君がいてくれるだけでいいんだ
32:一目会いたいと流した涙はきっと本当だったのに
久しぶりに自宅へ戻れた藤堂は私物の整理に時間を割いた。障子や唐紙を開いて風を通し、洗濯機をフル稼働させる。長押や欄間のほこりを落とし、掃き掃除をしてから雑巾がけをする。二親のすることろをよく眺めていた所為か、久しぶりの作業も手間取ることなく進んだ。その後で持ち帰った書類をひっくり返す。団体の高位にいた藤堂はそれなりに仕事も多くなった。新しいことが始まるときというのは手間も消費も人一倍だ。必要なものが済んでしまうと箪笥の前でぼんやりする。衣服を入れ替えるべきかと思いながら頻繁に帰宅できないことやあまり出かけないことなどを思い合わせる。朝比奈がいた頃は面倒がらずにやっていたのだが、と一人ごちる。諦めて鞄をあさると写真が出てきた。同僚であった扇の結婚式の際の写真だ。辞退しようとする藤堂もひきとめられて写真に収まった。従事してきた職業柄、写真などは証拠として見てしまう所為か撮ることも撮られることも避けてきた。
放り出しておくわけにもいかずアルバムのありかを探す。写真を飾る習慣は藤堂にはなかった。乱雑に写真を溜めこんでいる抽斗を見つけて苦笑した。この不精は昨日今日のものではないな、と苦笑しながらその中の一枚を手に取った。朝比奈が藤堂に抱きついていた。予期していなかったのか、朝比奈の方はポーズなどつけているが藤堂はレンズの方に気付いたばかりだというのがありありと判る。
「藤堂さんとのツーショットとらせてよ。冥土まで持って行くんだから。まぁオレは死んだりしないけど。いつも四人一緒じゃつまらないよ、オレは藤堂さんと二人がいいの!」
若々しく響いた声に藤堂がはじかれたように顔をあげた。黄昏時の夕日が血のように紅い。畳の上にまで這い上ってくるそれに気付かなかった。藤堂は写真をしまうと抽斗を閉めた。首筋のあたりを撫でる。朝比奈の体温はいつもそのあたりにわだかまっていた。残り香もないのに浅ましく求める。藤堂は洗面所に駆けこむと顔を洗った。ぽとぽと滴る透明な雫と勢いのある水流がまじりあう。
「…浅ましい」
藤堂は殺がれた食欲のまま夕飯を拵えた。何品か揃えるが箸が進まない。何度もくだらない用事を見つけては中座した。障子を開けておくならと虫除けを焚き、茶を淹れる用意をしたり、手を入れていない庭を見て濡れ縁に立ったりと落ち着かない。藤堂は長く息をついて台所へ戻った。
「止めようと、思うのだがな…」
藤堂は己と同じ献立を載せた盆を仏壇の前まで運んだ。藤堂は元々物を多く持たない方で何かを置いたりする際、場所がなくて困ったことはあまりない。仏壇の前に膳を供えて鈴を鳴らす。ひっそりたたずむ位牌の黒檀が濡れて艶めく。手を合わせて祈りながら藤堂はこれが最後だと、何度目かも判らない誓いを立てた。
事態がひと段落したころ、藤堂は檀家の寺に無理を通して位牌を作ってもらった。戦闘機の破片すら残らぬ最期を迎えた朝比奈の遺品などない。朝比奈は相手に与える重みをはかれる性質で実家の場所を明かしたりはしていなかった。だから藤堂は細々した荷物を申請された住所へ送ったのだがそれが戻ってきてしまった。その荷物は藤堂の家の奥の間に積んである。遺品となった私物を預かる流れで藤堂は位牌を拵えてもらって、その日から陰膳を供えた。意味の取り違えはわざと無視した。藤堂が朝比奈の私物を引き取る際に、千葉からはあなたの所為ではないからと念を押された。膳を供えた藤堂はそっと食事の席へ戻った。
惣菜を咀嚼しては嚥下するという作業を繰り返す。美味いか不味いかもよく判らない。藤堂の味付けは薄いのだと朝比奈が言っていた。味が薄いのだと文句を言うわりに朝比奈が食事を残したり除けたりすることもなく、箸が滞るわけでもなかった。藤堂の箸が大根の煮付けをつまんだ。昨日から煮込んだ大根は飴色になり柔らかい。次に箸をつけるべき惣菜が定まらず、藤堂は箸先を口に含んだまま難渋した。ごくん、と大根を呑みこんだにもかかわらず箸は動かない。
「藤堂さんて時々すごくかわいいですよね。ちょっとした無作法くらいなら赦せちゃう」
藤堂は考え事などが煮詰まってくると動作がおろそかになる。藤堂にそれを指摘したのは朝比奈だ。藤堂はようやく箸先を口元から外したがそのまま肩を落とした。目の前で明るく笑いながら大袈裟に惣菜を賛美する朝比奈の幻影が薄れていく。
「…慣れたと、思ったのに」
ジワリと目の奥がしびれた。うつむけた顔の口元が震える。そろえて座った膝の上にパタパタと雫が落ちた。
「…――…ッ」
箸を投げ出すように置いて口元を手でおおうと一気に制御が利かなくなった。目の前が目に見えてにじんで揺れた。頬や頤を温い雫が伝う。肩を震わせ唇を噛みしめた。一度でも声が漏れたら外聞など気にせず泣きわめく。不意に惑わす朝比奈の幻影は一人に慣れた藤堂の気をくじいた。それなりに一人立ちをした藤堂は他者に頼らず生きてきた。忠誠を誓うことと頼ることは違う。藤堂は何度か忠誠の主を変えたが、その彼らに生きるための縁を見出したことはない。生き抜くために必要なのは己の力であると了解しているつもりだ。それでも朗らかで人懐っこく藤堂を好いてくれた朝比奈の存在は、地面に染みいって霜となる水分のように藤堂の内部を犯した。失くして初めてその引き裂かれる痛みに気付いた。
「しょう、ご」
藤堂の唇が亡くした名前を呼ぶ。朝比奈を失った戦闘からは数えるのも億劫なほどの時間が経った。生存しているという選択肢は早々に藤堂の中から消えた。表示画面に現れた朝比奈の戦闘機のロスト表示を、藤堂は今も昨日のように思い出せる。藤堂は黙して耐えた。己に出来る贖罪はそれしかないのだと藤堂は思った。朝比奈の喪失は幸福の喪失と同義だった。
「あぁー藤堂さん、なんで泣いているんですか?!」
明朗に響いた声に藤堂の肩が跳ねる。顔をあげた藤堂の目の前で、暗緑色は慌ただしく靴を脱いでいた。そのまま勝手知ったると言わんばかりに濡れ縁から座敷へ上がる。穏やかそうな眼鏡にはひびが入っている。まだまだ軍属経験者としては華奢な体躯も変わりない。
「藤堂さん、何が悲しいの。オレ、助けになれるかな?」
にじり寄る朝比奈に藤堂は嫌々をするように頭を振った。朝比奈が手を伸ばす。指先が触れる直前で藤堂はそれを叩き落とした。
「藤堂さん」
「も、うやめ…! 私の罪は重い。判って、いる。判っている! だから、頼むからこんな」
藤堂の灰蒼は潤みきって震えた。差しこむ月光は灰蒼を仄白く煌めかせた。
「亡くしたものの幻など要らない。亡くした痛みに耐える、だから。もう」
惑わせないで、欲しい
お前を失くした罪を背負っていくから、放りだしたりはしないから。だから。だからだからだから。
「鏡志朗」
頭を抱えこむようにして震える藤堂を朝比奈が抱いた。
「大丈夫ですって。オレはここにいるから。いなくなったりしないよ、もう絶対に。あなたのそばにいるよ、いさせてよ」
低めではあるがしっかりとした温もりがある。藤堂の鳶色の髪へ口元を寄せて食む。藤堂の耳朶で朝比奈は甘い囁きを繰り返した。好きだ、愛している、もうどこにもいかない、だから。
だからおれをみとめて、とうどうさん
「省悟…な、のか」
「オレは朝比奈省悟です。藤堂鏡志朗が大好きで大好きで死ねるくらい大好きです」
「死ぬなどと、言うな」
涙に濡れたままきつく睨みつける灰蒼に朝比奈が笑んだ。
「でも本当ですよ。本当にオレ、死んだと思った。あぁ藤堂さんの顔見たかったなぁもう一度最後に通信しておけばよかったなぁって思いましたもん」
パイロットスーツ姿の藤堂さんはエロいですからね、と朝比奈がカタカタ笑った。朝比奈の眼差しが不意に藤堂を射抜いた。突き刺すようなそれは非難が込められているかのように強い。皮膚を突き刺すような眼差しを朝比奈はよくした。胸の裡へ入り込むのがうまいのだと、藤堂は認識している。
「もう死ぬんだって思った。だから、生きて藤堂さんにもう一度会いたかった。藤堂さんと一緒に暮らそう、絶対そばから離れるのはよそう、そのためなら何があったっていいんだって思った。死なずに済むなら、もう一度藤堂さんと会えるなら…ッて、本気で、思った。おかしい話だけど、藤堂さんのもとへ生きて帰れるなら死んでもいいと思ったよ」
「…矛盾しているが」
「だから、それがオレの本心だったんです。死んでもいいって思えるくらい藤堂さんと一緒にいたかったんです。もう外聞なんてなかった。意識があったら泣きわめいてただろうし叫んでたかもしれない。引き裂かれるような痛みって、こういうことを言うんだって思った」
朝比奈の腕に力がこもる。藤堂が幻影となって消えてしまうのだと言いたげにしがみついてくる。
「オレが必要だから言うんです。藤堂さんは生きていてくださいね。オレ、絶対に何があっても戻ってくるから」
藤堂はそっと朝比奈の腕に顔をうずめた。ゆったりした麻布の袖が濡れていく。藤堂の指先がきつく爪を立てる。
「え、なんでまだ泣いてるの。笑ってくださいよ、笑うとこですよ」
「馬鹿者」
しぱしぱと大きな目を瞬かせる朝比奈に藤堂はこらえきれずに笑いだした。
藤堂は喉を震わせながら朝比奈の細い背に爪を立てた。しっかりとした存在に安堵する。力が抜けてゆく。
「とうど」
「下の名前で呼べばいい。…呼んで、欲しいんだ。お前に」
朝比奈がにぃーっといたずらっぽく笑う。猫のように喉を鳴らして頬をこすりつけてくる。
「じゃあとうど…否、鏡志朗さんもオレのこと省悟って呼んで。ハートマーク付いたら嬉しいなぁー」
「馬鹿者。気持ち悪いだろう」
「呼んで」
「嫌だ」
ぶぅーと朝比奈が膨れた。年齢に不相応だが見た目とはつりあっている。朝比奈は童顔だ。
「ごめんね」
藤堂の動きが止まる。朝比奈は静かに言葉を紡いだ。騒ぐでも沈むでもなく平坦で冷静な音が紡がれていく。
「さみしかった? 辛かった? そんな思いさせてごめんなさい。仏壇で長く祈ってましたよね。見てたんだ。声がかけ辛くって庭から見てた。藤堂さんに辛い思いさせていたらごめんなさい」
「…いい」
藤堂はポスンと顔を伏せた。
「お前は戻ってきてくれたから、いい」
「じゃあオレもご飯もらおうかなー。仏壇に供えてあるのオレのでしょう? 他の人のだって言ったら泣く。もらってもいいんでしょう?」
殊更に明るく言って朝比奈はひらりと仏前へ舞い降りた。膳を抱えた際に気付いた。一品多い。藤堂の食膳に並んでいるものより惣菜がひと品多いのだ。朝比奈が美味いのだと絶賛した厚焼き卵が並んでいる。朝比奈の顔が泣き笑いに歪む。
「なんだよもう。ばか。藤堂さんの方が馬鹿じゃない」
プルプルと振り払った朝比奈は朗らかに笑んだ。涙を拭った藤堂はちょこんと膝を揃えて待っていた。
「一緒に食べましょ? 藤堂さんとこうしてご飯が食べられるなんて嬉しいな」
笑って箸をとる朝比奈に藤堂はゆったりと微笑した。涙の名残のある灰蒼は潤んで煌めく。紅く腫れた目元は紅をさしたように艶めかしい。藤堂は箸を揃え直すと一礼した。
「いただきます」
「はーい、オレもいただきまーす」
藤堂の一礼につられたように朝比奈も一礼した。そのまま箸で器用に厚焼き卵を刺した。藤堂は朝比奈の不調法に気付いているが何も言わない。
「はい、あーん」
ずいと口元へ突きつけられる惣菜に藤堂は困りきった顔をした。卵の甘い香りがする。
「食べて」
藤堂は躊躇していたが、覚悟を決めたようにはくんと口に含んだ。箸の先まで舐めるようにして唇を離す。紅く燃える舌先が淫靡だ。その箸先のままで朝比奈は食事をした。藤堂は箸を咥えたままうろたえたようにその動きを目で追っている。朝比奈はにぃっと歯をむき出して笑って見せた。朝比奈の舌先が箸先をいやらしく舐る。藤堂は真っ赤になって顔を伏せた。
《了》