出口はなく
だが
47:果て無しの山々にいっそ呑まれて永久にさ迷い続けるのでもいい
山海には精霊がいるとか。幼いころに聞いた話の出所が誰なのかはあやふやだ。だが八百万の神を受け入れてきた日本という土壌にそういう考えは奇妙に馴染む気がした。犬猫だって三日も飼えば情が移るし、日々使用する道具は百年たつと化けるから九十九の年に捨てろとか、そういう証が立っていないが言われれば気になる程度には信じている。日々の指針を求めるほどに心酔はしていない。けれども、たとえこうして戦闘機越しであっても同じ景色の続く山へ分け入れば恐ろしさと神々しさというものを感じるし無事に帰りつければいいなとなんとなく思う。明確にこうこうであるからこのように思う、という説明はできない。命を懸けた戦闘をこなしその段取りを立てる身として曖昧さは出来うる限り排除する傾向にあるが、ふとした折に訳の判らない不安だとか昂ぶりだとかを感じることもある。些細なことを些細な折りに思いだすだけだ。それでも夜に口笛は吹かないし敷居は踏まぬ。
「…くだらないな」
不規則につながる通信や事前の段取りなどを照らし合わせて戦力の展開を認識する。特に支障も不手際もなく過ぎている。順調だからこそこういうものを思い出すのだろうかと藤堂は目蓋を閉じた。順調な時は調子に乗るし気が弛むから、好事魔多しとはなかなか的を射ていると思う。
事前準備は滞りなく終了しそうで、腹心足る四聖剣の面々各々が冗談を交える余裕もある。藤堂はいちいちにそれに返事をしながら気を抜くなよと呼びかけておく。結びのそれに苦笑交じりの了解という返事を受ける。藤堂は見えぬ天を仰いだ。戦闘機は体に密着しているわけではないから戦闘を行うにはある程度の開けた場が必要である。視界が利くならば空が見えるだろう。山と一口に言っても一から十まで木々が生い茂っているわけではないから、戦闘機でも戦える場所というものは案外ある。表示画面や操縦桿の手応えから雨は降っていないことが判る。それでも視界のきく快晴とはいかないだろうしこの密やかな作戦を立てたものとしてそれでは少々困る。曇天の光量の減少は視界の精度を低める。まして戦闘機という機械を通す以上、細部は省かれる。それは漏れなく自分たちにも作用するがその分を考え含めてもこの時期を選んだ。藤堂は日本に生を受けてこれまでの大半をこの地で過ごした。季節ごとに変わる天候やその傾向にも多少は通じているつもりだ。
だから、と前置いて広がっている闇に肩の力を抜く。標高の微妙な違いは清々しいとかそういう感覚で感じる。空気が綺麗になったように感じる。植物の生命力は人間よりよほど強い。明確な主張こそしないが彼らの領域を広げようとする意欲は旺盛でしたたかだ。隙間があれば入り込むし寄生もする。生きるための条件を極限まで削った彼らが滅びるということはないように思えた。わずかな条件でそれらに適応してきた彼らの歴史は永い。その植物に囲まれている場にいると生気を分けてもらう気がするが同時に侵略さえも受けている気になる。そのまま蔦や根に手脚を取られていつしか食われていくような幻想が甘美に感じられる。朽ちる屍は実物を目にすれば地獄かと思うのに文章にした途端それらは美化される。身を委ねたくなる。なにも考えずに眠るように蔦が絡み沼に溺れ土に還るのもいいなと思う。藤堂は己が滅ぶことに抵抗はない。その所為で藤堂自身の命を危険にさらす段取りを立てて朝比奈あたりに泣き喚かれる。
「…省悟は優しいからな」
ぽつりとつぶやくと目蓋が震える。微妙な変化が皮膚を走る。電話が鳴るのが解るように機器に目を向ける。直後に入った通信は朝比奈からのもので、その符合に藤堂は苦笑した。
『藤堂さん、またなんか嫌なこと考えましたね』
御挨拶だなと返しながら藤堂は姿勢を直した。画像も同時に送受信されていて朝比奈のいる位置でも余裕があることを窺わせる。朝比奈は年若いわりに判断力も在るし機転も利く。時折感情に引きずられるきらいはあるがそれほど深刻でもなく、これからが期待できると思う。
『死んでもいいとか、思ったでしょ』
藤堂の口元が弛んだ。ふぅと息を吐いて唇が弓なりに反る。
「いなくなりたいとか消えたいとか、では」
『子供みたいな言い訳しないでくださいよ、一緒ですよそれ。それオレにとっては一緒だから! オレの前から藤堂さんがいなくなっちゃうのは嫌です! 行方不明も死亡も一緒! どっちも嫌です』
朝比奈の方がよほど子供のようだと思った。死ぬのと姿を消すのは違うのではないかと問い返しながら、その理解に苦しんだ。朝比奈はすねた子供のように唇を尖らせる。紅く熟れた唇の濡れた艶が判別できた。濡れたような艶は脂の不快さもなく瑞々しい。応えない朝比奈に焦れた藤堂の舌先が唇を舐める。
『一緒ですよ。だってオレは藤堂さんと一緒にいられないなんて嫌なんです。それが一年だろうと一カ月であろうと一緒です。隣にいないってことなんですから』
藤堂は小首を傾げた。確かに朝比奈はよく藤堂の後をついて回るがわきまえはあって四六時中というわけではない。藤堂とともに食事をすることも時間が合わねばそれぞれに済ませるし不平を言われたこともない。恋人からの通信が五分も途絶えれば不安になるという今時の若者は極端だが朝比奈はそういうわけでもない。得心が行かない藤堂の対応は遅れて、朝比奈は恨めしげに藤堂を見た。
『いいんです判ってます。藤堂さんにとってオレはそれっぽっちなんです』
ますます藤堂は首を傾げる。虚勢や胸を張る朝比奈はよく見るがなんだか今の朝比奈は萎んでいる。眉を寄せて朝比奈の姿を見、首を傾げて考え込む。作戦実行前も、この下準備の間も朝比奈の自信を喪失させるような事態にはなっていない。それらしい報告も受けていない。
「省悟、何かあったのか?」
朝比奈が泣き笑いのような珍妙な表情をした。しばしの間をおいて朝比奈は口元を歪めて指をびしりと突きつけた。
『殴られた人に殴られたのかって訊かないでください』
とりあえず問うても明確な返答をもらえることもなさそうで、朝比奈の方で藤堂の問いは必ずしも良いものではなさそうだ。ひしひしと感じる敵意にも似た気配だけが判る。黙する藤堂を見て朝比奈は勢いを和らげ、嘆息した。その表情は辛いようなやるせないようなもので藤堂はますますどうにかしたいと思うのだがそれはことごとく空回る。恥を承知で問う藤堂に朝比奈は不可抗力と力不足を同時に感じさせる顔をする。出来の悪い子供に肩を落としながら責めない大人に似ていると思う。だが藤堂は己に何が足りないのかが判らないので取りかえしようもなく藤堂の方でも肩を落とす。双方の落胆にますます藤堂は申し訳ないような気になる。悪循環だ。おまけにこうした交錯は初めてではなく何度か繰り返している。
永久にさえ思えるだけの間は刹那と同じように時間感覚を惑わす。とても永いようでいて短かったのかもしれない。朝比奈が息をついた。すっぱりと経緯を忘れたように朗らかな笑顔を藤堂に向ける。
『藤堂さん戦うんでしょう、逃げちゃだめだって言ってましたよね? だからオレも戦うから藤堂さんも戦ってね。投げ出すのは良くないって、道場でも口を酸っぱくして言ってましたもんね』
「省悟」
思わず閨での呼び名を口にする藤堂に朝比奈がにぃーッと笑う。
『鏡志朗さん。消えたら、死んだら呪ってやるんだから。オレは絶対に逃がさないからね』
「……省悟、死んだ後では呪いは意味が」
眉をひそめる藤堂に朝比奈は甲高く笑う。ひらひらと手を振る仕草はどこか女形のようだなとふと思う。朝比奈の顔立ちは精悍というより整っていると表現した方が近く、どこか性差を誤認させるような要素がある。髪でも伸ばしたら女性と言っても通るかもしれないと思う。
『絶対に見つけるから。何があっても誰が止めてもオレはあなたを見つけるんです』
だから鏡志朗さんも逃げないで戦ってね、と朝比奈が念を押す。言いつけられる勢いに押されるようにして藤堂は頷いた。こくんと頷いてしまった藤堂に朝比奈は絶対ですからと叫ぶように言いきって通信を切った。
しばらく藤堂は余韻に茫然とする。朝比奈は自分のペースで事を運ぶのがうまく藤堂の隙があれば影響してくる。けれどその侵食はけして不快ではない。朝比奈の侵蝕はどこか山に呑まれるのに似ている。侵されていると気づいても抵抗することさえままならないほどそれらは友好的だ。朝比奈の騒ぎ立てる声に耳が慣れるのは早く、絶えれば殷々と響く余韻に体が震える気さえする。境界線すら日々危うい藤堂を繋ぎとめているのは朝比奈の態度である。朝比奈が体調を崩して藤堂の道場にしばらく顔を出さなかった間藤堂は何度も不手際を繰り返し物悲しいような感傷に沈んだ。朝比奈にも都合があるからと連絡を無理に取ろうとはしなかったが、藤堂の方が体調を崩しそうだった。朝比奈と会話をしたり閨で共寝をしたりした後は殊更にそうだ。だがそれは藤堂の方で勝手に感じることであるから朝比奈に言ったことはない。それでも見透かしたように聡明な瞳を煌めかせて、朝比奈は時折藤堂に寂しいかと問うた。
藤堂さん、オレが見えないと寂しいですか。心配くらいはするが。寂しくないんですか?
他愛もないやり取りを不定期に繰り返す。
寂しいという返事が欲しいのだろうことはその問いから判る。けれど藤堂には懸念という殻をまとう不安やちゃちな自負がある。藤堂がこれで寂しいと返事をしたら満足した朝比奈が藤堂のもとを去ってしまう気がした。子供が好きな子の前で素直になれないのと同じである。幼稚だ馬鹿だと思いながら藤堂は大人になれなかった。
「さみしいよ」
己の境界が曖昧なのは藤堂の欲望の在り処を示す。少し考えれば理屈付けは出来る。理詰めで考えれば藤堂の方が一方的に愚かしい。感情に引きずられているのは朝比奈ではなく己かもしれないと一人ごちる。
ざわざわと心が揺れる。
一人で私は戦って。
たまになかまが、ほしくなる。
だから
私の領域が広がればいいと思うんだ。
《了》