君がいないなんて考えられない
56:死は、いつから非日常になってしまったのだろう
予感はあった。起き上がれないまま新宿は茫洋と時刻を確かめようと枕もとを探った。携帯のライトの点滅が見えたが手の届く位置に無い。起き上がるのが億劫でそのまま手を伸ばすのを諦めた。大丈夫なのかと確かめる都庁の顔がありありと浮かんで少し癒された。昨日から体調の変異は感じていた。笑顔がかたいと都庁にしては的確な指摘に、お前と向かい合うと俺も緊張しちゃうんだぜなんてうそぶいて誤魔化した。明日ちゃんと乗車できるかと懸念していたのが最悪の形で実を結んだことになる。頻りに呼び出しを知らせる携帯は都庁からだろうか。無断欠勤を怒られそうだと思いながらその現実味の無さに戦慄した。意識さえ危うく、俺もう駄目かもなどと不似合いな不安が募る。意識があったのはそこまでで新宿の視界は緞帳を落としたように一気に暗転した。
もぞりと蠢く気配に目蓋が震えた。薄く開いていく視界にある天井が見慣れたものであることに安堵する。首を巡らせるとぎゅうっと擦れたような音がして跳ね起きる。手で探るまでもなくそれがなんだか判った。氷枕だ。こんな古風なものどこから、と目線を投げるとそこにいた都庁に仰天した。新宿のベッドへ顔を伏せるようにして座り込んでいる。身動き一つしないのが不吉だ。新宿はおそるおそる表情を隠していた前髪を退けると都庁の寝顔が見えた。疲れて眠ってしまっただけという風情に少し安堵した。小間物を乗せるのに使う小卓の上には一人用の土鍋が鎮座していた。冷えているだろうがそれが療養食であろうことくらいは想像がつく。
都庁を煩わせたことに気付いて落胆した。まして都庁は新宿の変調を指摘しているくらいだから管理不行き届きとして呆れられたかもしれないとも思う。眼鏡を取ると都庁の顔は案外幼い。紅玉の双眸が見えない所為か、白と黒で世界が構成されているかのようだ。よく見れば制服だ。ますます新宿の肩が落ちる。都庁の生活を完全にかき乱している。自分の世話くらいはできるつもりだったんだけどな、と反省する。黒髪を梳くようにして撫でれば滑らかだ。いつもきちんと整えられている髪が少し乱れている。額を隠す前髪が新宿の指に合わせて揺れた。
「さき?」
呼びかけが聞こえたかのように都庁の睫毛が震えて目蓋が開いた。水面のように潤んで揺らめく紅い瞳は蠱惑的だ。都庁は茫洋とあたりを見回したが新宿が起きていることに気付くと顔色を変えた。
「し、新ッ、新宿ッ! 大丈夫なのか、連絡が来ないから、来てみたらお前が、私は」
都庁が大慌てで何かを探している。隠しやポケットを探ってからぶんぶんと頭をふって救急箱へ至る。出したのは体温計だ。突きだすように渡されて新宿が反射的に受け取った。
「前?」
「熱ッ。熱を計れ、私が来た時には随分高くて…――今は、どうだ、薬なんかも何がいいのか判らないしとにかく冷やして…そ、そうか病院に連絡すればよかった」
独楽鼠のようにくるくる表情を変える都庁に新宿は堪えきれずに笑いだした。新宿より都庁の方が病人然としている。肩を震わせて笑う新宿に都庁が勢いのまま噛みつく。叱りつけるようなそれはリーダーとしての在り様を心がける都庁にはありがちな力みだ。見慣れたそれに新宿の裡へ安堵が広がる。
「悪い、大丈夫だ、ありがとう、落ち着いた。でも、ふふ、前の方が重病っぽいな…」
顔を赤らめたまま黙る都庁を見てから体温計を脇へ挟んだ。下を向く際に不要な締め付けがなく、襟が緩められているのが判った。都庁は目線を逸らせたままだ。その双眸が不意に解き放たれたように潤む。震える唇が引き結ばれて都庁が嬌声を堪えるのにも似ていた。たとえ屈すると判っていても都庁は手を抜いたりしない性質だ。息をするためか薄く開くともう堪えきれない。震えて噛みしめる唇と目元まで満ちた涙が頬を滑り落ちた。声を立てずに泣く都庁に驚いた新宿は謝りながら眼鏡を返し、都庁も受け取る。新宿は寝台に起き上がっているが都庁は床へじかに膝をついている。普段は上にある都庁の顔や瞳が下にあるのは新鮮な光景だ。場違いなことに気付きながらそれを新宿はひそかに愉しんだ。ぐずりと鼻を鳴らして涙を拭うが、拭うそばから溢れる涙が都庁の白い頬を濡らした。都庁はわりあい厳しく物事に臨む性質であり、それを己だけでなく他者にも少し強いる。そういう意味で厳しくある都庁のこうした崩壊を見るのは寝るときくらいで、その意外性に新宿は目を瞬かせた。
「さき? 本当にどうしたんだよ」
電子音を立てる体温計を確かめながら新宿が問うた。微熱があるが大事に至るほどではないと結論付けた。
「…――ッお前、が!」
都庁の紅い双眸が責めるように新宿を睨む。その睥睨でさえ子供が母親に向けるような親しみと稚気が窺える。
「お前が、呼んでも起きないからっ私は! お前は私が呼べば絶対起きると、言っていたのに! 起きないからっどうしようかと…――どうしたらいいか、判らなく」
ボスっと都庁が新宿の寝台に顔を伏せた。肩が震えている。
「お前がこのまま起きなかったら私はどうしたらいいんだと、思って――!」
受け取った眼鏡を都庁はかけようとしない。新宿が伏せた都庁の頭を撫でる。指通りのいいさらりとした黒髪が流れた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら都庁がもぞもぞと紙片を探り出す。それを新宿に突きつける。
「え、なに?」
「…月島が、お前が目を覚ましたら渡せと、言って…」
都庁をもらうとかいう内容だったら受け取らないぜ、と前置いてから折りたたまれた紙片を開く。月島の穏やかな性質を示すように気負わない走り書きだ。
都庁さんは役に立たないのでおいていきます。回復したら二人で休んだ分を取り戻すくらいに働いてもらいますから。穏やかな筆であるが断固たる意志の強さが見えるのは月島らしい。最後に月島十六夜と署名があり、紙片の端に治らなかったら都庁さんもらうから! と六本木の字が踊っている。最後に二人の連名で一言添えられている。長引くならそう言ってくださいね、都庁さんを説得してこちらに傾かせますから。不吉な一言には見ないふりをする。都庁は呑気に何だ、何か伝言があったのか、と訊いてくる。
「早く治らないと俺が危ういってことだよ」
都庁がしきりに説明を求めるのをかわす。
「前はこれ見てないの?」
「人から預かったものを覗き見るような不作法がしないが」
都庁の答えに新宿が肩を撫でおろした。都庁は役人の特徴として押しに弱い。強く言われるとそうなのか、そういうものなのか、と納得してしまうし、ましてや正当な手続きを踏んでいればどんな結果も受け入れてしまうから厄介なのだ。
「まぁ前は見ない方がいいかも…」
説得されてしまっては新宿の危機だ。都庁は不思議そうに小首を傾げた。新宿は緩やかにその頬へ手を這わせる。涙の跡で湿った都庁の皮膚は吸いつくようにしっとりとしていた。
「たまらないな…キスしたいぜ。風邪でも移したらことだからしないけどさ…たまらない。大好きだぜ? 前」
唇を寄せない代わりに新宿の指先は執拗に都庁の唇を撫でた。都庁が薄く開けばそこへ爪を詰める。その指先に都庁が吸いついた。ぢゅうっと音を立てて吸いつく。熱く濡れた舌先の感触に新宿の体が震える。身震いした新宿の隙をつくように都庁が唇を奪った。がちりと歯列がぶつかる不慣れが都庁らしい。それでも都庁は新宿の唇を吸った。引っ込めようとする舌を絡めてくる。甘く吸い上げられて新宿はなすすべなく都庁の熱を味わった。都庁の側から強制される心地よさに酔った。つたなく求めてくる都庁はそれゆえに手加減さえ知らず、愛らしい。いつの間にか双方で求めあうように指先が頬や頤へ添えられた。
「…ふ…」
都庁が離す舌先から銀糸がつながる。新宿の熱っぽく紅い唇が照るように輝く。口の端を吊り上げる笑みに都庁は紅い顔のまま見据えた。
「俺の我慢を無にするなよ。まぁでも、嬉しいけどさ…」
ぶつぶつ呟く新宿を見据えた都庁が震えた声を出した。
「嫌だったんだ」
「え」
「凛太郎が、いなくなるかもしれないと、想うとそれ、だけで…!」
「さき?」
「いや、だったんだ!」
新宿は口元が弛むのを止められなかった。笑んでしまう。嬉しくて楽しくて、都庁が愛しくて、愛しくて。愛しいと想う人に想われるのはなんと幸せなことなのだろうと、想う。新宿は都庁がいなくなるなんて考えられないほどに都庁前が好きで、まして都庁が新宿がいなくなったら不安だとかそんなことを想ってくれるなんて、なんてなんて、嬉しいんだろう。
「さき。前? 前、好きだよ。お前が、前が、大好きだよ」
新宿は確かめるように何度も名を呼んだ。都庁は女名である下の名を嫌っているから新宿が呼ぶのを事あるごとに嫌い訂正を求める。その都庁が無抵抗に、新宿が呼ぶままにしておいていることが、なんという愛情であろうと思う。
「りん、たろ」
「前? 前。さき、大好きだよ、本当に本当に前が好きだ」
新宿が全開の笑顔を見せる。色を抜いた髪が頬を撫でるように滑る。都庁はそれをまぶしそうに見た。眇められると余計に紅い双眸は潤んだように揺らめく。濡れた艶を持つ都庁の双眸が新宿は好きだった。深紅の双眸は血液のような背徳と宝石のような高潔とを宿して潤む。眼鏡を常用する都庁の双眸は殊更に潤んだ。白い皮膚と相対するように双眸の紅さが目を惹く。キスをしたいくらいに愛おしい。だが新宿は己の体調の見当がつくから自らのそれを殺す。代わりに都庁が吸いついた。
ついばむように甘くて優しい口付けを都庁が繰り返す。どこか幼いそれは都庁の不慣れのようでもある。
「うつっても知らないぜ」
「伝染せば治るというから、伝染せばいい」
新宿が諫めるように言うのを都庁がきっぱりと切り返す。都庁の頑固さが愛しい。都庁は意固地になることも多く、案外譲歩しない性質だ。決めたならやりとおす意志の強さは時に両刃の剣となる。外へ向けてだけでなく内へも向く刃に傷つくのを新宿は見ていられない。新宿の熱っぽく火照った指先が都庁の心臓部へ添えられる。高く脈打つ力強さが心強い。シャツ越しであっても都庁の鼓動は感じ取れた。新宿の口元が堪えきれない笑みに弛む。
「じゃあ俺が前を看病してやるよ」
「しんじゅく」
都庁がしがみつくように新宿を抱擁した。不調が移るという意識がいつしか薄れている。都庁の体温は新宿に影響し、その侵蝕を新宿は友好的に受け入れている。
「さき。さき、さき…!」
弱味を見せてそれに沿うような助力を得られる快感を新宿は知らなかった。酷く嬉しくて高揚するそれは新宿を酩酊させる。子供が仮病を使うのはきっとこんな心境があるからだと思う。気を使ってくれることがこんなにも嬉しいなんて。
「さき、ぐしゃぐしゃだな」
涙に濡れた頬へ頬を寄せると都庁はくすぐったそうに身をよじる。頬ずりするのを都庁は我慢しながら好きにさせている。新宿はその歪みや崩れさえ愛しむように皮膚を寄せる。
「前が俺のために毀れたり傷ついたりしてくれるなんて嬉しいぜ。俺のために毀れたり傷ついたりしてくれるならどんなに醜くくたって醜いなんて思わない。愛することができる」
都庁が真っ赤に火照った顔で新宿をぎゅむぅと寝台に埋もれさせる。
「馬鹿を言ってないで、寝ていろッ! 薬を、今」
「前が薬だよ。俺にとっての特効薬は前だ」
そう囁いて頬を寄せれば都庁はすぐに頬を染めて目を伏せる。新宿が甘く囁くことをいちいち真摯に受け取ってくれるのが都庁だ。その生真面目さが好きだし、己の軽い言動に重みを与えてくれることを新宿は知っている。
「前、そばにいて。さき、さき? 俺の近くにいてくれよ。いなくならないで。好きなんだ、本当に好きだ」
新宿の体を火照りを帯びた倦怠が覆いつつある。ズルズルと俯せる体を都庁が優しく寝かせる。その袖やシャツを新宿はむやみに掴んで引きとめた。新宿の目蓋がとろとろと落ちていく。抗えない眠気と心地よさに新宿の意識が離れつつある。都庁はそっと新宿の目蓋を手で覆うように押さえる。紫電の双眸が目蓋に覆われて見えなくなる。
「さき? ここに、いて。そばに、いてくれよ」
すぅと新宿が眠りの海に堕ちる。それでいて都庁の袖を掴んだ指先は固く布地を握りしめた。
「さ、き」
虚ろな寝言に都庁の口元が弛んだ。
「ばか」
君が今ここにいてくれることがひどく嬉しくて
確かなぬくもりが愛しくて愛しくて
イツカラ、いつから?
君がいないという事態など考えられなく、なった
《了》