手を引かれてゆく
その、先は
22:どこかなんてどこにもないのに、私はどこかへ運ばれてゆくの
必要な用事も済んで手持無沙汰に持て余す時間帯であったために藤堂は朝比奈の来訪を歓迎した。朝比奈はその若い頬を紅潮させて、藤堂がすすめる椅子にも座らない。落ちつかなげに彷徨う視線はこれから起こる事態の厄介さをうかがわせた。朝比奈は明瞭な性質で自分の状態を隠さずにぶちまけてくる。出来る出来ぬ、するしないを明言する。その回答は、若さのためか明瞭の度が過ぎるように感じられるがその裏で熟慮の結果であることを藤堂は知っている。
「朝比奈?」
男二人が棒立ちのまま過ごすのも気まずい気がして藤堂は寝台に腰を下ろした。朝比奈の大きな瞳が潤んだように藤堂を見つめる。身長の関係上朝比奈から見下ろされる機会はあまりなく、大きな目がきょろりと動くのが新鮮だ。道化たような丸いフレームの眼鏡がきらっと透明に反射した。
「好きです」
藤堂は同調しようとしてすんでのところで言葉を呑んだ。好き、に含まれる意味や状況は多岐にわたり、場合によっては相手に痛手を与えうることを思い出した。藤堂は言葉の嚥下を感じさせない表情のまま続きを待った。今の朝比奈の言葉は主語が省かれている。状況的に予想は出来るがこの場合は確認が必要であると藤堂は判断した。
「オレ、藤堂さんが好きです。愛しているの好きです。肉欲も伴います。藤堂さんを、抱きたい」
藤堂の表情は揺るがない。朝比奈はふゥッと息をつくと目蓋を閉じた。数瞬後に開く暗緑色の煌めきはいつも通りで口元が利発そうに笑う。
「あァ、もうこんな時間なんですね。あんまり藤堂さんと一緒にいると千葉さんが怒るんだよね、まったく」
朝比奈はごく自然な動作で時刻を確かめると軽く笑った。くるっと踵を返して部屋を出る、その刹那に朝比奈は小石を投げた。
「あなたのこと、抱きたいって言うの、本気ですから」
藤堂は箸を持ったまま呆けた。視線の先では珍しく藤堂から離れた朝比奈が団員と談笑している。非合法団体とはいえ人員の性質まで特殊である訳もない。朝比奈は周りと衝突も繰り返すが馴染みも早い。衝突は誤解の産物であるときもあり解決はそれを乗り越えたことを示した。逆に藤堂は己が馴染みにくい性質であることを認識している。滅多な亀裂こそ生じないがそれは意見をすり合わせないことの裏返しでもある。諍いが起きれば藤堂は面倒を嫌ってこらえる。ぶつかった方がいいこともあるのを知っているのだが堪えることに慣れた感覚は迷うことなく我慢してしまう。そういう意味で見れば朝比奈の性質はひどくうらやましいような気がした。あれだけ明確に好き嫌いを現しておいて拒否されないというのは一つの才覚でもあるだろう。己に致命的に欠けている。進まない箸をそっと置いて朝比奈の様子を見るともなく見た。例の告白から少し日にちが過ぎて藤堂の内部でも当初の混乱は収まりを見せつつある。それでも投げられた言葉は確実に藤堂の内部に落ちこんで波紋を呼んだ。
朝比奈の見た目は悪くない。少々童顔で年若く見られるきらいがあるが、その緩みを眉の上から走る傷痕が引き締める。一見すると黒髪に見える髪や瞳は暗緑色。緑の黒髪の美称をそのまま実現している。背丈は藤堂の方がある。筋肉のつき方などを考え合わせると目方も藤堂の方があるだろう。それが、なぜ。
「…抱きたい、か」
藤堂が朝比奈を抱く方がまだ世間的に一般の範囲内に入るのではないだろうかと思う。背丈も目方もあるし、藤堂の方が年長でもある。朝比奈は育ちの良さを思わせるように髪形も整えられ、かけられた眼鏡の印象として少し脆弱であるかのように思われる。体つきが華奢なのだ。まだ完成していない中途であるかのように見える。その朝比奈が年も長けて体格もそれなりの藤堂を組み伏せたいと言うのだから判らない。
藤堂はそっと自身の体をかえりみる。軍属の名に恥じない、武術経験者としての体格。己が弱い立場に見えたことなど終ぞない。色気や魅力があると思ったこともない。戦うことしか知らぬ無粋者だ。嘆息する流れのまま、ずるずると藤堂は行儀悪く頬杖をついた。先行きの不透明さと難解さに、藤堂は自身のふがいなさを思いつつ回答を放棄したくなった。
歓談の切れ目に朝比奈は視界の端に藤堂をとらえる。先刻から盆の前に座っているだけで食事が進んでいない。藤堂が何を考えているかは判る。あれで意外と単純なのだ。朝比奈の告白への対応を苦慮しているに違いなかった。それまで空気のように何とも思っていなかった相手を、告白された途端に意識することはままある。人間の感情や感覚などそんなものである。朝比奈は眼鏡の奥の目をわずかに眇めた。
藤堂のあの体を抱きたいという衝動はかなり前からあった。今まで愚にもつかない理由で目を背けていただけだ。男女関係が生殖のルールにのっとった真っ当な関係であると言うならば、同性同士という利害のない関係こそその真摯さを増すのではないか。そういう考えに至って朝比奈は藤堂に思いを告げた。呑みこんで見ないふりをして生きてゆけばそれは楽だろう。だが朝比奈は藤堂の裸体を夢に見る段になってそういったことを諦めた。藤堂となまじっか知己であったことも事態を進ませた要因だと思う。付き合いの上で普段は秘されている肌を見る機会もあったし、藤堂自身は気心の知れた仲なら平気で殻を脱ぐ。そしてそれが無意識下で行われているのだから少々性質が悪い。藤堂のくすみのない皮膚やしなやかにしなう背を思って悶々とする夜の続いた仕返しでもある。逆恨みとも言うがあえて無視した。自覚がないなら気付かせてやらねばならぬ、と妙な使命感にも燃えた。
ついには箸を置いて頬杖をついている。藤堂の思い悩むそれに優越を感じながら緩みそうになる口元を引き締める。あの上等で性能の良い頭の中は朝比奈という人間についてのことで一杯なのだ。他の何者も入り込む余地がないほどに埋め尽くし侵食する手ごたえに朝比奈の口元は知らずに笑んだ。
「何笑ってんだよ、気持ち悪い」
うげー、と体を引くような仕草をする団員に朝比奈はふんと髪をかきあげて傲然と笑った。
「ちょっとした見っけもん。いいもの見つけちゃったなーって」
「なにそれ」
「ひみつー」
お前らには判らないよーと軽薄に笑うのを小突きあう。上っ面を滑る冗談に笑いながら朝比奈は藤堂への侵略にほくそ笑んだ。
「オレで一杯になってゆくんだよ」
「藤堂、サン」
妙なリズムをつけて呼ばれた名前に藤堂はらしくないほど肩を跳ね上げた。躊躇しながら振り向く口元が震えている。通路ににっこりと満面の、育ちの良さそうな笑顔を浮かべた朝比奈が後ろ手に腕を組んで立っていた。わざと体を傾けて上目遣いをしてくる。
「答え、出ました? あれから結構経つし、藤堂さんは頭いいからもう判ってるでしょ? 教えてよ」
藤堂は体こそ向けたが返答をしかねた。一応返答としての体裁が整うくらいの整理はついている。藤堂は眉を寄せて苦しげに唇を引き結ぶ。
「…お前のことは、嫌いではない」
「満点はあげられないなァ。オレは肉欲を伴うって言ったでしょ? そういう合否も含めた返事をしてよ」
藤堂は反芻するように灰蒼の目を泳がせた。喉仏がごくりと動く。
「お前をどうこうしようとは思わない。…だが、抱かれること、に…異議は……な、い」
言葉を紡ぐ藤堂の頬が赤らんでいく。実直に生きてきた藤堂は寝床の話を真顔で出来るほどすれていない。
「…ふゥん、まァ、及第点かな。ねェ藤堂さん」
吐息が触れそうな近い位置で朝比奈が笑んだ。曇りのないレンズである朝比奈の眼鏡に藤堂の虚像が映り込む。手入れを怠らない執拗性を持ち合わせていることに藤堂は初めて思い至った。
「抱いてあげる」
「――ッん!」
呆気にとられて反応の遅れた藤堂の唇が奪われる。がっちり固定された頤で好き放題に口腔内を吸われる。額をあらわにした鳶色の髪を朝比奈の指先が梳く。細いようでいてその意外なほどの強靭さを垣間見せる。指先は流れるように髪を梳き、耳の穴をくすぐるように触れてうなじをたどる。
「ここ最近ずっと、藤堂さんオレのこと考えていたでしょう。まるであなたとつながったみたいだった。オレが藤堂さんの中にいて藤堂さんの思考を犯してるんだってずっと思ってた。…まるで、交渉しているみたいだった」
びくん、と藤堂が体を震わせた。
「すごく、キモチヨカッた」
朝比奈の吐息が藤堂の耳朶を打ち、濡れた舌先が穿つように孔を舐る。濡れた音は思った以上の深部で響いて藤堂をたじろがせた。
「あさ、ひ、な」
藤堂の膝ががくんと抜けた。その場でだらしなく座り込んでしまうのを、朝比奈は体をかがめて膝をつき視線を合わせた。
「感じた? ふふ、藤堂さんは敏感だから。でも…もっと、イイコトしましょうね」
藤堂は自身の失態に顔を赤らめてそっぽを向いた。年齢も経験も重ねているはずなのに手玉に取られている。支配権は朝比奈の側が有し、藤堂は振り回されるだけだ。
「オレに連れて行かれるのと自分でついて行くのとどちらがいいですか。選んでください」
「あさひな? 何を考え、て。私をどうする」
朝比奈の目が息づく。奇妙な静けさを湛える瞳は冷たい。
「オレに抱かれて、藤堂さん」
朝比奈の言葉が妙に他人事だ。どこか現実味を帯びないそれは遊戯にも似た。
「おいで」
差し伸べるように宙空に差し出される手を藤堂は取った。朝比奈の口の端が吊りあがる。震えるように潤んだ藤堂の双眸が朝比奈を見つめた。
「藤堂さん、オレの下の名前呼んで?」
「…しょうご」
朝比奈の微笑は酷薄で藤堂の背筋を冷や汗が伝う。足元から走りぬける電流のような感覚が藤堂を枯渇させる。渇いた喉は張り付いて言葉を紡げない。恐ろしい。けれどどこが魅惑的で。藤堂はゆっくり立ち上がると歩を進めた。禁忌が人々を魅了するそれに似た。
「あなたはオレの、手を取った」
朝比奈の表情から窺えるのは愉悦。愉しくて愉しくて仕方がないのだと子どものように笑う。
「オレといきましょうね。どこへでも、どこまででも。絶対に離さないよ」
朝比奈の唇が紅い。
「オレとせかいをみましょうね」
藤堂は足元が堕ちていくような気がした。
《了》