」
葛が笑って口づける。重なる唇の柔らかな皮膚の感触は一瞬で消えて融けあう。

「幻のための切欠でもいいからお前が俺を覚えていてくれればいい」

葛の声は優しくて。
「馬鹿らしいな」
どちらからともなく笑う。記憶に残るのを嫌う性質の仕事を生業としている。望んでも得られないことであるのは明らかだった。それを双方ともに承知してもいる。
「俺を見失って、結果として好都合な俺を想えばいい」
葛の提示した妥協案は泣きたくなる類いのものだ。どうしようもない事情と同時に現実味を帯びる。
「誰かを想うことがこんなに愉しいなんて思わなかった」
葵の言葉に葛はただ口元を弛めて微笑んだ。嘲りなどは含まずにただ微笑ましいと言いたげに優しい。
 「普段忘れていることがきっととても稀有なことなんだ」
葛の音が葵の身にしみる。葛はその稀有なことをけして逃したりはしないだろうし見逃しもしないだろう。その触覚に引っかかっただけありがたい話だ。葵の道化も堪えもありふれた。

あなたがそう言ってくれるだけで、私は

葵は目蓋を閉じながら身を任せ、その口元は弛んだように笑う。葵の体を牛耳る葛の指先が皮膚に触れた。


《了》

なんか、どうなの?!                 2010年10月25日UP

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