普段は冷たいのに、なんで?
59:蹴り破って踏みにじってもう二度と戻れなくして、この場所に
イレヴンとして虐げられる劣悪な環境は少なからず卜部の感覚器官を鍛えた。好悪にかかわらず直感が働くようになったし機嫌の窺い方も覚えた。与えられるストレスに比例して感覚が鋭くなっていく。まずいな、と思ったことはたいていそういう結果になったしならなければ運がいいというだけだ。うなじがちりちり灼けるようなそれが気にかかって仕方ない。済ませるべきことをこなして空手になった卜部の足がふとそちらを向いた。命を懸ける戦場での判断は一瞬で、けれど迷えばその後悔は後を引く。迷えば鈍る。躊躇したならばその時点で極端に分が悪くなる。足元さえ揺らぐその恐怖から逃げるように卜部は感覚に従うようにゼロの私室の前に立った。入り組んだ道順をたどるが交渉を持つ際に何度か呼び出しを受けている。交渉に共用場所を使うわけにもいかず、安全策としてゼロの私室に場所は定められた。何度か呼び出されれば自然と経路も覚える。
ゼロの正体は交渉を持つ際に本人から明かされた。ルルーシュという耳に残る日本語ではない響きが印象的だった。名字は明かせないが調べようと思えばすぐに判るだろう、とルルーシュが自嘲気味に言った。調べて判らないなら、そうだな、それだけの低価値であったというだけだ。瞬くように潤んだ紫苑が目蓋の裏に灼きついた。来訪を告げる手続きを踏む。応答がない。幾重にも生活環境を重ねているらしいルルーシュは案外留守が多い。杞憂であったならばそれでいいと思いながら立ち去れない。度重なる戦闘で卜部も人の気配くらいは読めるようになった。藤堂ほど明敏ではないがその辺のゴロツキに負けてやる気はない程度には鋭い。扉の奥には確実に気配があった。寝食を共にすると明言してはばからない魔女のものではない。彼女の気配だけはどうも読みづらく何度も下手を打っている。いい加減立ち去ろうとした時、静かな声で誰何された。名前を名乗り、身分証明を兼ねた問答をする。躊躇をにじませたまま施錠が解かれ、入室の許可を得た。
扉を後ろ手に閉めながら施錠を確認する。室内に魔女の気配はなくルルーシュ一人だ。華奢な体躯をふらふらさせてルルーシュは部屋の真ん中で座り込んだ。体調が悪いのかと思って問うても返事がない。
「都合や具合が悪ィなら帰るぜ」
怯んだ卜部が逃げる策を探る。深刻なルルーシュの様子に踏み込むべきではなかったと後悔するが遅い。逃げだしたかったが膝を抱えたルルーシュの肩が震えているのが見えた。泣いている。卜部は息をついて肩を落としてから膝を抱えるルルーシュのもとへ行った。
「どうかしたのかよ」
「……べつに」
返答はそっけない。それでもあえて素気無く対応するルルーシュから数多の手が伸びるかのように卜部をとらえた。否定するのは肯定してほしいからだ。嫌だ嫌いだ構うなはとどのつまり構ってほしいと言っている。本当に縁を切りたければ無難に対応するの方が賢い。否定して突っかかるのはさらなる関係性を呼ぶだけだ。そうかと相槌を打って卜部は隣へ腰を下ろした。泣いている少年をおいて日常に戻れるほど卜部は割り切れない。ルルーシュの方が実力的に上であると知っていても感覚として庇護するべきものとしての見方が働く。このまま部屋へ戻っても煩悶するだけなのが目に見えているから敢えて居座った。ルルーシュも積極的に追い出そうとはしない。相手の対応さえ先読みして流れに取り込むゼロの顔を持つ少年としては寛大だ。しばらく洟をすすったりヒクヒクとしゃくりあげる音がした。ルルーシュが何をこうも泣いているのか、原因を共有できない以上卜部は問うたりもしない。情報を得ることが時に責任さえ帯びることを卜部は知っている。
ぐずっと鼻を鳴らしながら顔をあげたルルーシュの目や鼻が紅い。過剰な潤みで艶めく紫苑が茫洋と遠くを見ている。白い頬を幾筋も涙が伝う。泣いている時でさえルルーシュの顔は観賞に耐える美しさだ。造作がいいのか地盤がいいのかは判らないが表情を歪めてもそれなりに見ていられる顔というものはあるのだと卜部はふと思った。
「う、うら、べ、オレを…オレを要らないと、罵ってほしい」
「…やだよ」
肯定も否定も避けてきた卜部にとってその要望は忌避に値するものであったから即ち婉曲に断った。好きも嫌いも相手の価値を高低に関わらず認めたことになるため、関わりを避けたい卜部はどちらにも与しないのが通常だった。肯定するのも否定するのもそれなりに熱量が必要であり、そうした面倒の一切合財から逃げている。明確に断りを入れる卜部の表情にルルーシュがううっと声をあげて泣いた。
「どっどうしてだッ! お前はどうせ藤堂がいればいい癖にッ! 藤堂がいればこんな、オレなんか…――つぅうぅ」
自分で言って自分で傷ついている。卜部と藤堂の関係はすぐさま断ち切れるようなものではない。様々に絡みあったそれはひも解くのでさえ億劫だ。
「オレ、なんかァあッ」
尖った膝へ顔を押しつけるようにしてルルーシュが咽び泣いた。嗚咽に横隔膜が追いつかず不規則な痙攣を繰り返して呼吸のリズムさえ狂う。過去の呪縛は案外根深くて、欲しいといって手に入らない位置にいたものは素直に欲しいなどとは言わなくなる。卜部もある程度の屈折は経験があるし、名字を明かさないルルーシュにそれを感じ取ってもいる。
「オレなんかッ、オレなんか、いらないと言えばいいッ! 嫌いだって! 要らないって!」
叫ぶルルーシュを止めるように卜部の手がぽすんとルルーシュの頭にのせられる。そのまま黒絹の髪を乱すようにぐしゃぐしゃと撫でてやる。
「周りが見えねぇ時期はある。だが、いつか見ろ。目をつぶってもいいから、いつか開けろ」
卜部の声と言葉をルルーシュが静かに聞いた。反論もしないが頷く相槌さえない。それでもルルーシュの裡へ響く手応えが卜部にはあった。ルルーシュは人の話が聞けないわけではない。理解したうえで対応を練ることができる。遠慮が及ぶあまりに皮肉げであったり反抗的であったりするだけだ。状況の把握として他者の意見が必要であることをルルーシュは知っているし聞く耳を持っている。
「いつか見れるなら目を閉じろ。常に見開いているような義理はないんだから」
ぐしゃりと黒髪を乱すように頭を撫でるとルルーシュの体が震えた。紅潮した頬を新たな涙が筋をつくって落ちていく。不規則な胸郭の痙攣もそのままだ。しゃくりあげるルルーシュの白い喉は奇妙に灼きつく。
ルルーシュが涙を拭うのが追いつかない。指先を濡らすように幾筋も透明な照りが頬に走る。頬の紅潮は目元や鼻にまで及び、火照ったように発色した。
「…――お前に。お前に罵られた痛みに全てごっちゃにしてやろうと、想ってたのに」
傷を隠すためにあえて傷を負うのを望むのは卜部にも覚えがある。それで藤堂を挑発して散々な目に遭った。やめとけよ、とは経験者の物言いだ。傷を裂く痛みは痛撃と同じ程度に快感を帯びる。達成感の問題だ。結果より過程に重きを見る。
「お前に拒否されたと、泣いてしまいたかった! 痛みさえ凌駕する痛みがあると、想って、いたのに!」
ひぃんと泣くルルーシュを卜部は黙って頭を撫で続ける。いぃんと伸びる語尾が奇妙な響きでこだます。仏壇の鈴を鳴らした時の響きが伸びるのに似ていると卜部は茫洋と思いだした。ルルーシュの声はまだ取り返しがつくかのように女性じみて高い。時折裏返る声の高さが卜部の耳には新鮮だ。よく考えれば卜部の周りに高音が驚くほどいない。同僚として唯一の女性である千葉も低い声を出す。女性蔑視が根強い職種であればなお彼女の努力の結果かもしれないが、その分ルルーシュの高音が際立った。卜部の手が乱暴に幼子をあやすように頭を撫でる。
「泣きたかったら泣けばいい。涙が出たらそれが限界値だ。超越したっていいことないぜ。泣けるときに泣けよ」
限界を超えてなお強制される感覚の末路を卜部は知っているつもりだ。惨澹たる有様のそれをルルーシュに味わわせる気はなかった。許容を超えた感覚の暴走は到底手に負えるものではなく、後始末も手間がかかる。発散できるならしておくに越したことはないというのが卜部の経験としての結論だ。限界を超えての崩壊は感情にさえ痛手を残す。疼痛に近い長引くその痛みをルルーシュに教えるつもりはない。
「――馬鹿ッ、ばかッなんで、なんでもっと…――」
不満を訴えられることに卜部はたぶん慣れている。もっと愛してほしかった。付き合った女の別れ際の常套句だ。卜部には藤堂がいる。藤堂とは命を懸けた戦場でのやり取りが多く、それを超越できる存在に早々ぶち当たるわけもなく、自然的に付き合いの中で藤堂の存在が問題視された。けれど卜部の中で藤堂の存在はそんな位置に無いのだ。それを感じ取れないものとのやり取りは平行していつか別れた。了解できぬものを抱えたものとのやり取りを倦んだ卜部は後腐れもなく別れる。後も追わないので自然と諍いはおろか付き合いさえ絶える。どうなったかさえ気にならない。名前さえも覚えていないそれらを気にするほど安寧とした位置に卜部はいない。卜部の位置では態度はおろか情報さえが命を左右した。だから情報の取捨には毅然とした区別が伴う。不可であると判じた情報を後生大事に取っておくような趣味や習慣が卜部にはない。けれど別れた女がみんな判を押したように同じことを言うので繰り返されたその言葉だけは印象に残った。そして己にはそれが決定的に足りないのだという結果を叩きだした。結論さえ出れば後のことに用はなく、けれどそれはいつまでも卜部の中に残った。己に決定的に足りないそれを藤堂は、ルルーシュは、持っているのだろうかと思う。詮無いそれを拙く想う。
「オレのことを嫌いだと言えばオレも楽なのに」
「別にお前のことは嫌ってねェよ。だから交渉も持つンだよ」
卜部は徹底的に膝を屈する連中とは距離を置いている。反抗するわけではないが納得できぬならそう言う。藤堂がゼロに与することを合意したことも意見があれば口にしている。何度も繰り返したことを言うことに卜部が倦んだ。反芻を繰り返すのは気性に合わない。卜部は女性ではないのだから反芻によって得られるものなどない。
「言うことがそれだけなら俺は行くぞ」
冷たく言ってもルルーシュは待てとさえ言わない。その淡白さは同時にかまってほしい表れでもある。
「さっさと行け。オレはいてほしいなんて言ってない。お前の、甘さだろう」
目に見えて拗ねられて卜部はルルーシュの頭をぐりぐりと撫でる。ルルーシュも今度は黙っている。涙に濡れた頬が雲母のように照った。きらきらとしたそれは研磨という人工が加わっていない天然もののようだ。
ルルーシュが唐突に唇を奪った。その勢いのまま卜部が押し倒される。重なる唇は何度も吸いついて卜部の舌を吸い上げた。ルルーシュの拒絶さえ甘い。甘ったるいそれはどこか慣れ合いのように卜部の意識を刺激する。拒否されてもなお信頼関係の継続する甘えが。
「…――嬉しい。お前がオレを突き放していなくならなくて嬉しいんだでも辛い。お前の何かを犠牲にしているんだろうか、でもオレはオレのためにお前がいてくれるのを手放したくない」
犠牲の無い利益などない。何物かを得ているならそれはどこかで誰かを犠牲にしている。損失の無い獲得などない。正負は隣あったまま永遠に離れられない近さと遠さで絡みあう。どちらか片方だけを得ることなど出来ない。得る分だけ何者かが失っている。
「甘ったれていると、判ってる! それでもお前がオレを罵倒してくれないことが、嬉しい…!」
泣きじゃくるルルーシュを卜部はどうもできない。指先は慄然と震えた。与えることの恐怖をこんなにも久しく忘れていた。茫然とする卜部を押し倒すようにルルーシュは体を預けてくる。芯を帯びた体重がルルーシュの信頼の度合いを示して卜部は無下に扱えなかった。
卜部がルルーシュの所属を調べようとする手は何度も止まった。ルルーシュがどんな所属であっても対応に変化はないという気負いのほかに知りたくない気持ちが働いた。知ってしまったら知らぬふりはできない。知らなければよかったことなど、世界には溢れている。取り返しのつかないことであると卜部は判じた。だから追及はしなかった。どんな生まれでも構わないという平等に秘されたのは知ることへの恐怖だ。ルルーシュの言葉に乗じただけの保身だ。痛いほどに知っているからなお追及も何もできない。打つ手がない。なぁなぁで済ませた曖昧さが不意に牙をむいた。痛烈なその痛みにのたうちながら卜部に打つべきすべさえない。ルルーシュが紡ぐ礼さえどこか空々しい。追及しないことを喜ぶ言葉にさえ裏を探る。ないと判じてもなお卜部は裏を探らずには居られなかった。浅ましい。
「お前は、優しい」
ルルーシュの震える声がすべてだ。ルルーシュは卜部を見抜き同時に目測を誤っている。それでもその誤差は卜部にとって救いでもある。
「別にそんな、たいしたもんじゃねェよ」
ルルーシュの黒髪が手の内で滑った。さらさらとしたそれがとどまらずに流れていく。潤んだ紫苑が強く卜部を見据えた。逃げられない強さと同時に心地よさを感じた。引き留められることがこんなにも嬉しいということを卜部は知らなかった。
「ごめん」
不意に謝辞を示したルルーシュは乱暴に卜部の唇へ吸いついた。謝りながらその行動に遠慮はない。吸いつく唇にも迷いはなく、紅く熟れた唇が何度も卜部の視界を埋めた。震えさえ呑みこむそれに卜部はなすすべなく身を任せた。拒絶したところで新たな道が開けるわけでもない。その流れに身を任せることしか出来ないといった方が正しかった。
「ごめん」
繰り返す謝罪が何に対してのものなのか卜部には判らない。だから返事もしない。それでも構わないようにルルーシュは身を預けてくる。華奢な体躯であってもそれなりに重みがある。卜部の体にすんなりなじむ重さに驚いた。ルルーシュの体温は卜部の胸で何度も震えた。拒絶に怯えるかのような神経的な震えを卜部は素気無くあしらえなかった。
「ごめん」
ただ、抱き締める。それしかすべがなくまた思いつきもしなかった。謝るルルーシュの声はか細くて卜部は拒絶の言葉が言えなかった。ごめん、と繰り返すのをただ抱きしめる。そのぬくもりにどこか遠い時期の己を重ねた。卜部にも他者を信じられなくそれでいて他者の縁が必要な時期があった。ルルーシュのそれもそうであると一方的な判断だ。違っていても構わないし、違って当然だとも思う。どうせ感情のやり取りなど自己満足と自己理解に成り立つだけだ。他者のそれなどかまわないほど利己的なそれは執拗にはびこった。
人は所詮、自分の感覚なしに生きることなど出来ない
それは卜部が得た結論だった。それは少なからず卜部の在り様を決定する。
君が必要とする俺は俺でないかも知れず、けれど君はそんなことなど関係なく俺を求める。
それが全てだ。
卜部は黙って目蓋を閉じる。ルルーシュの頭へ乗せた手のひらが体温に融ける気がした。
《了》