だってそんなの、なしだよ!
16:言い訳の果てに露見する真実だなんてまっぴら!
ぽとぽとと重い雫を滴らせながら藤堂は前もって用意してあったタオルをとった。手早く慣れた手続きのように体を拭う。脱衣場に設えられた鏡が湯気に煙る。鏡にはただ武骨なだけの男が映る。藤堂の指先がたどるように鏡像の鼻筋から瞳へ移ろわせる。不意にその首筋に散る鬱血点に気づく。支給されている団服は襟が高く、藤堂も襟をきちんととめる性質だ。いざとなったらしらばっくれるしかないか、とひとりごちる。藤堂は嘆息して藍地の単衣をまとう。武道に身を置いていた時期もある藤堂にとって和服との付き合いは長くある程度のなじみもある。よどみのない手慣れた手つきで帯をしめ、片付けを済ませてから浴室を出た。扉を開けば膨張した空気が拡散する。寝台の上で微睡んでいたらしい朝比奈がぱっちりとその目を開けた。毛布にくるまっていて定かではないが肩や腹が素肌をさらしている。手で探って見つけ出した丸眼鏡をかけるといつもどおりの朝比奈の顔になる。気障にそろえた前髪を揺らして朝比奈が口笛を吹いた。
「お風呂入ってたんですね。腰、大丈夫でした?」
へらりと笑って言ってのけた内容は藤堂が目をつぶるにはあからさま過ぎた。
藤堂はずかずかと寝台まで近づくとびしっと床を指し示す。
「そこに座りなさい」
「はい」
美人はいついかなる時も美しい。その体が怒りをまとっていてもそれは変わらないようで朝比奈は見とれながらもなんとか指示に従った。全裸であることに思い至って毛布を失敬して腰に巻く。藤堂もあえてそれを咎めない。雰囲気に押されて正座する朝比奈の真正面に藤堂も正座した。
「朝比奈、そう言うことは」
藤堂は普段は無口なくせにこう言う説教を垂れる時ばかりは能弁だ。上位からの物言いだが指導者であった時期もある藤堂は妙に様になっていて不平を言う方が間違っているような気になる。藤堂の説教を右から左へ流しながら朝比奈は藤堂の首筋を凝視していた。あぁまずいな、残ってる、と朝比奈は少し反省した。交渉の結果として止める藤堂を押し切ったのは朝比奈だ。だからこそ気遣いや思いやりも必要で、ただ欲を発散させるだけならば藤堂である必要はないのだ。そのあたりの無理を承知してくれた藤堂の、言い訳に困るから跡は残すなという願いは至極当然で、それを守れなかった自身の弱さに朝比奈は肩を落とした。
その間にも藤堂の滑らかに動く唇は朝比奈に注意を喚起させようと躍起になって動いた。肩を落とす朝比奈との微妙なすれ違いは藤堂の知るところではない。藤堂の灰蒼の瞳がじぃっと朝比奈を覗きこんだ。
「朝比奈?」
「はいッ?!」
微睡んでいる最中に指名された生徒のごとく朝比奈が飛び上がる。朝比奈の反応の大きさに藤堂もびくっと跳ねた。ずれた眼鏡の位置を直しながら朝比奈は何でもないふうに問うた。
「な、なんでしょう」
「…だから、お前はどう思っているのかと訊いている」
何を、とはもちろん訊けぬ。話を聞いていなかったと明言するも同然だ。藤堂を見た目どおりの堅物だと即断すると痛い目にあう。平気な顔して罠を張ったりしているのだから始末に負えない。真面目な顔をして話している内容は下らぬことだったりする。
「えぇっと、藤堂さんには藍が似合いますね。色っぽいです」
とんちんかんであることは百も承知で朝比奈はぬけぬけと言い放った。ここまで話を聞き流してしまった以上一か八かで話題の転換を図る。無理があるなら藤堂が指摘するだろう。
濃紺や藍の地は藤堂に良く似合ったし本人も好んだ。藤堂の瞳は灰蒼でありその淡い蒼と目の覚めるような寒色は共鳴しあう。加えて帯を締める和服は体つきが一目で判る。引き締まった体躯をふわりと包むそれは片鱗を覗かせて想像をかきたてる。
「腰とかたまんないです。ぎゅってしたいです。想像が膨らんでしょうがないです。オレの腰にキます」
しばらく呆気にとられていた藤堂がぼっと火をともすように赤面した。朝比奈の方が明確なその反応に目を瞬かせた。藤堂の唇がパクパクと虚ろを開けるが音が漏れてこない。膝の上でぎゅうと拳が握りしめられる。首筋まで真っ赤になって藤堂は恥じるように目を伏せた。濡れ髪の雫がパタパタと落ちる。
「お、お前はいつもそんなことを考えているのか?」
「へぁ?」
藤堂の耳裏から首を伝う雫に視線が釘付けだった朝比奈が奇声を発した。
「私は! お前から見た私は如何だと訊いたのだ! そ、そんなふうに見られていたとは思い及ばなかった」
今度は朝比奈の方が泡を食った。話が何ともまずい方向へ向いている。藤堂はこれで意固地な面があるから思いこみもそれなりだ。藤堂の中で決定した物事を覆すのはえらい手間と労力を要する。
「え、そ、な、なんでそんな話になってるんですかッ?! 藤堂さん、オレのこと怒ってたんじゃないの?」
藤堂は何も言わない。フイと背けられた頬の紅さが朝比奈の失態を責める。朝比奈はすがりつかんばかりに体を乗り出した。
「ご、誤解です! 何がどう誤解なのかちょっと判らないけど、でも、でも! オレは藤堂さんのこと大好きですから! 足りないなんて思ったことないです! 確かにちょっと交渉持ってもらえないときとかは辛いなーと思うけど」
言わなくていいことまで言っている。
「う、あ、あぅ、えーっと! 藤堂さんは藤堂さんのまんまでいいんです! 大好きです!」
うぅ、と唸りながら朝比奈が下から藤堂を見上げた。大きな暗緑色の瞳が潤んだように揺れる。
「こんな言い訳の果ては、だめですか?」
藤堂は動かない。朝比奈はますます狼狽した。さらなる言い訳を繰りだそうとした時、藤堂の口の端が震えて、唇からこらえきれない笑いが漏れた。口元を隠して肩を震わせている。吐息が震えて藤堂が笑いをこらえているのだと知って朝比奈はぽかんとした。
「とう、どう、さん?」
「…――いや、すまない。確かにお前から見た私は如何なのかと訊いたのだが返事がないから腹が減ったのかと…食べたいのか、と訊いたらお前が」
「そ、そんな文脈なしですよ! ずっる、ずるいですよ…! なんですかその訊き方ッ! 藤堂さんでしょ、いつも文法に気をつけろって言うの!」
ぎゃあぎゃあ喚く朝比奈を退ける平坦さで藤堂はきっぱり言った。
「人の話も聞けと言っておいたはずだが。そもそもお前の」
再度始まりそうな説教に、朝比奈は今度は対処を変えた。
唇を奪って押し倒す。正座が仇となって藤堂はあっさり仰臥した。バタバタもがく脚が裾を乱して色気を振りまいた。朝比奈はその隙間へ手を滑らせる。
「藤堂さん、ずるいんだもんなぁ。いつもやめろやめろって言うのに結局愉しんでるでしょ?」
耳朶へ直接ささやかれて藤堂が紅くなる。
「だから! お前のそういう物言いが悪いと」
「結論。オレはあなたと交渉を持ちたい。オレの言い訳のすべてはそこに帰着します」
藤堂が往生際悪く、うゥとかむぅとか唸る。
「言い訳なんて、嫌ですか?」
朝比奈は揶揄するように藤堂の耳を舐める。むずがるように逃げるのを朝比奈の腕が押さえつける。
「省悟、私は」
「ひとつ勉強になったでしょ? 下手な罠張ると首絞めるって。言い訳は駄目ですね、やっぱり」
朝比奈は何度も頬や耳の裏へ吸い付きながらクックッと笑う。
「言い訳の先にはきっと真実しかないですよ」
藤堂は朝比奈を押しのけようと苦心しながら叫んだ。
「そんなものは御免だ!」
《了》