好きだからこそ私は厭う
ただの嫉妬だと知っている
浅ましい
52:捩じれた道の先にすらお前の未来は真っ直ぐに続くのだろう
藤堂は無為に数を数えた。一定の調子で刻む数が十を数えてから無意味さに気付いてやめる。隣では朝比奈が滔々と謳っていた。手元の書面もよく頭に入らない。まだ甲高さの残る朝比奈の声が響いているがそれが障害になっているわけではない。朝比奈は可能な限り藤堂のそばにいたがり、なおかつ能弁な性質であるから声など聞き慣れている。黙れと言えば黙るだけの辛抱ができるはずだが朝比奈は話すことを好んでいるようでもある。楽しそうに話しているから藤堂も相槌を打つし、朝比奈はそこからさらに話題を発展させていく。
「私などを話し相手にしてつまらないのではないか」
「藤堂さんと一緒にいられるだけでオレは嬉しいです。藤堂さんは変な横やりもしないし」
相槌が適当なだけなのだが朝比奈は寡黙であるが故と受け取っている。朝比奈が藤堂に対して好意以上のものを抱いているのは自他共に認めるところであり藤堂も聞き及んでいるし、そうなのだろうと思っている。藤堂の行動をすべからくよい方向へととらえようとする朝比奈の傾向にそれらが窺える。好む相手を悪くとる者はあまりいない。
「なに見てるんですかー? 極秘事項ですか? オレいない方がいいかな」
「いや」
藤堂は書類を放り出した。眺め続けてもらちが明かぬと判断した。集中力が欠け、原因も見当がつかない。手段の講じようがないので改善もしない。時間が解決してくれるのを待つつもりだった。
「オレ、邪魔ですか?」
朝比奈が祈るように跪いた。組まれた指先はまだ細く女性のように華奢だ。祈るようなそれにぱっちりと大きな双眸が潤みを帯びる。震える口元は言葉を吐くべきか黙るべきかを逡巡している。愉しげに話していた時はほんのり紅かった頬が蒼白い。一人の人間に対する態度をこうも機敏に切り替えられるのは感心するばかりだ。藤堂などは表情の動きがのろく頻繁に齟齬を繰り返す。
「邪魔ではない」
言い方がまずいかと思ったが朝比奈は安堵したように肩を落とした。藤堂が気にしたような細部に気付いた素振りはない。
「藤堂さん、オレにできることがあったら何でも言ってくださいね! 藤堂さんのためなら何でもしますから」
執拗とさえ思えるほどに朝比奈の言葉が絡む。朝比奈の態度に何かと口をはさむ千葉や卜部がいない所為か藤堂はただそうかとだけ頷いた。朝比奈の方でも好機ととらえているのかここぞとばかりに藤堂に張り付いている。
「朝比奈、私といて何か利になることでもあるのか?」
純粋な疑問だった。朝比奈はきっぱり言った。
「オレは藤堂さんに向けて一直線です」
迷いのないその言葉が藤堂の意識をザラリと撫でた。まっすぐに見つめてくる暗緑色の底が見えない。藤堂は短くそうかとだけ返答すると放り出した書類を取った。
ざわっと皮膚が粟立つ。愉しげで何気ない会話の主が問題だ。聞き慣れた音程と間の取り方、時折ひっくり返る甲高さに藤堂の背筋は慄然とした。避けようもなくだらしなく立ちつくす藤堂が視界に入った朝比奈がうっと詰まる。朝比奈が行動を起こす前に藤堂は身を翻した。背後ではじかれるように踵を返す藤堂を不思議に思ったのだろう何故だと問うている声がした。藤堂は明確な意思をもって朝比奈を忌避した。朝比奈の方でも藤堂が避けていることに気付いているからお互いに予定を把握してはち合わせないよう心を砕いた。どうしようもない時はお互いに言及しない。不必要な会話も接触もない。頻繁に連れ立っていた所為か一人でいることを千葉あたりが問い質すがお茶を濁して逃げた。卜部からはとくになんとも言われなかった。卜部の無頓着はありがたい。
藤堂たちの位置は生命に直結する仕事が多いから信頼関係は重要だ。殺傷兵器の矛先は無差別であり使い手に一任されている。援護する銃口が己が背に向けられては命にかかわる。だからこその交際を朝比奈は理由にしていたのだ。
「中佐?」
怪訝そうな卜部の視線の先を見て藤堂はそこが袋小路であることに気付いた。嘆息して肩を落とす。調子が狂うと不服を言いたかったがその起因が己であることを承知しているだけにやるせなさが募る。
「朝比奈と一緒じゃねェんですね」
「いけないか」
突っかかるような言い方になるのは藤堂の内に秘めた不機嫌の発露だ。藤堂の自意識にさえ上らないそれに卜部は肩をすくめて見ないふりをした。
「よく離せたなぁってだけですよ。あいつが中佐の予定表まで頭に入れてたなぁ知ってるでしょう」
朝比奈は何故だか藤堂の予定までそらんじて見せたことがある。言葉がなく黙りこむ藤堂に卜部が吹き出した。
「痴話喧嘩ですか。油断してると千葉あたりにつけ込まれますよ、女ってなァこすいとこありますからね」
「…考えておく」
藤堂の返答はその場しのぎだ。政治家の善処すると大差ない。卜部はそれを知っているのかふんと哂って踵を返す。ひょろりと長身な背は藤堂を哀れむように嘲った。
「普段ウゼェやつが助けてくれんですよ」
「知っている」
「ならいいです」
付き合いの面倒さは時に緊急時の助力にも比例する時がある。付き合いがあればそれを盾に助力を乞えるときがあるのを藤堂は知っている。殊更に確かめる卜部の真意が判らない。
「嫉妬ですねェ」
藤堂が何がだと問い質そうと目線を戻した時には卜部は呼びとめるにははばかられる程度に遠ざかっていた。ふって湧いた問いもその答えさえもなく藤堂は唸ることしかできない。ある程度の屈折を見せる卜部の方が馴染む。だが藤堂は朝比奈に対してのみ欲しいと思った。手間を考えれば了承している卜部の方が格段に楽ではあるのだ。それほどまでに朝比奈を選別することに藤堂自身が戸惑った。
「卜部」
「お先」
卜部の退出の気配を感じ取った藤堂が声をかけるが卜部はするりと逃げた。結果として藤堂の言葉が宙に浮き、発言しない朝比奈と部屋に二人きりで残されてしまった。朝比奈はしきりに手元を動かして作業している。藤堂もそれに倣うが集中できない。重苦しい沈黙は時を追うごとに酷くなり喉が詰まったような気がした。朝比奈は特に変化もなく同じ作業を繰り返す。藤堂は呻くように喉を喘がせる。早急に作業を終えてこの場から逃れたかった。なにが藤堂を駆り立てるのかは依然として不明だ。
「藤堂さん、オレのこと好き?」
「あぁ」
朝比奈の眼差しが藤堂を射抜く。襟を緩めて喘ぐ藤堂を朝比奈がじっと見つめていた。まっすぐな眼差しはこの先へ続く道に潜む障害など考えない。真っ直ぐな道があるのだと無意識的な信頼を寄せて身をゆだねる。藤堂は目を瞬かせた。
これか。
朝比奈のそれが嫌なのだ。この先がまっすぐ続いているんでしょうと言わんばかりに身を委ね、また道も続いているだろうことが藤堂を倦ませた。朝比奈はまだ年若く可能性は藤堂より余程ある。若さの勢いというものは流れを変える。無自覚で本能に任せるような朝比奈の傲慢さが疎ましい。ただの嫉妬だ。藤堂は行く末を悲観したことはないが楽観した覚えもない。なんとかなるだろうという甘えは藤堂の位置では許されない。なんとかしなければならぬのが藤堂の位置でもある。幼子のように身をゆだねるような甘えと藤堂は無縁に生きてきた。その厳しさが藤堂の現在の位置まで押し上げたし糧になったと知っている。それでも己が得られなかったその甘えを満喫している朝比奈が疎ましいのだ。藤堂の喉の奥に苦いものが広がった。
藤堂は己の在り様を否定するつもりも朝比奈の在り様に口を出す心算もない。それでも抑えきれない感情が苦みを残す。己を素通りしたぬくもりが優しく頭を撫でるのを動揺もなく眺めるのは難しい。浅ましく未熟で、だからこそ堪えきれない。
「藤堂さん、オレのこと嫌い?」
朝比奈は何でもないことのように問うた。己の評価を片手間に問う。藤堂は返事をせずに朝比奈を見た。手元はしきりに動いているが繰り返すだけで何度もしくじった。しまいに放りだす。それでも目線は藤堂の方を見ない。指先がわずかに揺れていた。
「…ねぇオレ、迷惑、だった? 言ってくれなきゃ、判らない」
言えと言いながら朝比奈はその返答を忌避している。藤堂は応えるように黙した。藤堂も手元の動きを止める。それを目に留めた朝比奈がぶたれる直前のように肩をすくめた。
「お前は私が嫌か?」
問い返す藤堂に反射のように朝比奈が顔を上げる。ぶるぶると首を振る朝比奈に藤堂はゆったりと微笑した。目を眇めて口元をつり上げる。下手な作り笑いだが藤堂の笑顔自体が浸透していないのでその正誤を朝比奈が判断するのは難しいだろう。案の定朝比奈は頬を紅くしてそっぽを向いた。
「それはずるいです。質問に質問で応えるなんて」
「お前が嫌ならば申請してくれていい。私は応じる」
「嫌じゃないから困るんです!」
退けば追う。藤堂は静かに朝比奈を分析した。機転を利かせるだけの年若さが誤りの根源でもある。若いほどに勢いには負けるものだ。朝比奈は藤堂の譲歩に動揺と好印象を覚えている。逃げられれば追う習性は狩猟に有利な反面で駆け引きには不向きだ。見抜かれればそこを突かれる。高い効果が得られる分、負荷も大きい。藤堂に流れを変えるほどの勢いはないが、その分冷静に趨勢を見ることができる。信じがたいことに藤堂は朝比奈に対して悪い印象はない。好ましくさえ思う。けれどそれらを素直に好きだというには藤堂は経験がありすぎた。その感情のままに好きだと告げるだけの勇気も意味も感じない。感情に流された先に待つ痛い経験に藤堂は臆した。にっこりとぎこちなく微笑む藤堂に朝比奈は頬を紅くして無為に言葉を紡いだ。
「だって藤堂さんはほら、綺麗だから! オレなんか気にしなくたって大丈夫でしょ? だからさ」
朝比奈は臆することなく言葉を続ける。己の好意の在り処を告げるなど藤堂には出来ぬ。だからその不用心がうらやましく同時に妬ましい。好きなものを好きと言えない己の歪になど気づかない。藤堂の在り様はすでに決定されている。それがどんなにいびつに歪んでいたとしても。
「省悟、だったな?」
「え」
ぱちくりさせる朝比奈に藤堂は困ったように笑う。
「お前の下の名だ。朝比奈省悟、ではないのか。私の記憶違いか」
傷ついたように発言を引っ込める気配だけで朝比奈は食いついた。ぶんぶんと頭を振って甲高い声が藤堂を惹きとめる。
「いえあってます! しょうごです! 朝比奈省悟! 覚えててくれたんだ」
「お前だから」
素朴に紡ぐふりをして計算する。朝比奈の年齢から言ってまだ個別に特別性を見出すと踏んだ。他者との区別が明確であるほどに喜ぶ。朝比奈は幼いその顔を喜びにほころばせた。
「嬉しい。オレの事、知っててくれたんだ」
「お前は私の下についてくれている。これくらいは当然だ」
情報の把握は時に生死を決する。予備的事項として覚えている。処世術の一環だ。人付き合いをするのに相手の苗字や所属、誕生日くらいは覚える。記念日の記憶を喜ばしく思う感情に区別はない。
「オレも藤堂さんの誕生日、覚えてます」
日付を告げる朝比奈に藤堂はありがとうと応えた。礼を言うことに慣れていないから頬が赤らむ。だがそれは功を奏したようで朝比奈は照れたように笑った。
「省悟」
名を紡ぐついでに身を乗り出す。そのまま無防備な朝比奈と唇を重ねた。ただの接触だ。だが朝比奈は顔を真っ赤にして目を瞬かせた。暗緑色がつやつやとして緑柱石のように煌めく。
「と、藤堂さん…!」
「嫌だったか」
「ぜ、全然嫌じゃないですッ」
藤堂は安堵の言葉を紡ぐ代わりに微笑んだ。朝比奈は乞うように唇を寄せ、藤堂もそれに応える。閉じている朝比奈の睫毛が震えた。薄い目蓋の上を酷い裂傷が走る。皮膚組織を破壊して再生を赦さないそこだけ色が違う。童顔な朝比奈の顔を引き締めるには役立っているがその調えを乱していることは否めない。息づくように朝比奈の状況によって色を変えるそれは藤堂の目を惹いた。褐色であるかと思えば朝比奈の興奮に報じで薔薇色へ変わる。血色の関係なのだろうそれの詳細を知らない。知ろうとも思わない。朝比奈の方でも特に話題にしなかった。
唇の離れた刹那を狙い定める。
「しょう、ご」
かすれた声や途切れるのはサービスだ。藤堂に余裕がないと思わせていたほうが都合がいい。情報を甘く見積もらせた方が都合がいいのは戦闘のならいだ。いざという時の不意打ちが効果を発揮する。
「鏡志朗さん。……呼んで、いいかな。鏡志朗、さん」
「構わない」
ぎこちなく笑えば朝比奈は安堵した。不慣れが役に立つこともあるのだと皮肉げに藤堂は思った。藤堂の生きた世界で不慣れはすなわち未熟であり価値などなかった。何が幸いするかは判らない。
「きょう、しろう」
藤堂は再度唇を寄せる。手が頬に添えられるのを朝比奈は拒否しなかった。堰を切ったように朝比奈の体が走りだして二人分の体が床へ倒れ込む。藤堂は朝比奈がのしかかってくるのを受け入れた。
私はあなたを高みへ連れてゆく
突き落とす、ために
《了》