やってみただけ
46:つまり、深い意味も浅い意味も、何もないってこと!
その来訪は突然だった。来訪自体突然であってもいいような風潮になっているが卜部自身は前兆や予告があってしかるべきだと思っている節がある。心積もりと礼儀のあいまったそこから卜部は不機嫌を隠さずに温もった寝床から体を起こした。相手は時間帯もこの部屋の主である卜部の都合も考えずにどんどんと扉を叩く。叩くというより殴るに近い。しかも意味不明なわめき声までともなっている。出来ればお引き取り願いたかったが卜部にも近所づきあいや体裁がある。扉を開けるとまだまだ年若い顔がきょんと目を瞬かせた。
「あれぇ起きてたァ」
「帰れ」
にべもない卜部の言葉に朝比奈がブゥッと頬を膨らませる。
「なんでさ。せっかくいい気分で」
「豆腐の角に頭ぶつけて目ェ覚ましてから来やがれ。じゃあな」
ぴしゃっと扉を閉めるとすぐさま扉を叩く。
「酷い! なんだよぅそれ! 開けてくれないなら泣くから! ここで泣き喚いてやる叫んでやる大泣きしてやるんだから!」
叫ぶ内容が次第に悪質だ。しかも声が涙声になって震えまで帯びて、しまいにぐずっと大きくすするような音がしてから静かになった。その場で凍りつく卜部の耳を本物の泣き声がつんざいた。
うわぁぁと本物の泣き声だ。しかもでかい。朝比奈は卜部と同じ軍属でそれなりに体が出来ているから声も出るし良く響く。同時に酷い、オレのこと見捨てるんだあんなに仲好かったのにと不穏なことまで叫び出す。
「うるせェ馬鹿野郎」
がちゃっと開けた扉がゴヅッと硬質な音を立てた。嫌な予感に目を背けたいくらいだ。額を紅くした朝比奈がひっくり返った姿勢からのそのそ起きる。ずれた丸眼鏡は笑いを誘うが今の卜部は背中を冷や汗が伝った。卜部の口元がひきつり、くしゃっと顔を歪めた朝比奈は間をおかずに泣き喚く。
「酷いホントひどいこの人! オレなんでこんな目に遭うんだようわぁァぁ!」
突っ伏して泣き伏せる朝比奈の首根っこを掴んで部屋へ引っ張り込む。ぐずぐずと泣く朝比奈に卜部は睡眠不足を覚悟した。
当の朝比奈は耳と鼻だけでなく頬まで紅くしている。タガの外れたような発声と内容、裏付ける吐息や纏う空気の酒精。げんなりした卜部をよそに朝比奈はのそのそ寝床へ向かう。
「待てコラテメェ何してる」
「しようよ。藤堂さんとは寝るんでしょ、だったらオレだってあんた抱く。藤堂さんと同じことしたいし」
言っていることが支離滅裂だ。とりあえず基準は藤堂という一点のみ平素と共通している。だったらまっすぐ藤堂の方見てろ俺の方見るな。言いたい言葉が卜部の喉元でぐるぐる鳴った。気付いていないのか酔いで気が大きくなっているのか、怖いものなしの態度の大きさで朝比奈は卜部を呼ぶ。
「……待て。俺と中佐ァ寝てるってどこで聞いた」
「へ? 藤堂さんの部屋の前にオレがいたからに決まってるじゃん。あんた結構いい声出すよね」
オカズに出来た、と胸を張る朝比奈と対照的に卜部は頭を抱えた。ごち、と扉に額を押し付けてぶつぶつ呟く。朝比奈は罪のない横柄さで卜部を呼びつけた。
「ほら早くしてよ鈍いなぁ。それとも藤堂さん呼んで三人で」
通信機器を取り出すのを素早い動きで奪った卜部が部屋の隅へそれを放る。
「アホか! つうかテメェはなに聞いてそのまましれっとしてやがんだ!」
「なにさオレに藤堂さんに詰めよってほしいわけ? 修羅場好み?」
「ちげェし。常識的になァ」
「じゃあなんでさ、あッ、ひょっとして藤堂さんはいいのにオレはだめなんだ! 酷い! オレのことそんなふうに思ってたんだうわっうわぁァぁ!」
ぶわあっと大きな双眸を涙が満たして珠のような雫が紅い頬を滑り落ちていく。紅くなった鼻をぐずぐず言わせてすすりあげ、幼児のように泣き出す。酔っ払いの性質の悪さは承知しているつもりだったがここまで手に負えないのは初めてだ。いっそ藤堂に連絡して迎えに来てほしいくらいだ。じとりと放り出した通信機器を眺める卜部の考えを悟ったのか朝比奈がさらに泣き出した。
「厄介払いだと思ってる! オレのこと厄介だって思ってるんだッ酷い、酷いよぉオレはあんたのこと嫌いじゃないのに!」
初耳だ。藤堂を間にはさむ相関図を描く以上損なわれこそすれ補うことはないと思っていたが、朝比奈の言葉ではむしろ好意的であるということになる。
「お前自分で何言ってっか判ってるか?」
寝床の脇にへたり込んでいる朝比奈に視線の高さを合わせるように卜部も膝を折って屈みこむ。卜部は日本人でも珍しいくらいの長身で視線の位置が高く、ともすれば見下ろしていると言いがかりをつけられる。酔っ払いの勘の鋭さは知っているし些細なことで因縁をつけられる手間は省きたかった。
「オレそんな馬鹿じゃない。だってさ、あんた藤堂さん以外興味ないって顔だしオレの事ガキだと思ってるし」
わりあい正確に見抜かれていて卜部は日常の振る舞いを多少改めようと思った。黙する卜部をどう思ったか朝比奈は鼻声で言い募る。
「じゃあさ、一度オレとしようよ! 技術にはオレ自信あるから! 大丈夫藤堂さんだって啼くしあんただってきっと」
「待てコラ」
聞き捨てならない一節に卜部のこめかみがひきつる。
「中佐ァ何だって?」
「なにさあんただって藤堂さんと寝るんだからオレが藤堂さんと寝たってどっこいどっこいじゃない。一緒だよ。それともやっぱり藤堂さんはよくてオレはだめなんだッ」
「だぁうるせェ」
思いっきり耳をふさぎたくなった。言い募る朝比奈は不満げに頬を膨らます。子供扱いを嫌うくせに仕草は幼稚だ。ずれた眼鏡を直そうともせずに朝比奈の指が卜部の襟を掴んだ。
「ほら早くベッド行ってよ。それとも床でやられるのが好み?」
「待てお前今」
「時間は十分待ったからもう待たないから」
朝比奈の唇が重なる。酒精の渇きと若さの柔らかさで保たれた唇の感触だ。女性のそれのように沈みこむ感覚はない。同化して馴染むそれに卜部の方が面食らった。卜部の隙を逃さず朝比奈は重心をかけて押し倒す。軍属として体や腕力の使い方を心得ている。拘束や抑制も要所を押さえていて覆すのは容易なことではない。まして酔っている朝比奈の制御は利かず卜部との力関係の優劣は均衡を崩していた。朝比奈に軍配の上がったその場の関係を覆すだけの気力が卜部にはなかった。元より流されやすく受け身な性質だと認識している。だからこそ滅多なことでもなければ誘わない藤堂の誘いにも乗ったし立場を決められても不平も言わない。
「あんた藤堂さんにはなんて呼ばせてるのさ。コウセツ? 卜部のまま?」
「テメェに関係あるのかそれ」
すっかり朝比奈の唇に慣らされた後の卜部は無気力に言い返す。そもそも朝比奈が卜部の下の名前を記憶していることさえ意外だった。普段の朝比奈は藤堂以外に興味など示さない。朝比奈の手が手際よく卜部の服を剥いでいく。襟を開いてズボンを脱がせる仕草は明らかに手慣れている。
「ウゼェ」
「何が。て言うかさ、あんたこそウザイから。藤堂さん以外にも興味示してよ。オレのことにも気付かない癖に」
不満げだった最後の言葉は聞かなかったことにする。そもそもここまで泥酔している朝比奈が正気に返った後にこれらを覚えているとは思えない。卜部と関係を持つことを望んだことさえ記憶されるか危うい。平素の朝比奈はそれほど藤堂に心酔している。卜部を交渉相手に望んだと知ったら発狂しかねない。
「は、気づいてほしくねェ野郎が言うな」
「気付いてほしいよ。オレだって人間だもん。藤堂さんのことは一番好きだけどあんたのことだって嫌いじゃないし嫌われたくなんてないよ」
「嫌われたくない程度の好意で貞操奪うな馬鹿」
「じゃあ好き。あんたのことも好き。あんたってツンデレだよね、藤堂さん以外には見向きもしない癖に」
ツンデレなる意味が正確に測りかねるが卜部はふんと鼻を鳴らした。
「なンだそれ。知ったことじゃあねェな。そもそもテメェに関係ねェな」
朝比奈が不服げだ。紅く熟れた唇を尖らせる。酒精で乾いた唇が妙に照る。
「ほらすぐそれ。オレのこと関係ないって言う。オレはあんたのこと嫌いじゃないって言ってるのに」
「だからな、嫌いじゃない程度の相手と寝るのかお前。だったら世界中の奴とやる羽目になるだろ。悪いこたァいわねぇから今すぐやめて」
「いやだ」
ぴくくっと卜部のこめかみがひきつった。引きつる口の端を何とかつり上げて愛想笑いを浮かべる。
「オレはあんたのこと嫌いじゃないし、その嫌いじゃないは体つなげてもいい部類だよ。オレの中であんたとやることは別におかしいことじゃないし」
「ハァ? ちょっと待てそれは」
真っ当じゃない、と言いかけて口ごもる。そもそも藤堂との関係だって真っ当と言えない卜部に正誤を論じる資格はない。見透かしたように朝比奈はふふんと笑う。口腔から鼻へ抜けるような音は明らかな揶揄だ。それでも卜部は言い返す言葉さえない。
「ほらあんたの体はオレのこと認めてる。体の状況と思惑って案外連動しないよね。嫌いなのに反応するし好きなのに無反応とか。好き好きで交渉が持てるなら不能なんて悩みが出るわけないし?」
「馬鹿野郎」
朝比奈の指先は卜部の深部で揺れ動く。鈴を鳴らすように鳴動するそれに卜部は動揺した。卜部の体は主導権を完全に朝比奈へ明け渡していた。卜部の体は朝比奈の指先一つで燃え上がり、熱を集めた。
「好きじゃないけど嫌いじゃない。うん、嫌いじゃないよ、あんたの体」
朝比奈の言葉が卜部の深部で揺れた。
「うぅ痛い…」
短く呻いて体を起こす朝比奈を卜部は見つけた。浴室から戻ってきたばかりの卜部の髪はまだ濡れていてしっとりとうなじや額へ垂れた。風呂上がりの卜部を見て朝比奈がギョッとする。
「え、な、なに?!」
卜部はあえて多くを述べない。それが殊更に想像を煽ったのか朝比奈が泡を食った。
「奪われ」
「消えろ」
蒼白になる朝比奈に卜部は蔵書の一冊を投げつけた。ゴスッと本の角が朝比奈の額にぶつかり、朝比奈が悶絶した。
「頭痛い…! え、えぇッ?!」
瞬間、ピリリリリと携帯通信機器が鳴った。朝比奈がびくんと体をすくませる。しばらく鳴っていたそれは不意に静まりかえり、今度は卜部の機器が鳴動した。
「はい」
出れば相手は藤堂だった。
『卜部か? 朝比奈の行方を知っているか?』
「朝比奈っすか?」
卜部の口元がにやあとつり上がる。朝比奈は身ぶりでバタバタと不在を示した。にやにやと笑んでから卜部はしれっと告げる。
「さぁ知りませんね。なんか用事っすか?」
『…酔っ払って飛び出したまま行方がしれない。少し心配で…そろそろ眠っていても目を覚ますのではないかと思ってな…』
朝比奈はしきりに身ぶりで卜部を押さえようとする。人差し指を立てて、しーっと繰り返す。
「ほっときゃあいいんじゃないすか? 要領よく誰かの部屋にしけこんでるかも知れませんよ」
嫌味を込めて言うと藤堂はふむと唸る。朝比奈は苦虫でもかみつぶしたような顔をする。
『……そうかな』
「あいつだって一人前の野郎ですからね。中佐ァしらねェ女いたって不思議じゃねェでしょう」
『お前のところにいないか?』
核心をつく言葉に卜部がぎくりと固まった。
「…なんで俺?」
『酔っ払った朝比奈とお前たち四聖剣について議論していたから。いないか?』
問う藤堂に他意などない。あくまで無垢な藤堂に卜部は冷や汗を流しながらさぁ知りませんねとうそぶいた。
『…そうか。お前のところにいるような気がしたのだが』
藤堂の勘の鋭さには息を呑むばかりだ。卜部は声が震えていないのを確認しながらそォですねェと相槌を打った。
それから互いの体をいたわるようなやり取りを交わして通話を切る。ニッコリ笑う卜部に朝比奈が震えあがった。
「朝比奈」
「うわごめんなさいホントごめんオレ」
どげしっと卜部は朝比奈を脱ぎ捨てられていた衣服ごと部屋から蹴りだした。
「えぇー?! 酷いッひどッ! オレのこと嫌いなのッ?!」
「今は嫌いだ」
ニッコリ笑顔で口元をひきつらせながら卜部はぴしゃっと扉を閉じた。全裸で衣服ごと放り出された朝比奈がすがりつく。
「ひど! オレのこと嫌いなんだひどい! 頭痛いのに! 休ませてよっ頭痛いよ!」
ぎゃんぎゃんと喚くのを知らぬふりを通す。卜部はのそのそと寝床へもぐりこんだ。ふと思いついて扉の前へ行く。扉を開けば、刹那朝比奈の顔がぱァッと華やいだ。
「俺今日腰痛で休むわ」
言い捨てると同時に無情に扉を閉める。朝比奈の返答も聞かない。
「ちょっと待ってオレ千葉さんに殺される! 絶対なんでって訊かれるから! どうすりゃいいのさ! ちょっと待ってよ! 藤堂さんとかどうすればいいのさ!」
中佐ァ勘がいいからなァと卜部は茫洋と思った。朝比奈の悲鳴を背に聞きながらとろとろとした眠気が卜部をとらえた。朝比奈に付き合った所為で結局夜明しである。そろそろ無理ィ利かねェンだけどとうそぶきながら布団を頬まで引っ張り上げるようにかぶる。
朝比奈がキィと動く扉に気付いた。そっと押しあけると扉は音もなく開く。布団にくるまっているらしい卜部の体が見えた。そっと忍びこみ、同時に扉を施錠する。施錠を怠ったのは卜部の落ち度であると一方的に判じて念入りに施錠する。これで不意の闖入は防げるだろう。
「ばかじゃないの?」
覗きこめばすっかり弛緩した卜部がくかーと寝息を立てていた。口の端から垂れる涎が愛嬌とだらしなさの微妙な位置にある。
「ばーか」
朝比奈は唇に吸いつきながら布団の中へもぐりこむ。二日酔いの頭痛も吹き飛んだ。
「?!?!」
びくびくと跳ねあがる卜部の痩躯を抑えこむ。
「んむっ! むぅうー!」
卜部の四肢が布団を跳ね上げて悶絶した。
《了》