私は落ちていくものにならない。
落ちてゆく音を聞くものになる。
39:がさり、ぼとり、力尽きてアスファルトに落下してゆく蝉の音
藤堂は良くも悪くも目を惹く容姿だ。軍属という肩書を過去のものにしない引き締まった体躯と硬そうな鳶色の髪。身ぶり手ぶりや表情の変化こそ少ないがその分、仕草の素朴さが引き立つ。真摯な態度に見えるし藤堂自身もそう心がけているふしがある。あまり好き嫌いを見せない性質とにじみ出る人の好さで信頼は篤い。朝比奈は傾けたコップが空であることに数瞬の後に気付いた。渇きが癒されないのも当然だ。中身がない。人の集まるところに一人でいることは案外周囲から浮いて見える。ましてや藤堂は気配に敏い性質だから心情を吐露しているような朝比奈の視線や気配に気づいていないわけもない。
朝比奈は年齢的な近さや明るい口調からそれなりに知人も出来た。新しい力となりえるこの集団でも地位を築き、ある程度の満足を見ても構わない程度まで朝比奈は得たものがあると思う。だが朝比奈の深層を揺らすのは藤堂なのだ。朝比奈の行動指針は藤堂であったし藤堂もまたそれを疎んじなかった。朝比奈と藤堂の付き合いはそれなりの年数を経ている。初めからうまくいったわけではない。これまで藤堂の逆鱗に触れたり諫められたりしてきたのは一度や二度ではない。藤堂の態度は首尾一貫しており妥協しない。許容を超えればそれなりの制裁がある。無理やり押し倒そうとして平手打ちを食ったことさえある。そういう時の藤堂は本気だ。手加減などせず取り繕うような謝罪もしない。
「…まぁ、そういうとこ含めて惚れたけどさ」
朝比奈は話を一段落させたらしく藤堂から離れていく人影との距離をはかる。藤堂が通路へ出るのを追った。藤堂はサッサッと歩く。軽快な動作だが軽薄にはならず、歩き方も綺麗だ。無駄な動きや不具合、かかっている負荷を思わせず感じさせない。和服の裾をうまくさばいて歩ける藤堂の特徴だ。四肢の駆動や動きの幅に対して和服は見た目以上に不親切だ。
人気の密度と位置関係を測りながら朝比奈の歩む速さが上がる。足裏は明確に床を蹴り、藤堂が気づいて振り向く一瞬前に飛びついた。
「藤堂さんッ!」
「あさひ」
ガバッと藤堂に抱きつく。藤堂が何とか踏みとどまろうとするのを朝比奈の勢いが呆気なく押し倒した。藤堂の体躯が鍛えられているとはいえ朝比奈とて成人男子である。まして助走をつけた勢いで飛びつけばそれなりの威力がある。思い切り背中から倒れた藤堂が呻いた。数歩たたらを踏んだおかげか多少緩和されたとはいえ衝撃は残る。
「朝比奈…」
「あはは、オレも指先打っちゃった。すいません、藤堂さん、痛いですか?」
ある程度の物音をさせたはずだが頃合いがちょうどいいのか悪いのか通行人もおらず空間には二人きりだ。朝比奈は藤堂の胸に頬ずりする。朝比奈の過剰な接触に慣らされた藤堂は何も言わない。打ちつけた個所や手首などを点検している。
「藤堂さん、オレ、藤堂さんが大好きですから」
「そうか」
四肢の点検の方に意識の重きを置いている藤堂の返事はおざなりだ。だが普段から愛想がいいわけではない藤堂は反応だけ見れば大差ない。付き合いの長い朝比奈がそれに気付かぬわけもない。
「愛してます。抱きたいな。抱かれたいですか?」
「そうだな」
応えてから藤堂は小首を傾げるように朝比奈を見た。朝比奈がにやにや笑う。それを見た藤堂はわずかに眉を寄せた。朝比奈の性質の好くない笑みが深まり、藤堂の顔が何かを堪えるように口元を引き結ぶ。朝比奈は女の子のように甲高い声を立てて藤堂に抱きついた。藤堂が腕を突っ張って倒れるのを堪える。
「藤堂さん、今オレ抱かれたいかって訊いたんですよ。「そうだな」、だって! 藤堂さん抱かれたいんだッ!」
目を見開いた藤堂の顔がみるみる紅くなっていく。思慮深い藤堂にしては珍しい失態だ。
「しかも同意! 抱かれたいってことも愛しているってことも同意! 嬉しいなッ! 藤堂さん言葉にしないだけでオレのことちゃあんと思っててくれたんですね!」
朝比奈は立て板に水とばかりにたたみかける。理屈に持ちこまれては藤堂に諭されて終わってしまう。藤堂は案外押しに弱いところがあるから勢いは大切だ。朝比奈は大仰な身振り手振りを用いてそれが既成事実であると言わんばかりに感嘆し、力説し、歓喜した。歓びの海に浸っているものに水を差すような真似が藤堂が出来ないのだと知ってのうえだ。藤堂は損得勘定だけで行動しているわけではない。情に通じているし場の空気も読む。そういう敏感さを逆手に取る。物事を決定するのは正誤だけではなく自信と勢いの有無でもある。
「そうですよね、藤堂さんはちゃんとオレに抱かれてくれるし。藤堂さんてば可愛いな。なんかすごくすごく愛を感じるっていうか、この充実感!」
藤堂の口元はなんとか己の言い分を主張しようと試みるも失敗に終わる。口下手に分類される藤堂が能弁な性質の朝比奈に口で挑むなど考えてみれば無茶である。
「…省悟! そういうことはあまり大きな声では」
顔を火照らせたまま藤堂が何とか嘴をはさむ。勝ち目などない。だが朝比奈の滑るように動いていた唇は不意にその動きを止めた。朝比奈のぱっちりした双眸が藤堂を凝視する。
「藤堂さん今。今、オレのことなんて呼びました?」
「なんて…って」
問い返されて藤堂が初めて気づいた。公私を分ける藤堂は自然な流れとして閨と職場での呼び名を区別した。反芻した藤堂はわき上がってくる羞恥をこらえながらうつむいた。温度の低いはずの耳朶が熱い。顔から火が出るという言葉が案外的を得た表現であることをはからずも実感した。口元や頬が発火したように熱く燃えているようだ。震える唇を引き結ぶのが精一杯で言い訳すら漏れ出てはこない。押し寄せる言葉の渦は喉元で磨滅して不明瞭な呻きだけが喉を鳴らす。
「鏡志朗さん、大好き」
朝比奈の言葉から色が消えた。揶揄さえ含んでいた声色は冷静になり、それが藤堂の火照りを軽減させた。
「しょ…いや、あさひ、な」
汗がわき出るような熱さと取り戻し始めた冷静さとが同居する。冷えてきた思考は朝比奈の状況に警鐘を鳴らす。藤堂は恐る恐る朝比奈を見た。
「あいしてる」
朝比奈が不意に藤堂の唇を奪う。なすすべない藤堂はされるままだ。羞恥に火照る唇の熱に朝比奈の口元がゆるむ。隙を見せない藤堂の在りようは視点を変えれば取りつくしまさえないとも取れる。そんな藤堂のほころびは朝比奈にとって歓迎すべきものだ。朝比奈は何度もついばむようにキスを繰り返す。触れるのを繰り返すだけの朝比奈に藤堂の体からこわばりが消えていく。朝比奈の手の平が藤堂の肩や首を這う。緊張のとけていくそれは融解にも似て、芯を残しながら外壁だけがとろけてゆく。沼地に足を踏み入れた時のようだ。融けた表層に自重で沈む。ごく浅いものであったはずのその侵食の度合いは気づいたころに引き返すことさえままならない。
「ホントだよ、オレ、あなたのこと」
ともすればうつむきがちな藤堂の顔を上げさせる。朝比奈は透明なメガネのレンズ越しに藤堂を見据えた。羞恥に潤む灰蒼の双眸。火照った耳朶と震える口元。凛として精悍な雰囲気は時に拒絶や誤解を生んだ。
「あいしてるよ」
沈んで、
沈んで、
沈んで、
逃れられない
爪を立ててしがみつくそれがなんなのかさえオレは知らないけれど。
「だいすき。あいしてる。あなたが…――」
同じ軍属になって朝比奈は藤堂の罪を知る。背負う十字架、藤堂が己を厳しく律する意味。
「あなたが、なんであってもオレは。あなたが」
朝比奈の覚悟と藤堂の態度。生半可なそれは藤堂の呆れと拒否を呼ぶだけだ。だから朝比奈は負けるわけにはいかない。相手がなんであるかさえ知らないままに朝比奈は、戦っている。まわりがどんどん脱落していっても音を立てて落ちていっても、朝比奈は愚かしいほど強く強く。腕を伸ばし指に力を込め爪を立てて、朝比奈はしがみつく。
「あなたをひとりには、させないから」
たとえまわりがすべて落ちていってしまっても。
オレだけは残って見せる。
そして落下してゆく彼の音を聞く。
《了》