守れるなどとは思わない
50:誓いなさい。この罪深き爪先に偽りの唇を寄せて
目蓋を開くと闇で瞬間的にどこにいるのかと思う。見慣れながらどこかよそよそしいのは葵の自室だからだ。手など加えようもない場所であるのに如実に個を主張する。そういうところは葵の所有場所であるということに納得してしまう。身じろごうとして葵の寝台も一人用であることを思い出す。狭い所に寝そべっている。葵から久しぶりにさ、と交渉をもちかけられて了承した。熱の発散の必要性は知っているから応じただけだ。時々によって変わる役割は互いの積極性に左右された。隣を見れば葵は背を向けて転がっている。狭くて仰臥できないのだ。葛も横に寝ていた。葵との出会いは上層部からの指令によるものだ。過去の詮索も未来の模索も必要とされず、時期が来れば行く道はおろか住処さえ分かつだろう。葵は知れば動揺を隠せないだけの相手がいると聞いている。葛の存在は間に合わせだろう。葵は隠す心算であれば巧妙にやってのける。大雑把やおおらかに見える性質を計算するしたたかさがある。真正面からぶつかるしかすべをもたぬ葛とは対極だ。
「睦言くらいささやけよ」
窓硝子越しにさす月光に葵の瞳が灰白に輝く。もともと肉桂色という日本人には稀有な色素の薄い葵だ、環境が変わればその濃淡は思うよりずっと顕著に見える。猫の目のように瞳孔の収縮さえ見えるような気がする。葵が寝返りを打った時点で覚醒を予想していた葛は驚きもしない。日陰の仕事を生業とする以上気配や視線には敏い。同時に葵がささやく言葉は真意の探りさえはねつける軽薄さを常として帯びる。言い返すのに乗っているといつの間にか本題をはぐらかされる。明確にはねつけないだけに性質は悪い。
「必要ない」
「冷たいなー」
葵の白い指先が葛の下腹部を這う。くぼんで影をつくる臍を撫でては唇を近づけようとする。その頭を押しのける。
ぐいと腕を引かれて葛の体は勢いを帯びたまま寝台に押しつけられる。ギシリと軋む寝台と仰臥した葛の上に葵が覆いかぶさる。交渉をもっていた二人は一切服を身につけていない。互いにあらわな皮膚を執拗な視線が追った。葵の体は案外細く出来ていて驚くくらいだ。肉体労働に縁のない位置にいたのだろうという育ちの良さが見える。筋肉のつき方も不揃いで、連続した鍛錬をしていない。健康的な色艶の皮膚は月光で仄白い。葵の体から受ける印象が華奢であっても、交渉の際には葛の体を抑えこむ。必要な実力は維持している。
「葛って、肌白いよな」
葵の指先は踊るように葛の体を這う。頬を撫でてから首をたどり胸部を流れて下腹部を這う。移ろう爪先は鎖骨をたどってから間のくぼみを強く押す。葛が眉をひそめて小さく咳き込むと指を離した。そのまま胸骨を撫でるように手の平で撫でる。行為による発熱で火照った皮膚は汗の湿りを帯びて触れてくる葵の指に融けるようだ。葵の側にもその感覚があるのか、ふふっと笑うような吐息が漏れた。
それでも葵の行為はどこまでも艶事とは別離してただ撫でるだけだ。境界に踏みとどまりながら踏み違えない。表情を変えない葛に葵は月光でかげって顔を隠すように覆いかぶさる。次第に近づく口元が次第に鮮明に紅い。
「もうちょっと、優しくしてよ」
「必要ない」
過剰な接触は別れを辛くするだけだ。肌を合わせれば商売女も執着する。玄人でさえそうであるならば葵と葛も例外ではない。二人が唐突に出会ったように別れもまた唐突であると葛は思っている。別れの動揺は戦闘や判断に支障をきたす。
「……葛は、ずるいな」
震えるような葵の声は拗ねて唇を尖らせるように無邪気だ。葛は眉一つ動かさない。これまで葛は軍属という明確な上下関係の下層にいた。感情の移ろいや発露はけして良い結果ばかりではなく、そのことは学習しているつもりだ。
「特別な能力の特別な関係じゃないか、もうちょっと、優しくしてよ」
返事をしなかった。つないだ手を解かれるくらいならつながない。それが保身であると葛はどこかで気付いている。情が欲しいと乞う葵のように自らの欲望と向き合えない。
爪先が、真っ直ぐに葛の鎖骨から下腹部へ下りていく。きつく立てられた爪痕が紅い線となって皮膚を彩る。葵の指先は葛の心臓部を撫でて時折強く押した。月光に照る互いの姿はどこまでも白と黒の濃淡でしかない。触れてくる葵の体温は融解途中の氷のように浸透を繰り返す。溶けた水滴と凍っている中心部の液体と固体が同居したような感覚だ。どこまでも融けるように同化する葵についての情報を葛はほとんど持っていないと言っていい。それはもちろん葵にとっても同じであり、それでいて互いの情報を規制するのは彼等の手が届かない高位だ。二人の日々は与えられた任をこなすと同時に己の体の所有権さえ失いつつある。手脚がそれぞれ意志を持っていては組織が機能しない。判っていても感情はどうにもならない。順応したふりで報告と指令の受諾を繰り返すだけだ。
葵は言葉さえかけない。皮膚をたどる指先が雄弁に葛を乱した。鎮まっていた熱を掘り起こされて喘ぎながら葵の指先が戯れるように繰り返す接触に不服さえこぼさない。変化を起こしてから葵はそっと葛の手を取った。葛の爪先にかろうじて触れる葵の体が震えているようで追及は出来なかった。葵が公にしない以上、追及に意味はない。震える喉から溢れた声はどこか飢えたように渇いていた。
「――誓うよ。誓ってもいい…いや、……誓う」
覆いかぶさる葵の表情が見えない。見えなくていいのだと思う。体に帯びつつある熱にとろけながら葛はそう判じた。
「今はお前を」
「今は、お前を想う」
葛の漆黒が濡れたように揺らいでから眇められる。返事はしない。それが返事だ。
互いの名前さえ知らない同士で誓願など冗談でしかない。葵の指先が葛の手を解くとその髪を梳くように撫でた。そのまま唇が重なり、貪るように吸いついてくる。絡みつく舌ややり取りさせる唾液の温さが緊張や拒絶を解く。がちりと歯列がぶつかるほど激しく、それでいてそれ以上には発展しない。嘘だらけで本当がないなら。せめて偽りなく肌を合わせる。
葛が焦点を合わせると葵の硝子玉のような双眸が見える。作り物じみたそれはいつかどこかで眺めた西洋人形のそれと酷似した。あらゆるものが交差しやり取りされるこの地では嘘も本当もありふれたように転がっている。葵の双眸を睨みつけてから葛が口を開けた。葵の睫毛が揺れる。闇に融かすように互いの体の領域は失われていく。葛が葵の舌を噛めば葵も噛みついてくる。すべてが嘘であるならせめて今この痛みだけは。
過去も未来も要らない、だから
せめて、瞬間だけは
互いに傷を負うような抱擁を繰り返す。
《了》