ほんの刹那の解放
けれどそれは
絡む蔦の重みが消えた
45:昨日が明日を指し示しても、私は今日をさ迷うばかり
感情と肉体は必ずしも連動しない。卜部の思考は同じ位置に帰着し、不満を感じては進展を求めて得られずに結論を見る。一人で悩んでいるだけなのだがその内容には藤堂という相手がいてだからこそ卜部の結論は同じところへ帰着するしかなくまた確かめようもないのだ。いつからかは既に覚えてない。藤堂と交渉を持つようになった。間遠だったその間隔は次第に狭まって前に抱かれたのがいつか覚えていられるだけの短期間になった。それでも事の発端を覚えていないのだからしょうもない。気付いたら藤堂とそういうことをするにあたっての抵抗がなかった。性別の偏りがある軍属での発散はある程度の妥協が必要で、卜部はその手段として受け入れることを覚えた。だから抱かれるだけでは駄目なのだろうかと思って藤堂に立場の転換を頼み、藤堂も了承してくれた。結果としては変化なしである。交渉の攻守に関係なく卜部の思考は停滞し、焦燥ばかり湧く。藤堂には言っていない。言ったところで進展が望めるわけでもなく、藤堂の気を煩わせるのが億劫だった。一言でいえば柄ではない。こんなことに煩うとは思わなかった。この懊悩自体卜部の主張に反するのだ。
「卜部!」
通る低音に目線を投げれば手を挙げて合図を送る藤堂がいた。その横の朝比奈が睨むように卜部を見る。朝比奈は藤堂を好いていると公言してはばからないし、藤堂の信頼を得られるものをことごとく敵視するきらいがある。高邁な思想ではなくただ単に己の好きなものを独占したいだけである。卜部は朝比奈を無視して藤堂に挨拶を返した。藤堂が足早に歩み寄り、不服げな朝比奈まで付いてくる。
藤堂と交わす会話は何気ない些事だ。何か不都合はないかとか足りぬものはないかと藤堂はまめに訊く。気の置けないものとそうでないものの対応が違うのは藤堂が不器用だからだ。藤堂には満遍なく受け流すとか手を抜くとかそういうことが出来ぬ性質だ。気遣う時はとことんまで気を使うので通りすがりにまで気を配れないのだ。それに卜部は大丈夫ですとかどうもとか礼を言ったりするだけだ。所属する団体が違えば面子も変わるし交友関係も変わる。藤堂に下手なことを言って気を煩わせる心算はない。藤堂のためだと言っているがその実、己のためであるのを卜部は気づいている。結局のところ、突き詰めて考えるのが嫌なのだろうなと思う。藤堂の追及は的確で核心をつく。だから結論を出したくない愚痴のようなものは藤堂に言ったところで栓ないし、藤堂の手間をかけさせるだけなのだ。
「中佐っこさァ何も言わねェからもっと言ったっていいんじゃないですかね。中佐が飯が不味いって言ったら献立変わるかもしれねェですよ」
「それは卜部、我儘というものだ」
冗談であるから笑いながら言えば藤堂も微笑で応える。朝比奈がいるので交渉のことはおくびにも出さない。そもそも藤堂も卜部も閨を往来で話題にするほど面の皮は厚くない。
「卜部、その」
藤堂が珍しく言い淀む。卜部は黙って先を促す。藤堂は決心がつかないのか、普段は強い眼差しをどこか虚ろに彷徨わせた。灰蒼は潤んだように煌めく。鳶色の髪とあいまって不思議な魅力を有する瞳だ。玉眼のように息づく瞳は不規則に揺れて思いを惑わせる。寝床での藤堂の潤んだ瞳は欲情の度合いを明確に知らせる。堪えてしまう藤堂であればこそ変化は顕著だ。藤堂の具合を知るために卜部には藤堂の目を見る癖がついている。加えて身の丈は卜部の方がある所為か、藤堂の目線は自然と上目遣いになる。上目遣いに潤んだ双眸というものは案外情がわく。
「なンすか?」
焦れた卜部が問うた。すぐさま藤堂はびっくりしたように目を瞬かせるがしゅんと萎れる。戦闘において抜群の威力を発揮する藤堂の判断力は日常生活でほぼ生かされない。むしろ敏い性質が障害になっているようで痛みや衝撃に過敏に反応する。問おう問おうとしているところを逆に卜部に問われて気をくじかれたらしく、藤堂は何でもないと言葉を濁した。隣の朝比奈の童顔がみるみる険しくなっていく。卜部はあえてつつかず藤堂の言葉を待った。
藤堂は強いようで案外打たれ弱い。隣の朝比奈などのほうが余程強かで一度や二度殴りつける程度では退かない。朝比奈は特に藤堂に執着しているし、卜部とも何度か諍いを起こしている。けれど朝比奈は衝突の数が多い分修復も上手く、交友関係は藤堂や卜部などより広いくらいだ。
「…すまない、なんでも、ない」
藤堂は結局何も言わなかった。卜部もそうですかと流す。藤堂は淡く笑って卜部にちゃんと食事を摂るようにと言い含めた。卜部の体躯は引き締まっているというより痩せている。偏食はしていないし食欲もあるのだが何故か肉はつかない。太るときは太りますよと言っておいてへらりと笑う。反面、藤堂はきちんと手入れの行き届いた引き締まった体躯をしている。
「…時間があったら、声をかけて欲しい」
不器用な閨の誘いに卜部は笑ったままはいと応えた。朝比奈は勘の鋭いところがあるから下手な返事をすれば藤堂の窮地を招きかねない。
「中佐も俺見たら声かけてくれていいっすよ」
卜部の軽い返答に藤堂はくすりと笑う。凛とした精悍な顔立ちが弛む時を見れるのは極上だ。まして藤堂は親しき仲にも礼儀ありを実践する性質で、滅多に弛みなど見せない。
停滞していた感情がまたぞろ顔を出す。藤堂の笑顔の儚いような魅力は破壊と庇護を同時に呼んだ。卵を持った時に似ている。毀せる、と思うと破壊衝動がわき、壊してはならない使命感を同時に帯びる。
「時間をとらせたか。すまない」
「別にどうせ暇ですからねェ。中佐っこそ飯ィ食ってくださいよ」
「注意する」
藤堂は気を抜くと平気で食事を抜く傾向がある。空腹を感じないと言っていたそばから低血糖で倒れた経験もある。普段は口を出さない仙波さえもそれには声を荒げた。朝比奈などは泣きついて洟を垂らしていた。藤堂は困ったように口元を緩めて、腹が減らないんだと言い訳した。
藤堂の目が問うように卜部を見た。卜部はありふれた茶水晶で髪色は縹色の艶を帯びる。日本人としては微妙に色彩が違うが藤堂にもこの程度の差が見られるのでそういうものだと放置している。朝比奈などに至っては髪も瞳もよく見れば緑を帯びた暗緑色だ。緑の黒髪を地でいくわりに慎みが欠けている。清楚な表現を得ていながら朝比奈本人は清楚とはほど遠い。常々藤堂が好きだ抱きたいんだと言っては千葉の制裁を受けている。それでもめげない執拗さには感心する。
「無理は、するなよ」
藤堂の言葉に卜部の反応が遅れた。言葉は聞こえていたが脳までいってない。はぁと抜けた声で返事をした。反射である。卜部は波風立てて喜ぶ性質ではないから無難な反応を身につけている。それが反射的に出た。相槌は身を入れていようがいまいが変わらない。
「卜部、本当にお前は無理を。私に出来ることなら、するから。なんでもするなどとおこがましいことは言わない…私に出来ることであれば」
卜部は傷を悟られたように身を引いた。へらへら笑いながら言及を避ける。
「中佐に何でもしてもらえるってなァいい身分ですね。でも俺は大丈夫です、から」
傷も懊悩も隠しきれた自信がない。それでも卜部から言いだしたりはしない。藤堂から言われない限りとぼける心算だ。あえて己をさらす馬鹿もいない。傷の重みは時に周りさえ巻き込んだ。まして感じやすい藤堂にそれらを負わせる気はない。
「卜部、お前は…本当に大丈夫か? 駄目な時は、言ってくれないと」
藤堂の指先が卜部の頬に触れる。火照ったように熱いそれが皮膚に馴染む。藤堂の体温は性質悪く同化する。懸命な境界さえ取り払う力を持ち、それでいて藤堂自身にその自覚はない。卜部はさりげない仕草で藤堂の指先から逃れた。とろけるような感覚が消える。
「あんたっこさァそうでしょうが。あんたが倒れて俺達が何度泡ァ食ったと思ってんですか」
「…それは、悪かったと思っている」
むっと拗ねるように唇を引き結んで目線を逸らす。目元や頬が紅い。
「本当に大丈夫か? お前は」
「大丈夫ですから」
卜部はきっぱりと藤堂のそれを退ける。すがりついたら臆面も体裁もなくすがってしまうと判っている。だから卜部はこらえる心算だ。すがるのは卜部の側にとってはいいかもしれないが藤堂には負担でしかない。ただでさえ気をもむ藤堂の懸念を増やすことなど、藤堂の部下としての信条が拒んだ。
「俺なら平気ですから。たいしたこたァねェですよ。あんたも知ってるでしょう、俺は要領は悪くはねェから」
「……ならば、いいのだが」
不満げだが藤堂は退いた。卜部はそれじゃあと笑って藤堂の進行方向と逆へ足を進める。駆け出したくなるのを懸命にこらえる。ざわざわと何かが揺れた。逆撫でされたように逆立つような気さえする。通路の角を曲がったところで駆けだそうとした卜部の体ががくんと止まる。引っ張られた腕の先をみると朝比奈が頬を膨らませていた。
「…なンだよ」
「いい気になるなよ!」
意味が判らない。黙る卜部に朝比奈が素早く言葉を連ねた。
「だから、自分だけ辛いような顔するなって言ってんの! そういうの見てるとすっげーむかつく! 辛いのはあんただけじゃないし、それに」
朝比奈が一瞬言い淀む。きっとあげた顔は精一杯卜部を睨む。眼鏡の奥のぱっちりした目が卜部を凝視するように睨む。
「あんたも何でもない顔しないでよね! 辛いなら辛いって言ってくれないと判らないんだからね! 何も言わずに判るわけないんだから、ちゃんと言うんだよそう言うのは! 何も言わずに判ってほしいなんて思わないでよね!」
つけつけと言い放つ朝比奈の華奢な指先がずいと突きつけられて卜部はいささか身を引いた。退いた卜部の姿勢を悟ってか、朝比奈は嵩にかかるように言い募る。
「判った?! 辛そうにしてたら声かけてもらえるなんて甘えるな! 辛い時は辛いっていう! そういう勇気と心構えも要るの! 判った?!」
勢いに押された卜部がうぅとかあぁとか唸るうちに朝比奈がそっぽを向いた。
「あんたのそれ、藤堂さんと似てるんだよ。藤堂さんも堪えちゃう人だから。それはオレ大嫌いだよ。でも藤堂さんに嫌いなんて言えない。けど嫌い。だからおんなじようなあんたには言うんだよ。そういうのは嫌なんだよ」
朝比奈の目が卜部を凝視する。吸いこまれそうな暗緑色は沼のように深部で息づく。
「藤堂さんと同じででも違う。だからあんたには言えるんだ、だから言うよ。限界迎えたあんたの始末は周りがするんだから具合悪い時は具合悪いって言ってくれないと困るんだよ!」
卜部が目線を投げれば藤堂は困ったように待っている。藤堂に助けを求めるのも心得違いな気がして卜部は口をつぐむ。朝比奈の言っていることは間違いではないし、ならば違っているのは己の方なのだろう。
「それが駄目だって言ってんの!」
ずばりと言われて卜部がひるんだ。
「抱え込むなってオレは言ってんの! あんたも藤堂さんもそう。我慢して我慢して、それが嫌なの! そんなにオレは頼りないの、愚痴さえもこぼせないの?! オレはそんな馬鹿じゃないし軽くもないッ!」
朝比奈の言い分も卜部には判る部分もある。藤堂は予兆を堪える性質だからいきなり倒れたり体調を崩したりする。それは確かに迷惑と手間ではあるのだ。前に言ってくれれば、と思うのも一度や二度ではない。それを卜部にも朝比奈は当てはめた。
「…俺ァそんなじゃねェだろ」
「自覚ないとこまでそっくりだよ。あんたはそういう性質なの! だから言ってんじゃない、素直に聞けよ。判った?!」
まわりってのは使うためにあるの! 仲間ってそういうもんなの! と朝比奈が言いつけ、それだけ! と身を翻した。どうかしたのかと問う藤堂に朝比奈は笑顔で意見しただけですと言ってのける。朝比奈の声は高いと思ったが藤堂には届いていなかったらしく、藤堂は不思議そうな顔をしたままだ。ぽかんと呆気にとられている卜部など知らぬげに朝比奈は藤堂の腕を引いていく。藤堂に見えないところでべェと紅い舌を出す。
クックッと卜部の喉が震えた。笑いだしたくなるのを必死にこらえる。通路を突っ切って角を曲がったところでこらえきれずに笑いだした。卜部の腹や喉が笑いに振動した。ヒィヒィと笑う卜部が壁にすがる。通りすがりが不審な目で卜部を見る。
「あァそうかもな、そうかもしれねェよ」
卜部の懊悩は決着していない。朝比奈が突きつけたのは現状で打開策ではない。だが。
「中佐ァ朝比奈手放せねェ理由が判ったような気ィすんなァ」
あそこまでまっすぐ言われた言葉は正論であるという以前に卜部の内部へ浸透した。時に刃となる鋭さは核心をつく。突きつけられたそれは露骨なほどに心情を示す。
「バカみてェ」
だが悪くない。朝比奈の侵蝕はけして悪くはなかった。あのまま押し倒されていたら脚ィ開いてたなァとうそぶく。朝比奈の真っ直ぐさはうぶで揶揄したくなる。もっとも揶揄に神妙になるような性質ではないからすぐさま仕返しされるだろう。そういう跳ねっ返りも嫌いじゃない。藤堂が朝比奈を明確に拒絶して手の内から出さない理由が判ったような気がした。心地よくもある。切りつける鋭さは時に心地よい。
「あぁでもあいつァ喘ぐなァ見たくねェなァ」
朝比奈に押し倒されても押し倒す気にはならないことに卜部が笑った。もっとも朝比奈から見ればどちらにしても御免だろう。卜部は藤堂との交渉で脚を開いてもいい気分になっていた。切りつける朝比奈の鋭さは厄介な卜部の障害さえ取り払ったようで、脚を開くことに抵抗はなくなっていた。懊悩の根本は解決されていない。だがそれでさえもいいような気がした。それでいいような気さえする。
「あんなガキになァ」
彷徨うのは今日でもいい。昨日も明日も、必要になれば見えてくるだろう。
辛いなら辛いって言えば?
朝比奈の言葉は甘美な赦しのようだった。そうやって訴えることの甘さを朝比奈は知らないだろう。赦しの甘さを知らないだろう。
「泣きてェ」
膝を抱えて丸まった卜部の目の奥がジワリとにじむ。
赦しを乞うてもいいですか
《了》