心の求めるままに
20:何故あなたでなければならなかったの?
あてがわれた部屋を訪う。ノックをするも返事がなく、藤堂は恐る恐る扉を開けた。
「卜部、いないのか」
部屋は明かりが落ちて人がいた気配もない。寝台や椅子を触ってみるがどれも冷たく主が長く部屋を空けているのだということを示した。物の置き方や寝台を見れば人となりがそれなりに窺えるものだが、卜部はそういう隙は見せない。蔵書も私物も少なく彼が身軽であるのを心がけているのだということが薄くわかる程度だ。卜部はあれで猫のような性質をしている。臆病なほどに慎重であるかと思えば年若い朝比奈などよりよほど派手なことをしでかす。藤堂は嘆息して卜部の部屋を見回した。机も寝台も片付いていて何のヒントもない。諦めた藤堂が部屋を後にするとごぅんごぅんと思いのほか大きな排気音が響いた。生活環境維持のための機械室に立ち寄る人間は少なく、そこは密やかな逢瀬の間になっていた。藤堂も不本意ながら何度か連れ込まれそうになったことがある。扉が薄く開いている。不完全な密室から排気音が漏れているのだ。
藤堂はそこへ近づくと扉を開く。天井と言わず床と言わず走りうねるチューブと所狭しと並ぶ機械とが視界を圧迫する。重圧のあるそこから踵を返そうとした藤堂が足をとめた。途絶えそうに瞬く明かりが人影を映す。
「卜部か?」
騒音に負けない音量を響かせながら扉を閉める。相手は気づいたらしく顔を覗かせた。卜部が目を瞬かせる。
「中佐? どうしたンすか」
その細い指先が安煙草を挟んでいた。音もなく灰が落ちる。気付いた卜部がパタパタ払う。立ち去るべきか悩んで動けない藤堂に卜部が手招いた。近づくとぽいぽいと煙草の箱と缶を放られる。小判状の缶の蓋を開ければ薄荷の香りがして雪白の粒が収まっていた。
「甘くないから結構いけますよ」
慣れた仕草で煙草を吸いながら卜部がふぅと煙を吐く。その手つきは慣れていて常習性を思わせた。
「お前が喫煙者だとは知らなかった」
「中毒ってほど好きじゃあないっすからね。時たま欲しくなる程度なんで」
藤堂は手のひらで蓋を閉めた缶を転がしていたが箱から煙草を一本抜いた。咥えたところで卜部がライターを投げ渡す。使い捨てのライターに火をつけ煙草の先端を近づける。そのまましばらく固まる。なかなか火がつかない。それを見ていた卜部が目線を前に投げると言った。
「中佐、煙草は吸いながらじゃねェと火ィつかねぇっすよ」
ぼっと藤堂のほうが火がともるように赤面した。言われるままに息を吸いながら火を近づければ難なくともる。卜部がクックッと肩を震わせて笑う。藤堂は咥えたままゆっくりと煙草をくゆらせた。
二人分の紫煙が天井で淀む。動き出した排気機能が煙を吸い取っていく。
「…なんでこんな場所で吸っているんだ」
「終日禁煙だって怒られたンすよ。反政府勢力が禁煙なんて洒落にならねェと思いますがね」
まァ女も多いっすからねェ、と卜部がつぶやく。それでも特に不自由は感じていないらしく恨みがましくもない。しばらく二人並んで煙草を吸う。卜部が短くなった煙草を取り出した携帯用灰皿でつぶした。そのままパチンと蓋を閉める。藤堂は卜部の指先の動きを追った。こじんまりしたその動作は背丈のあるわりに目立たぬ卜部の所作としては妥当だ。殊更に目は惹かず、見咎めるほど野暮でもない。卜部の縹色の髪は落ちた明かりの元、紺青へ微妙に色を変える。普段は留めている襟を緩めていて喉仏が見えた。卜部は長身だが痩躯であり手首などは案外細い。華奢ではないのだがどこか心もとない。薄い皮膚のすぐそこに骨があり歪みすらたどれる。藤堂はふぅっと息をつくと煙を吐いた。詮無いことだと判っている。卜部はけして追わない。ただ相手が近づくのを待っているだけだ。手招きすらしないその淡白さはいっそ潔い。
ぼんやりとして口を利かない藤堂を卜部の茶水晶が窺う。藤堂は頓着しないわりに人を惹きつける所作や身なりをしている。鳶色の髪はうまく流れてうなじもあらわだ。その首は普段から襟にかっちりと覆われている。剣を握った戦闘経験もある藤堂の指先は細いようでいて強靭だ。衣服の奥の体には歴戦の証が刻まれている。かといって見苦しいような暑苦しさとは無縁でどこまでも静謐に美しい。今は煙草を咥えている所為で半開きの唇がほのかに紅く色づいて蠱惑的だ。その奥の舌先を吸ってみたくなる。色香の伴う仕草をする癖に当人はそういったことには無頓着だ。無意識だからこそ嫌味でも何でもなく魅せられる。灰蒼の瞳が潤んで瞬く。周りを鋭く睥睨するかと思えばこんな無防備に潤ませているのだから性質が悪い。藤堂の色香は面倒事の部類になるに違いなかったが、卜部はそれを切り捨てられずにいた。
「私は朝比奈と付き合えば丸く収まるのだろうか」
呟かれた内容の返答如何では後の状況を左右しかねず、卜部は結果として黙殺した。そうしろともするなとも言えない。自分が慕う人間が同じように自分を慕ってくれると信じられるほど卜部は幼くない。見返りなどほぼないのが現実であると知っている。卜部がこの想いをこらえて藤堂がもとより付き合いを求める朝比奈と付き合えば何事もない日常は訪れるだろう。問題は卜部はそんなに我慢強くないし無視できるほど想いは小さくない。こらえきれるなら元より想わぬ。認識した時点で霧散させようとしているはずだ。それにしくじっているからこそ今このような劣情を抱える羽目になっている。
「…なんで俺に訊くンすか」
卜部は煙草を取り出そうとして箱がないことに気付いた。藤堂の手の中に飴を詰めた缶と一緒にちんまり収まっている。奪い返すのも気が引けて卜部は壁に背を預けた。藤堂の鳶色の髪が黒褐色に見えた。藤堂がふぅと首を傾げて淡く笑んだ。儚いようなそれに卜部が凍りつく。くゆる煙が藤堂の蠱惑的な笑みをかすませる。
「お前の返事がほしいのかも、しれない」
藤堂は不慣れな動きで煙草を唇から離すとふふっと笑った。名残の紫煙が吐き出されていく。
「お前とともにいるとひどく、休まる…居心地がいい。落ち着く」
「共犯だからじゃねぇっすか」
卜部の指先が藤堂の手からひょいと箱を抜き取る。卜部は煙草を抜き出したが咥えただけで火はつけなかった。
「お前はいつも、そうだな」
指先でツンツンと揺らして灰が落ちるのを藤堂は無為に見つめた。
「お前はいつでも逃げ道を用意してくれている。私のためか? それともあてつけなのか。判別しかねる。優しさなのか酷さなのかも判らないのにそれはひどく私を魅了する」
藤堂は紅く燃える舌先で唇をなめた。娼婦の慣れた色香のようなそれに卜部が固唾を呑んだ。
「お前に、なら」
藤堂の灰蒼の目が伏せられた。睫毛が震えている。
「お前になら心の臓を貫かれても笑っていられるかもしれない」
自棄のような、それでいて計算高いそれは卜部を雁字搦めにしていく。卜部は自身を絡めとる糸に気付きながら払うことはしなかった。四肢の自由を奪い追いつめて臓腑を食らうのが藤堂なら赦せると思った。
「お前はきっと私などには勿体ないのだ、私などにそんな価値はない」
藤堂の指先がはらはらと落ちた灰を拭うように動く。燃える火芯だけがジジッと音を立てた。その吸いさしを、咥えた煙草を吐き捨てた卜部は躊躇せず唇にはさみ煙を含んだ。そのまま藤堂の唇を奪い、藤堂の口腔に煙を流し込む。喉を灼くそれに藤堂が卜部を押しのけて咳き込む。激しい逆流の咳に喘ぎながら藤堂は涙目で卜部を睨んだ。潤んだ灰蒼は鉱石のように煌めいた。卜部の指先が煙草を抜き取って携帯灰皿につぶして収めた。そのままそれを放り出して藤堂の襟を緩める。藤堂が躊躇するように卜部の肩をつかむ。
「うら、べ」
「難しい理屈なんざねぇっす。ただ俺がほしいと思うのはあんただけだ」
重ねた唇の奥で舌が絡む。びりっと走る苦みに藤堂はンッとうめいて顔をしかめた。卜部が揶揄するように唇を甘く噛んで離れていく。
「…煙草は好かん。苦い」
「次から注意しますよ」
滑り込んだ卜部の指先が藤堂の体を震わせた。はだけさせた首筋へ卜部はためらいなく歯を立て吸いついた。身じろいだ藤堂の体が傾いだ。そのままずるずると床の上へ押し倒される。
「うらべ、おまえは、わたしを――」
「言わないで下さいよ、情けねェから。俺にだって守りてぇ体面くらいあるんです。くっだらねェプライドとかいうやつが」
「お前は私を独占しようとはしないのだな」
「あんたの心殺して体手に入れたって面白かァねェですよ。あんたがあんたでなくなったら手に入れる意味ねェでしょう」
「お前はとても…優しいのだ、な…」
藤堂の指先が卜部の襟を緩めた。あらわになる尖った喉仏をたどるように指先を這わせる。脈打つ首筋へ指先を当てて鼓動を知る。
「あァ、お前を」
卜部は黙った。藤堂は泣き出す直前のように目を潤ませて微笑した。唇が弓なりに弧を描き、端をつり上げる。
「お前を素直に好きになっていたなら、この体が血に濡れていなかったら」
「俺は罪にのたうつあんたも好きですよ。それにこの戦闘状態だ、人殺しじゃねぇやつなんざいねェですよ」
藤堂の隠しナイフが卜部の首筋に当てられた。ひやりと冷えるそれが十分に研がれていて切れ味を保持しているのはよく判った。
「お前を殺して私も死ぬか。そんなに甘くはないか。私はお前に殺されてしまい、たい――」
ぐんと喉元へ向けた刃を卜部の指先は躊躇せずにつかんだ。ヂッとちぎれる音がして鮮血が切っ先から伝う。刃を握りしめた卜部の指や手のひらが切れていた。
「何度言ったら判るんだ、俺はあんたに死んでほしくねェンだよ! 罪にのたうっても穢れた血を浴びても死ぬより辛いことがあっても、俺はあんたに生きて欲しい」
紅い体液を滴らせながら卜部がナイフを振り棄てた。紅にまみれた指先が藤堂の首筋をたどる。
「あんたじゃなきゃあ駄目なんだ。俺が命捨てたっていいと思うなァあんただけなんだ」
「…お前が私に生きろというなら私はきっと、生きる。生きることができると、思う」
「これは俺の一方的な想いだ。あんたにとっちゃあ迷惑かもしれねェしいらねぇことだと思う。でも俺の根底を動かすなァあんたじゃなきゃあ駄目なんだ」
藤堂は灰蒼の瞳を潤ませた。藤堂の唇は蠱惑的に笑った。
「損な性分だ」
煙草の香が残る卜部の唇に藤堂は吸いついた。卜部もそれに応える。互いにまわした腕がきつく抱擁した。
誰のものにもならないで
ただ私だけを見ていて
《了》