冷たくて痛い
55:さよならの温度を今もまだ覚えていますか?
ごとごとという列車の振動に身を任せたまま都庁は茫洋と窓を見た。お飾りのような窓硝子は嵌め殺しだ。もっとも地下鉄として機能する分には窓の開閉は必ずしも必要ではなかった。どこにでもある風景が流れて行きながらミラクルトレインはお客様が乗降する際にしか止まらない。都庁達が息抜きのために降りたりする意外に動きはあまりない。ミラクルトレインを必要とするお客様がいなければ終電時刻を待ちそれぞれを家に帰して店じまいだ。列車という常に移動を繰り返す性質の所為か、そこが密室であることは忘れがちで、それは思った以上に負担だった。車両を変えるにも限度があり逃げ場も目に見えている。追い詰めるには好機であっても逃げる側から見れば絶望的だ。
都庁のうなじをびりっとした刺激が奔る。途端に満ちる嫌な予感に都庁が据わりの悪い思いをするうちに最悪が形になった。親しげな悪口をつけつけと言いながら新宿が連結部の扉を開けた。後ろでは六本木や汐留らしい声がする。それを新宿は扉をきっちりと閉め切ることで遮断した。
「あ、前」
新宿の声に都庁の肩が跳ねて持っていた本が落ちた。相当な勢いで放られた本は磨かれた床を滑って新宿の方へ行く。新宿は片眉だけつり上げて意味ありげに都庁を見る。都庁は身動きできずに目線を逸らす。床を見つめながら新宿のいる方へ視線を向けない。当然のことながら本も拾おうとしない。
「前、本が落ちたぜ。読みかけじゃないのか」
たまらず都庁が席を立って隣の車両へ逃げる。新宿はぽっかりと空いた車両の中を悠然と歩いて本を拾う。栞も落ちていたが読みさしがどこであるか判らないほど放られたらしく、ページが不揃いに折れていた。書店がサービスでつける紙の包みを解いて題名を確かめる。刑事と銘打ってあってもあらすじを見る限りでは都庁の好みではなさそうな内容だ。開き癖もなく不自然に綺麗なままで、それは本来の持ち主が違うと言いたげに都庁には馴染まなかった。新宿は都庁が座っていた位置にどさりと腰を下ろすと無為にページを繰る。その紫電が半眼になって都庁の消えた扉を睨む。
まともに都庁と話をしていないことを反芻してから新宿は本をしまった。
都庁は元来隠し事が得意ではないから不具合が生じればそれは即ち同僚に知れた。それでもぶしつけに訊ねてこないのは新宿の睨みが利いているからで、そんな状態であっても新宿の協力があることに都庁は倦んだ。新宿は乗り入れも多く繁華街として名をはせていて、人付き合いの加減が上手い。距離を測ったり踏み込んでいいかどうかも違えない。大雑把に見えてそれぞれを気遣うしさりげなく補いもする。個性の強い面々が衝突もなく過ごせる一因を新宿はになっている。自己の確立も確かで新宿は個性も見せる。意見も意志もあって信条にそぐわないならきちんと言う。その新宿があえて都庁の忌避を口に出さないことが逆にこたえた。お客様の前で不快さは見せないし、連携もする。譲歩も意見もするしそこに個性もある。都庁が一方的に新宿を忌避しているだけだ。
「新宿さんが嫌いですか」
月島の手元でじゅうっと具材の焼ける香りがする。もんじゃを好むこの温厚な月島が頑として譲らない鉄板に都庁が頭を悩ませていたところにこの一言だ。端の車両であり通行に不便の無い位置を選んでいるのもある意味で性質が悪い。どうぞ、と小手を渡されて思わず腰を下ろした。都庁の前によく焼けたもんじゃが押しやられる。香ばしいようなどこかお好み焼きに似たそれが鼻をくすぐる。お好み焼きみたいだな、とは言わない。都庁に違いは判らないが月島には明確であろうし必要性を感じなかった。慣れぬ小手を使うことに苦心する都庁に穏やかに月島は言葉をかける。
「気は…合いませんか。でも近所なのでしょう、互いに堪えていますよね」
うぐうぐともんじゃを咀嚼しながら都庁は月島を見た。
「都庁さんが気を使うくらいには新宿さんも気を使っているんでしょう。だからこその引け目もある。嫌いだというのを責めはしません。同じ路線であっても理解できないことはあるでしょう。ですが」
月島はどこまでも穏やかに言い聞かせる。時折この落ち着きに起点たりえるリーダーは月島の方が向いているのではないかと思う。周りに過反応していては冷静な判断ができない。しゅんと萎れる都庁を横目に月島は手を休めない。
「チャンスは等分にあるべきです。都庁さんが新宿さんを不可と判じる同じ時間を新宿さんにあげるべきでしょうね。一方的な判断は、それは独りよがりというものです」
月島の言葉はどこまでも響く。小手を咥えたまま鉄板を見つめる都庁の横で月島は慣れた動作でもんじゃを焼いた。月島が唐突にがちんと鉄板の電源を落とす。余熱で熱いが後は冷えるばかりだ。気付けば都庁によこした以降に新しいもんじゃを焼いていない。目を瞬かせる都庁に月島は目を向ける。穏やかな大型犬のように茶褐色の瞳が都庁を見る。
「敵に塩を送る気は、ないんですけどね」
意味を問おうと開いた都庁の唇が奪われた。
「意識されるだけましといったところでしょうかね。…前さん」
身動きの取れない都庁を乗り越えて月島は鷹揚とした動作で連結部へ足を運ぶ。鉄板は利いた空調で早々に冷えている。電源を確かめてから都庁が後を追う。
「今の言葉は」
月島ががらりと開けた扉の先に仏頂面の新宿がいた。都庁の脚が思わず止まる。立ち尽くす都庁に、月島が邪魔は入れませんからどうぞ、とうそぶいた。新宿は怪訝そうに月島の背中を見送ってから都庁に向き直る。
「おい、前」
都庁が後ずさる。それでも終いの車両であるから連結部はどこへもつながらず袋小路だ。都庁が背中を向ける前に新宿の手が都庁を抑えた。
「いいか、一分だけ待ってやる。待ったら殴るからな」
新宿が不似合いな腕時計を見る。携帯電話を時計代わりにする時世にそぐわない。
「その間に言い訳しろ。俺を避けてた理由をな」
黙って目蓋を閉じると密かに歯を食いしばった。殴られるつもりでその衝撃を堪えるつもりだった。新宿の白い指先が眼鏡を退けた。都庁が言うべきことはなかった。都庁は一方的に新宿を忌避しただけで新宿に非はない。その償いの心算で都庁は殴られる覚悟を決めた。
新宿の手が都庁の襟を掴む。次の瞬間に襲い来る熱量に怯えて都庁が口元を引き結ぶ。その唇をふわりとした熱が覆った。目を見開く都庁に新宿はむさぼるように口付けてから頬を打った。不意打ちのそれを都庁は真正面から喰らった。手加減もなく温情もない。歯を食いしばっていたので口の中は切れなかったがその分口の端に裂傷を負った。頤へ血が伝うほどの強さは新宿の苛立ちをにじませた。
「何か言えよ。そうすれば殴らなかったぜ」
都庁の双眸がみるみる潤んで涙をこぼす。落涙に新宿は驚いた様子もなく静かに見守っている。それだけに都庁の中に情けなさが募って涙を呼んだ。食いしばる歯が唇を噛み、その痛みで目が潤む。
「前は馬鹿だな」
殴りつけた頬を新宿の手の平が包み込む。適度に冷たいそれは心地よく都庁の皮膚に浸透した。氷を溶かすように強張りが融けていく。都庁の体が弛んであらぬ情報まで吐露しそうになる。新宿もそれを心得たように都庁を抱擁した。
新宿は優しく唇を寄せた後で紫苑の双眸を都庁に据えた。
「前、理由は?」
都庁の声が震える。喉は痙攣したように振動し、まともな声を出さない。喉奥からこみ上げる泣き声がしゃくりあげる痙攣になってまともに発声できない。
「…――嫌いになって、欲しかった」
言葉にすればそれは明確な重みを帯びた。都庁の態度は包括的であろうとするリーダーにふさわしくなかった。新宿は幼子を見るように優しく都庁を見つめた。答えを知っていて聞きだす心算の意地悪さと親密さが同居する。都庁は震える口元を隠すように手で覆った。唇が震えて音が漏れる。呼吸は忙しなく喉を震わせ胸部まで至らない浅い呼吸が続く。
「私は、お前に、新宿に…――ッ私を嫌いになって、欲しかった…!」
傷むように新宿の双眸が潤んで瞬いた。錯覚かと思うほど明確に新宿の双眸は濡れた。
「嫌ったよ」
紅い双眸が見開かれる。突き刺さる言葉は痛くて、けれどそれは己が望んだことでもある。
「嫌ったさ。俺の事が嫌いなやつを好きでいてやる気はないって、でも」
紫電の双眸は雷光のように強く都庁の中で響く。新宿の潤う唇が灼きついた。端正な顔立ちの新宿は軽薄な格好でそれを隠す。まともに着ればそれなりであろうに新宿はあえて知らぬげに着崩すのだ。
「死ぬかと思ったんだ。痛くて痛くて辛かった。お前の中で俺は、って思ったらもう死ぬかと思うくらいに痛かった。だからそれは絶対に忘れないしもう二度と御免だ」
新宿の声は音楽を奏でるように自然と都庁の耳に馴染んだ。新宿は相手を追求しない代わりに吐露もしない。その新宿の痛かったという打ち明け話は想像以上に辛かった。都庁の目蓋が揺れる。紅い双眸がジワリと涙ににじむ。殴られた痛みは引いていたがそれ以上に負っていた衝撃の方が重篤だった。新宿は軽薄であればこそ滅多に手を上げない。その一撃であると思えば涙が浮かんだ。
「俺はもうお前に否定されたくない。俺は、前に俺を好きでいてほしいんだ」
都庁の喉が震えて膝が折れた。しゃがみこんで泣きじゃくるのを新宿が抱きしめた。
「馬鹿だな。だから前は馬鹿だっていうんだ」
ぼとぼとと滴る涙が都庁の頬を伝う。拭おうとするそばから溢れる涙がすぐに袖を湿らせて飽和させた。鼻が詰まってずずっとすする。洟まで垂れてきそうになるのを都庁は熱心に堰き止めた。それでもしゃくりあげる痙攣だけは堪えきれずに肩まで揺らす。新宿は服が汚れるのも構わずに都庁を抱きしめた。
「ばかッよご、れる…」
「いいよ。前に汚されるんなら構わない。俺は前のものなら汚いなんて思わないぜ」
きつく縛りつけるほど強く抱擁される。新宿は都庁を抱きしめる腕を弛めない。新宿の腕が震えていることに都庁はそのとき初めて気づいた。
「…俺だって、怖かったさ…前に、前に嫌われてるって思った時のあの、冷たさは」
一生忘れない
「俺は前が好きだし、前に俺を好きでいてほしいんだ」
都庁は返事をしなかった。打たれた頬が今になって痛んだ。平手であったから瞬間的な威力は殺がれても根底に衝撃が残る。都庁が反射的に体を強張らせるほどであればこそダメージはそれなりであるはずだった。紅く腫れる頬を包むように新宿の冷たい手が添えられる。落涙を堪えるように新宿の双眸は潤んで揺れた。紫雷の双眸は鋭く都庁を射抜く。
「好きなやつに嫌われたくないのは当然の感情だろ?」
ひゅうと都庁の喉が鳴った。しゃくりあげる体の振動でこらえていた涙があふれた。腫れた頬を伝う涙が添えられている新宿の手まで濡らす。都庁の方が長身であるのに存在感は抜群に新宿の方が上だ。同時に新宿は胸の内へ入り込むすべまで心得ている。
「――ッう、…ふぅ…ぇ…ッ」
言葉にならない都庁を新宿は見据えてから微笑んだ。
「なんだ、前?」
喉が震えた。それでも伝えなければならないという焦燥と伝えたいという願いが都庁の喉を叱咤する。
「りんたろ…ッ!」
都庁の指先が新宿のシャツを掴む。しがみつくに近い拘束を新宿はあえて受け入れた。
「凛ッ、りんたろ…ッ」
触れる体温が都庁の緊張を解いていく。新宿の体が都庁の想像以上に強張りを解いた。融かされるように緊張は解かれて弛緩する。新宿の抱擁は弛緩を赦し、さらなる弛みさえ呼んだ。都庁が領域を見失っても新宿の抱擁が上書きする。新宿の指先が撫でる胸部や腹部、脚まで都庁は認識できた。融けて見失った領域を新宿の指先がたどる感覚で取り戻すのを繰り返す。仕上げとして新宿は都庁の黒髪を梳いてキスをした。
「凛…」
都庁の体が意識と抑制を振り切って弛んだ。それを抱きとめながら新宿が笑う。
「馬鹿だな、前は。嘘でもいいのに、俺が好きだと言えば楽に、なれる」
幾筋も後が伝う落涙の痕跡に新宿はキスをする。あらわにされた都庁の秀でた額へ唇を寄せた。
「手助けは必要ないみたいですね」
玲瓏と響く穏やかな声は月島のものだ。意識を失った都庁を抱きしめたまま新宿はふふんと口元を歪めて笑んだ。後ろからは六本木が心配そうに窺っている。
「助けるつもりなんかない癖に言うもんだな。もっとも、前が俺以外を必要とするとは思えないが。前に必要なのは、俺だよ」
「都庁さんは隠しごとが苦手ですからね。見ていれば判ります」
挑むように月島は笑みを貼りつけたままだ。月島は穏やかな気質ではあるが譲らない頑固さもある。もっとも気付いていないのは都庁くらいだが。
「避けられているならそのまま嫌われちゃえばいいのに」
つんとそっぽを向く六本木に新宿は余裕で微笑んだ。
「前は俺が好きだから俺から逃げたんだ。前の根底には俺がいるんだよ」
新宿の挑むような微笑に月島の穏やかな笑みがこたえる。
「前は俺のものだ。誰にも渡さない、絶対に。俺のものになった前を好きにすればいい。前の中に俺はいるぜ」
六本木が不満げに唇を尖らせ、月島が何か言いそうなのを抑える。新宿は勝ち誇った笑みを浮かべて二人を見た。弛み加減の紅い唇が照った。
「前の痛みさえ、俺のものなんだぜ」
新宿の勝ち誇った笑みに月島は返事を持たなかった。投げ出すように身を任せる都庁が返答のすべてだ。都庁の警戒心のレベルは高く、滅多に信頼など得られない。その都庁がたとえ意識喪失であっても体を任せるだけの信頼を新宿に得ているのは確かだった。新宿は月島や六本木が得られなかった位置での信頼を得ている。
「まったく」
「手間さえも愛しいぜ。前が俺を思って迷ってくれたなら、俺はどれだけ時間がかかっても構わない」
月島は六本木を抑えながら退いた。
「前は渡さない、絶対に。俺が前を守る。そして、前を愛する」
二度と味わいたくない辛酸を舐めた
だからもう二度と
俺は前を離さない
新宿は都庁を抱きしめて、笑んだ。
《了》