その手の平で護るように包むの?
その手の平を閉じるように潰すの?
それとも、逃がすの?
41:ちかよらないで。さわらないで。だけどはなれていかないで。
部屋に満ちる薄闇の中で痩躯が蠢いた。寝台に腰をおろしてうつむき加減のまま動きを止める。完全な密閉空間ではなくどこからともなくさす月明かりが闇を薄める。間隙を縫うようにして居座っている彼らは寝床を密閉したりしない。隙間は逃げ道にもなり得る。密閉はすなわち袋小路へと通じ、時に逃走という手段を要する身分の彼らはそれを避ける。卜部もそういう生活に慣れている。零落した軍属からテロリストへ転身したが実質に変化はあまりない。卜部の指先が躊躇するように敷布を乱す。瞳を閉じて眠りについているらしい少年が規則正しい呼吸をする。非常に出来の良い美貌は目を閉じていても健在で、将来はさぞやと思わせる。まだ発展途上にある体躯は蓄えを使い切って細く、華奢だ。
自分がこのくらい美貌だったならと思うことがある。もしそうだったらあの理不尽な行為さえ納得できるような気がした。数さえ把握できなかった手のひらが口元に何かを噛ませて押さえつける。引き裂くように襟を開かれ裸に剥かれた。脚を強引に割られてその先に待っていたのは裂かれる激痛。白目を剥いて悶絶した卜部を彼らは何度も犯した。事態が終わりに近づいた時、誰のものとも判らない低音が告げた。
言うなよ、お前が恥ずかしい思いをするだけだ。
普段は忘れているこんな過去を思い出すのは同じ行為をしているからかもしれない。脚を開いて男を受け入れ体温を上げて白濁とした終わりを迎える。理由が知りたかったのは一時ですぐにそんなことに気は回らなくなった。行為は慢性的に繰り返され、痩せて腕力もなかった卜部は蹂躙された。
ルルーシュの細い黒髪に指を絡める。さらさら滑るそれはいつ手入れされているのかと思う。ルルーシュと関係を持つ際に彼が対価として差し出したものは己がゼロの正体であるということとルルーシュという名前だった。偽りの可能性を感じなかったと言えば嘘になるが実のところはどうでもよかった。ルルーシュは事前に関係における役割をきっちり告げた。だから、また犯されるだけだと卜部は判じたのだ。ルルーシュはこの団体において強者である。それは腕力の問題ではなくそれだけの思考と作戦の立案、実行を可能とする実力があるということだ。現に黒の騎士団を躍進させたのはゼロであるルルーシュの力が少なくない。
ひがんでいるのかもしれない。ルルーシュの肌は染みもくすみもなく生活に苦労したという事実は窺えなかった。満ち足りた生活とは言わないが衣食住に困窮した痕跡は見られない。軍に身を置いた卜部はその安定した生活のために暴行を許容した。エリア11となりイレヴンと呼称を変えられた日本人が生きるにはこの土地は安楽であるとはいえない。
「何を考えているんだ」
狙い澄ましたように卜部が見るタイミングでルルーシュが双眸を開く。
「別に」
口元をつり上げて笑ってしまうのは癖だ。見下げられることに慣れた根性は卑屈に哂う。
「嘘をつけ。なんだか辛そうだったぞ」
「見えんのかよこの明るさで」
ケッと笑って言い捨てればルルーシュがむっと黙る。
「ふん、顔など見えなくてもオレには判る。なんといってもお前を愛して」
「まだ寝てんのかお前」
ばふっと枕を押し付けるとルルーシュがぐむぅと唸る。すぐさま枕をどけたルルーシュが唇を尖らせる。濡れ光る朱唇は麗しい。
「本当だぞ。本当にオレは、お前を。本当の本当だ」
「うるせェなァテメェ」
いつもの戯言であると卜部は受け流した。ルルーシュくらいの年齢は目に見えない愛だとか友情だとかそう言ったものに重きを見る年頃だ。
「本気だぞ、オレはおまえが」
ルルーシュの指先が卜部の腕をぐいと引く。その勢いで卜部の体が寝台へ押し倒される。のしかかろうとする影は暗くその識別は出来なかった。
「――ッ!」
音もなくしなる腕がルルーシュの横っ面を殴り飛ばした。体重の軽いルルーシュはあっけなく退けられる。卜部の心臓は奇妙に早く鼓動を打った。行為は主に暗がりで行われ、抵抗できない卜部に人影は何度ものしかかった。
「なんだよ、痛い」
「…――わりぃ」
顔を覆うようにしていた卜部が不意に立ち上がって身支度を整える。ぽかんとして何も言えないルルーシュにまで卜部の気が回らない。ルルーシュにとって衝撃は予想外であったらしく何の備えもない手応えだった。
「…悪い。今日はもう」
浮かされたようにふらつく足取りで卜部は部屋を出た。思い出したくもない過去とルルーシュの行為が刹那にかぶった。あの時の相手の顔も声も名前も覚えていないというのに恐怖は骨の髄から走りぬけて卜部を戦かせた。怖かった。泣きそうだった。体のタガが緩んで漏らしてしまいそうなほどにそれは刹那的に走った。理性というより感覚に近く、知識というより経験に近かった。
「…ちくしょう、なんで、今頃…」
卜部は人気のない通路でうずくまった。
団体はそれなりに忙しく卜部は物思いにふけることもなく日々を過ごした。日常の忙しさと繰り返しは忌まわしい過去を遠ざける。卜部には藤堂という出来のいい上官がいて彼の存在も助けになる。藤堂は相手の立ち入ってよい領域かどうかを判断するのがうまく、不用意にほじくりかえしたりしない。藤堂自身も無理やり行為に及ばれた過去があるのを卜部は知っている。その相手は枢木ゲンブという男で日本のためには多大な存在感を示し、また力を有してもいた。どうにもならない相手という存在が卜部に連帯感と疎外感を同時に起こさせる。藤堂に親しみを感じる程度には距離も感じる。藤堂の状況であれば不可抗力の言い訳ができ、卜部はただ至らなさを責められるだけのような気がした。
「卜部!」
鋭く走った声に卜部の肩がびくんと跳ねた。
「…あ?」
「卜部、食事をする気がないのか?」
手元を藤堂が指し示し、それを目で追う。卜部の手元で惣菜は細切れになっていた。箸が進んでいるわけもなくただ無為に惣菜を刻んでいるだけだ。嘆息して卜部は箸を放り出した。食欲はともすれば薄れがちである。
「…食う気が起きねェみたいっす」
卜部の言葉に藤堂は渋い顔をする。藤堂は精悍な顔立ちの所為か不機嫌や不服な表情をすると怒っているように見える。卜部は黙って飲み物にだけ手をつける。
「卜部、大丈夫なのか。最近のお前はなんだか」
「集中力が欠如しているよ」
藤堂の言葉尻を奪ったのは機械音声だ。藤堂が驚いたように振り向き、卜部も動きを止めた。目鼻のないのっぺりした仮面は感情さえ映さず、その音声でさえにじみもない。
「模擬戦闘の結果を見せてもらった。お前には個人面談の必要があるようだな」
卜部は散々な結果を叩きだしたばかりだった。
「三十分後に私の部屋へ来い。こなければ探し出すからそのつもりでいろ」
反論さえ赦さない物言いに卜部は口元を引き締めた。ルルーシュは無茶は言っても無理は言わない。そして言ったことを実行する。卜部がすっぽかしても逃れようとする先へ回るだろうことが想像できた。
「卜部、本当に大丈夫なのか」
心配そうな藤堂に卜部はへらりとした笑いを張り付けた表情で、はぁと返事をした。
部屋には重苦しい沈黙が満ちた。卜部は来訪を告げてから口を開かないしゼロも何も言わない。ゼロは黙って仮面をとると、ルルーシュへと変貌する。
「まったくひどい出来だ。この結果が続くようならお前の降格を考えなければならないぞ」
「へェ、気にしてくれてんだ? そりゃあどうも、ありがたい話で。予想外だぜ」
「何を気にしている? お前の忌まわしき過去か。誰にだって忌まわしく語りたくなく忘れたい過去くらいある」
ルルーシュの言葉は正論だ。だが感情的な同意は得られない。
「そこまで判ってるなら勝手にしろ、あんた、俺がどうなろうと関係ねェんだろ?」
ルルーシュの朱唇がくぅと弓なりに反って笑う。麗しいだけに相手を嘲弄している印象は消えない。底辺であがくことを知らない顔だ。もがいて苦しんで泣いて叫んで、そういう苦労とは無縁である美貌だ。生活の基準というものはわりあいその表情や仕草からうかがい知れるものだ。苦労を知らないものや猜疑心にまみれて生きてきたものなど一目見れば区別がつく。ルルーシュは多少苦労を知っていると思えたがしょせんは上流階級での苦労ということか。
ルルーシュは黙って卜部に歩み寄る。押しつけがましさもない動作は優美だ。ずいと近づく美貌に卜部がびくりと後ずさる。ルルーシュは退かず、億しもしない。躊躇も恐怖も知らぬ仕草で卜部の頤をとらえる。
「オレにだって忘れたい過去がある。忘れてしまえたらどんなにか楽だろう。でもオレはそれも含めてオレなんだ、だから忘れるわけにはいかないし、忘却を赦すわけにもいかない」
その言葉はそのまま卜部の根底に突き刺さった。痛みに心がびりびり痺れる。脈打つ痛みとぷつりと裂ける感覚。
「――そんなこたァ判ってんだよッ!」
卜部の手が頤をとらえるルルーシュの繊手を払う。華奢で力なくルルーシュの手は振りほどかれる。
過去の痛みでさえ己の確立に必要なのだ。引き裂かれた傷痕と痛みに卜部は何度も泣いて、叫んで、もがいて、のたうった。目の前に広がる緋色に泣いた。卜部は何度も同じ行為を行った。乞われるままに脚を開いて、泣いて、喘いだ。繰り返される痛みは過去を遠ざける。反芻することが痛みを塗り替えてくれるのだと信じた。結果は惨憺たる有様でただ傷が増えて痛みが増えて、卜部が苦しんだだけだった。それでも卜部は行為を止めることはできなかった。引き返す道などなくそんな余裕もない。後には戻れないということだけを実感した。
卜部の肩が上下する。激しい呼吸にルルーシュはその紫苑を眇めた。
「話せば楽になるという程度ではないんだな。そういうものがあるということはオレも知っている。オレはお前の痛みを消せない。和らげることさえできない。でも」
ルルーシュの細腕が卜部の体に抱きついた。
「お前を抱きしめることはできる。痛いだろうといたわることはできる。くだらないよな? でもそんな瑣末なことが必要な場合だってあるんだぞ」
卜部の体が慄然と震えた。
「体温は意外と存在が大きい。人肌というものの影響は少なくない。巧雪」
卜部の強張りが融ける。緊張していた筋肉が弛んで膝が抜けそうになる。融解するように強張りは融けていく。ただ抱きしめるだけの体温は卜部の予想以上に穏やかで、想像以上に深部まで沁み渡った。
「巧雪、大丈夫だ。お前にはオレがいる。四聖剣や藤堂が癒せなくてもオレがいるだろ? だから大丈夫だ。お前を泣かせないことができなくてもお前の涙を拭ってやることはできる。フォローは出来る。だから、抱え込むんじゃない」
ルルーシュの幼い美貌が優しく笑んだ。
「オレがいるから。だから安心して泣け。叫べ。オレが受け止めてやる。まやかしでも何でもいいだろう。オレという存在は確かなんだから」
紅い唇や白い肌がふわりと笑う。微笑という言葉がふさわしく美しい。ルルーシュを見て彼が不細工であるというものはほぼいないだろう。
「…アホ。バカみてェじゃねぇかよ」
「ふん、馬鹿で結構だ。世の中まともだと思っている奴ほどバカさ」
美しい崩壊は醜い成立より魅惑的だ。卜部の涙腺が緩む。年がいもないと判っている。こんな子供に、とさえ思う。けれどだからこそ。こんな子供だからこそ口にできる癒しがある。
「…本物のバカだな」
「うるさいな、それ以上言うと抱くぞ。犯すぞ。言っておくがオレは言ったことは手加減しないからな。犯すと言ったら本当に犯すぞ」
卜部の喉がクックッと笑った。幼い顔立ちで唇を尖らせるルルーシュは愛らしい。薔薇色の頬や紅い唇にその瑞々しさが窺える。
「うるせェなァ、馬鹿だって判ってんだよ、こんなことに引っかかるくらいには俺は馬鹿だよ。でもそれが」
卜部の口の端が吊りあがる。人を食ったような笑みで、けれどそうとしか表現できない。
「こんなに救いになるなんて」
嬉しかった、泣きたいほどに嬉しかった。
「ふん、ずいぶんオレを軽く見積もってくれたな。オレはそんなに無力ではない。…――巧雪」
ルルーシュの細く白い指先が再度卜部の頬を撫でた。
「お前が好きなんだ」
近づく唇も襟を緩める指先も卜部は拒絶しなかった。
「お前にとっての一番でなくていい。必要もない。ただオレがお前のために出来ることはする。それだけなんだ。オレにとっての一番じゃない。お前にとってオレが一番じゃない。それでいいんだ」
卜部の手の平がルルーシュの黒髪をぐしゃぐしゃ乱す。ルルーシュがすねたように大きな紫水晶を向ける。
「ばーか」
「馬鹿で結構だ」
ルルーシュが卜部の体を寝台に突き飛ばす。卜部も殊更に拒否はしない。
襟を開く腕はもう怖くない。
《了》