現実の悪夢
36:この赤い糸をその白い首に幾重にも巻きつけて、それから
物音も立てずに気配だけが滑るように動いた。夜半にもなってしばらく経った頃合いは月明かりが縁側からさした。屋根と直線で区切られた夜空には瞬く星星が見える。藤堂は猫のように歩を進めて濡れ縁へ出た。そのままぺたりと座り込む濡れ縁はしっとりとして肌に吸いつくようだ。夜露を含んで湿る板は軋む音すら殺す。夜空には太陽の代わりに月が出て雲の在りかをわりあい明確にした。紺青と群青の微妙な差異で流れる雲の動きが判る。温んだように絡みつく風が藤堂の頬を撫でる。一体どういう具合なのか、どこかから雫の落ちる微音がする。庭の柘榴の木が揺れた。昼間見たときには宝玉のごとく目を射った紅色は今はどこか黒ずんで重みを増している。奥底に溜まるようなその存在は傷をふさぐ瘡蓋にも似た。それをとりのけた背後に控えるのは毒々しいほどの紅玉。
藤堂はそっと背後を振り向いた。肩越しに見る座敷にはまだ少年のような瑞々しさを残した朝比奈が眠っている。緑青にも見える色合いの髪を行儀よく整えている。かけている眼鏡は就寝中だからだろう、枕辺でぽつねんと月明かりを反射させていた。毛布をかけたまま寝息を立てている。不意に走る白銀に藤堂は黙したまま目をやった。月光とは違う冷徹さで煌めき放つ刃を手に取る。朝比奈の上着から零れ落ちていたそれは刃を折りたたんで収納できるタイプのナイフだ。携帯に便利で小回りも利く。刃先に指を滑らせれば手入れもされていて切れ味も鋭い。皮膚ににじんでくる紅を舐めてから藤堂はそれを持ったまま寝床に戻った。
藤堂は殺気さえも出さずただ無機的にナイフを構えた。横たわっている朝比奈の首元にひたりと照準を合わせて呼吸を整える。呼吸でわずかに上下する動きですら刃先が揺れる。朝比奈の寝息で蠢く皮膚が刃先に触れる。月明かりの差す角度が徐々に変化する。朝比奈の肌は白い。発光しているようにも見えるその白さはどこか狡猾だ。朝比奈も素直な性質ではないから藤堂を寝床に引っ張り込むためにあれやこれやと手札を変えてくる。たった一つの方法で藤堂を寝床に押し倒せる男を藤堂は一人しか知らない。彼は唯一絶対の力で持って藤堂をねじ伏せる。彼に刃を向けることはおろか彼の前で藤堂は刃を持つことさえ赦されはしない。それは軍属であるという環境や元来受け身な藤堂の性質以上に現状が影響した。日本人にとっての彼の喪失は藤堂一人の裁量でどうにかなる問題ではなかった。彼は藤堂の体を拓いて犯す。そこに藤堂への配慮だとか愛情だとかそういった甘ったるいような何かは存在しない。上下関係の確認と彼の熱の発散が目的でありそれ以外は考慮されない。焦らされた末に震える藤堂の体を彼はいっそ潔いほどあっさりと叩きだし、すがることさえも意に介さない。その熱の残滓に満ちて灼かれる体を拾い上げたのが朝比奈だ。朝比奈は藤堂の過去など問わないと言った。文句もつけない。事実朝比奈は藤堂の体をいたわるように解放へと導いた。
双方の呼吸が落ち付いてくる。朝比奈の喉は動きもしない。まだ年若い所為か体の端々に丸みが見て取れる。女性ほど顕著ではないが藤堂ほど希薄でもない。藤堂の体躯はすでに成熟を終えて衰えてゆくだけだ。それでもまだ肉弾戦で朝比奈に負けてやる気はない。藤堂の手が這うように動いた。滑る切っ先が朝比奈の首をなぞる。日焼けも手入れも影響しにくい首は仄白い。生まれついたままのような皮膚は蒼白い。その薄皮一枚奥にほとばしるような紅の流れが眠っているのだと思う。藤堂は彼との交渉の際に刃物を持ち出された経験もあり、多少のことでは動じない。
朝比奈の目が不意に開いた。潤んだように艶めく緑青が藤堂を射抜く。同時に喉元へ突きつけられている刃先にも気付いた。ちろりと流れる目線は朝比奈の脱いだ上着の方向であり彼がこの刃物の出所を確認した証でもある。
「刺さないんですか?」
朝比奈は臆することもなく問うた。藤堂が躊躇する。その隙に藤堂の手が固定され馬乗りになっていた体は位置と優劣を逆転させた。朝比奈は舐めるように絡みつく視線を藤堂の体躯に投げる。
「ホント綺麗な体。暑苦しくもないし貧弱でもない」
武道を教える立場にもある藤堂はそこに身を置いて長い。骨格や均衡は是正されて手本のような真っ直ぐな体躯が成った。朝比奈の目が潤んだように煌めく。緑青が黒ずんで海松色の艶を帯びる。眼鏡越しではない裸眼は涙目のように揺らぐ。朝比奈は藤堂と同じように切っ先を構えた。
「逃げないの? 怒らないの?」
藤堂の裸身が仄白い畳の上に仰臥している。くっきり浮かんだ鎖骨と柔軟にしなう筋肉の付いた体躯。連動する四肢は瞬発力も攻撃力も有する。藤堂の体は豹とも獅子とも言い切れない。思わぬ力押しをするかと思えば俊敏に跳ねまわる。二面性を含有する女豹に似ていると朝比奈は思っている。しなやかで力強く、見る者をとらえて離さない。それでいて当人にとらえようという気などさらさらない。あくまでもそれらは無意識的に行われておりそれが存在価値を高める。
朝比奈の指先が藤堂の腰骨や脚の付け根をたどる。その時になって初めて藤堂が身じろいだ。朝比奈の腕がしなって刃先を滑らせる。藤堂の頚部に数本の紅い線が引かれる。紅ににじんだそこから紅玉がいくつも生まれた。皮膚を裂くだけの浅い裂傷に藤堂は目を瞬かせる。皮膚のごく薄い表面を裂いたそれは切るというより撫でるに近く裂かれたそばから自己再生機能で修復されていく。もう傷口を開くように皮膚を引っ張っても裂けたりはしないだろう。針で指先を刺すのと大差ない。
「藤堂さん、何しようとしていたんですか」
藤堂は答えずに笑んだ。その唇の紡ぐ音が朝比奈を震撼させた。
「お前はためらうんだな。…あの人はもっと、思い切り切りつける」
敬称すら省いた呼称の指し示す人物を悟れないほど、朝比奈は藤堂の事情に疎くない。藤堂の体をこじ開けるように拓いて抱く人間など一人しかいない。朝比奈の息が詰まる。慄然と震える切っ先が藤堂の皮膚を引っ掻いた。にじんでくる紅が脳裏に焼きついた。
「閣下はもっと強いぞ。肉まで、裂く」
朝比奈の指先が震えた。切っ先が僅少だが退いた。その流れを藤堂は逃さない。凛とした双眸が朝比奈を射抜く。宝玉のように崇高で、宝玉ではけして出せない灰蒼の双眸。朝比奈の目が潤む。動揺に瞬く瞳は藤堂の直視を受けられない。
「藤堂さんこそなんで。オレに死んでほしかった?」
鋭く睨みつける視線が険を含む。藤堂の強さに朝比奈は失態を悟る。その反面で藤堂の双眸も揺らいだ。たじろぐようなその隙に朝比奈が付け込んだ。すべる刃先が先刻より深い傷を残す。にじみ出す深紅の粒が弾けて藤堂の皮膚の上を垂れた。何度も何度も繰り返すそれを藤堂は止めない。藤堂も戦闘に身を置く軍属として怪我の深浅の目安くらいは心得ている。朝比奈は後に残らない程度の深さにとどめていた。白緑の藺草に深い紅が染みていく。ぽとぽと滴る体液の熱さは間をおいてから感じられる。傷口の灼熱も不意に深層を犯した。火照る程度にとどまるものの平常の意識を乱すだけの熱は持っている。
「私は死んでほしいと思う人など、いない」
藤堂の指先が刃先を掴んだ。ブツッと切れる音がして藤堂の手の内から深紅が滴る。慌てた朝比奈がナイフを放り出した。藤堂は静かにナイフを持つ。切れた指先のことなど気にもしない所作で藤堂はナイフの刃先を撫でる。ぎらつく刃の鋭さと藤堂の妖艶さが相まって朝比奈の腰を疼かせた。藤堂の燃える舌先がぺろりと覗いて傷を舐める。融けあう紅とにじみだす深紅に目が離せない。鉄錆の香りがして朝比奈はわずかに眉を寄せた。藤堂は浅い切り傷をぢゅうっと強く吸ってから唇を離す。血潮の紅に染まった唇が妖艶に輝く。確かめるように首を撫でる。藤堂はくすりと笑んだ。
「浅い傷だ。もっと、深く刻め」
藤堂の体には歴戦の証たる傷痕がいくつもある。そしてそれはこれからも増えることだろう。朝比奈は藤堂の負った傷のすべてが戦闘結果によるものであると素直に思えなくなっていた。
「とうどう、さ…きょう、しろ…なんで。なんで抱かれるんですか」
主語を省いた言葉ながらも藤堂はその意を解した。困ったように笑う。
「理由を詮索しても仕方ないだろう」
朝比奈が震えて藤堂の胸に顔を伏せた。
藤堂はナイフをもてあそぶ。切っ先と指先を水平に構える。ぷつっと切れた音をさせて指先に切っ先が突き刺さる。しびれるような熱さは数瞬の間をおいてくる。切り裂いた直後はただ凍りついたように無感触だ。
「私は負けるつもりはない。だが死なぬつもりでもない」
朝比奈は藤堂の胸にすがりつくように伏せったまま啼いた。喉をほとばしる激情は激しく磨滅して消え失せる。言いたいことはたくさんある、震える朝比奈の喉元まで塊はせり上がってくる。それでも喉を吐いて声になる言葉はひと欠片でしかないのだ。藤堂も朝比奈の葛藤を感じている。それでいて口を出さない。無干渉なのだと言い捨てるのは簡単だが藤堂は事において受け身になることが多い。相手を尊重しているとも言える態度はどこまでも曖昧だ。傷口から切っ先を引き抜く。途端に鮮血が溢れて指を伝う。温い雫がひたひたと朝比奈の頚部や肩甲骨に落ちる。朝比奈はかき抱くように藤堂を抱いた。
「辛くないですか」
「何が」
「相手が藤堂さんを好きじゃないってこと」
「元から好かれる性質ではないから」
藤堂は何でもないように言った。その指先が危うい気配でナイフをもてあそぶ。必要としないことが判りながらも手放さないそこに危うさが感じ取れた。藤堂は仰け反るような動きで庭先へ視線を転じる。あらわになる喉首は良くも悪くも外部の影響を受けていない白さがある。走る深紅の傷痕が夜空の月のように明確だ。藤堂の紅に濡れた指先が庭を示す。朝比奈はしばらくの間をおいてからそちらへ視線を転じた。
「柘榴が」
そこで素早く躍動した藤堂の動きに先んじることが出来たのはまさしく奇跡だった。藤堂が喉に突き立てようとするナイフは朝比奈の手の平を貫いて切っ先をせき止めた。藤堂が驚いたように目を見開く。燃える痛みが朝比奈の体を支配する。ナイフを奪い、それを放り捨てる。朝比奈の手首を溢れた鮮血が伝い落ちた。
「しょう、ご」
「なめないでくださいね」
朝比奈の唇が藤堂の首を這う。固まりつつある深紅を舐めとる。新たな紅が溢れてくる。朝比奈は血塗れの手で藤堂の胸を撫でた。目を引く深紅はどこか黒ずんで赤黒い。灼けつくような痛みに朝比奈は目眩がした。脈打つ傷口からは静かに、けれど確かに出血していた。
「絶対に死なせたりは、しないから」
朝比奈の舌先は藤堂の首の紅い線を舐る。紅い糸のように藤堂の頚部を覆うその紅線を。
「絶対に。オレが死んでもあなただけは生き残らせて見せる」
藤堂は胸を這う朝比奈の手の平の紅から目線を転じた。庭先の柘榴はぱっくりと表皮を裂いて小粒な紅玉の果肉を吐いた。艶めく紅玉は鮮血のように灼きついた。
《了》