言葉にしない、なにもかも
13:君の怜悧さは僕をどこまでも惨めにしていく
墨を流した夜空の黒さが無理やりに拓かれた体へ重みになった。星星の瞬きは健全でその在りようが藤堂のありようを責める。背後に立つ枢木の館を振りかえった。これまで何度も半ば無理やりに行為に従事させられてきた。これからもきっとそうだろう。ゲンブが藤堂に飽くまでこの付き合いは続くと思われた。針で穴をあけたような小さな星は遠く季節を示す。真冬の凍てつく夜空が恋しくなる。空も世界もすべてが凍てついた空気はひと押しすれば壊れてしまいそうで、爆発しそうな破壊衝動を和らげた。夜空を見上げればくらりと視界が揺らぐ。膝をついて整える息はいつの間にか肩でするほど上がっていた。喉をさするように襟もとへ触れれば乱暴に乱されたままなのだと気づく。襟を引き締めるのも億劫でそのまま手をついた。じゃりとこすれる砂粒の痛みが鮮明だ。ゆっくりとした動きで藤堂は通信機器を取り出すと打ち慣れた番号を押した。回線をつなぐまでの単調なリズムを刻む電子音は眠気を誘った。とろとろと融けていきそうな意識を必死に保つ藤堂の耳朶を待ち焦がれた声が打った。
『…藤堂、さん?』
「朝比奈」
最初の呼び出し音も鳴りきらぬうちに出る。待ちかねたような恐れるような震える声色は妙に聞き慣れていた。
「…頼、む。来てくれ……省悟」
通信機器の向こうで朝比奈が間をおいた。今度こそ駄目になったかと哂うように藤堂は思いながら返事を待った。
『…判りました、待ってます、から』
朝比奈の了承の言葉に藤堂は通信機器を耳から離した。しんと静まった夜半だ。通話をするには非常識な時間帯でもある。朝比奈の感情を試すようなことをしていると判っている。そんな一時しのぎすら藤堂はすがるほどに破壊しつくされた。ずる、と傾いだ体が地面へ伏せた。今のご時世、舗装されていない道の方が珍しい。じりりと頬をこするアスファルトは妙に温くて藤堂は不快げに口元を引き結んだ。裏道を選んだ所為か舗装こそされているが質は悪く畦道と大差ない。皮膚を擦る鋭利さだけが歴然としていた。立てる爪の衝撃すら拒否されて己に返る。吐き出す息が熱い。気を抜けば体内からあふれだす残滓は藤堂の位置を残酷なほどに暴き立てる。
「省、悟。お前は。私、は」
紡ぐ言葉の意味すら持たない。回線を切断しないまま無意味な電子音が響いていた。相手からの通信はすでに切られて切断を示す単調な電子音が響くだけだ。
あぁなんと罪深く我は生きんとする
「こんな世界は終わってしまえば、いい」
滅びればいい。唾を吐きかけたくなる関係とそれを容認している己を。世界の誰を壊す権利はない、だが己を壊す意味はある。同調も共感も要らなかった。包括するような受け入れを己は求めていると知っている。それがどんなに罪深くてどんなに身勝手でどんなに馬鹿らしいことかも承知している。
藤堂はずるりと気怠い四肢を繰って起き上がると砂も払わずに歩きだした。塗りつぶすように重い夜空が自身の体を押し潰してしまえばいいのにと何度思ったかしれない。
朝比奈はいつも通りの時間をかけて行き着いた家の鍵を開けた。合い鍵は家の主から預かっているもので罪悪感や気まずさは感じなかった。何度もこの家を訪っているし留守中に入りこむこともある。それでもこうして主からの要請で家に行くときは何とも言えない気分になる。門のところにかかっている表札を思い出す。達筆な字で藤堂と書かれたそれは主が家を継いだ時に書いたのだと知っている。表札をかけた時にささやかな祝いをしようと騒いだのは己だ。藤堂は苦笑して応じず、お前の誕生日にでも騒ごうと笑ってくれた。
扉を開けて上がりこんだ家の中は掃除も行き届いている。朝比奈はフンと鼻を鳴らして殊更に足音を立てた。わざと敷居を踏む。床の間や長押、欄間に至るまで行き届いた掃除は藤堂の気質のようだ。何事も手が足りるほどにこなして他者の介入を許さない。そんな藤堂の許しを得ているという自負はある。何よりこうした呼び出しは初めてではないし、自宅より藤堂の家の造りの方が頭に入っている。慣れた手つきで軽く掃除をしてから布団を敷く。外出していた所為で閉められていた硝子戸を開けて風を通す。染み一つない障子には穴を開けたくなる。
その衝動を押し殺して朝比奈は持ち込んだ食材の袋を抱えて台所へ立った。この家の台所は知っている。藤堂の隣を陣取るために何度も立ったし、理由をつけるためにいくつかの惣菜の作り方を覚えた。炊飯器をセットしてから炊き上げるまでの時間帯に細々した用事をこなす。救急箱の中身を確かめたり、風呂を点てたりする。石鹸などの小物の残量を確認してタオルを引っ張り出しておく。神経質に洗面器の位置を変えたり風呂の蓋を開けたりする。無意味だ。箪笥から藤堂の寝巻を出す。紺藍に染められた男物の帯を探し出す。濃紺に白藍で線をつけた飛白だ。和服を身につけた時の藤堂は文字通りに凛としていて美しい。締める帯で腰の細さが判るし均整のとれた体躯が見て取れる。似合うと思う。紺や山藍摺りなどの深みのある色を好む。藍も似合う。飛白を抱きしめたまま、焚き染めた香に酔う。藤堂の香りがするような気がした。しわになってしまうと気づいて慌ててたたみなおす。和服のたたみ方を教えてくれたのも藤堂だった。
馴染みのある電鈴で炊きあがりを教える炊飯器にはっとする。布団の枕もとへそれらをそろえてから風呂の具合を確かめて、台所へ立つ。粥を作りながらそこへ白子を入れる。卵を入れるべきかどうか迷って結局入れない。欲しいといえば入れるつもりだった。入れてから要らぬといわれては困る。梅干しや林檎を取り出してそれぞれ冷蔵庫などへ収める。病人食だと思いながら藤堂を思った。そのままくつくつと粥の煮詰まる音がした。適当なところで火を止める。朝比奈は普段使いの間で待った。奥の間には布団が敷いてある。風呂も点ててあってすぐにでも入れる。朝比奈はテーブルに突っ伏すようにして藤堂の帰りを待った。ずる、と引きずるような音がして朝比奈が顔をあげる。玄関までバタバタと走っていけば門のところで崩れ折る藤堂がいた。
「藤堂、さん!」
息を呑んで朝比奈が駆け寄る。夜半であることが朝比奈の声を低めにさせた。
「大丈夫ですか? 一応、風呂は点ててありますけど、どうします」
「しょう、ご」
「寝た方がいいかもしれない。今、寝床に連れて行きますから」
言葉もない藤堂の体を必死に肩で担いで朝比奈は寝床まで運んだ。どさりと布団の上に藤堂は四肢を投げ出す。枕辺の寝巻に気づいた藤堂が体を起こした。のろのろとした動きで着替えようとする。
「藤堂さん、無理しないで。オレなら大丈夫ですから」
朝比奈は藤堂の着替えを手伝いならが膕まで垂れる白濁がなんであるかを問わない。
「きょうし、ろうさ…大丈夫?」
何とか飛白をはおらせて寝かしつけた藤堂の衿を朝比奈が正す。とりあえず休息が必要なのだと朝比奈は判断した。薄く開いた灰蒼は月明かりで仄白い。潤んだような煌めきのそれの誘惑を朝比奈は断ち切る。
「眠って。起きたら美味しいご飯用意しておきますから。今は眠って? 疲れてるんですよ」
立ち去ろうとする朝比奈の裾を藤堂の手が掴んだ。
「しょ、うご。…頼む」
いなく、ならないで。
藤堂のわななく唇の紡ぐ言葉に朝比奈は抗することができなかった。そのまま膝をついて藤堂に寄り添う。裾を乱すようにして膝を抱える藤堂の体を抱くように朝比奈は背を曲げた。眼鏡が布団に触れてずれる。ぼやける視界と鮮明なそれとの差異に朝比奈は酔うような気がした。藤堂がこうして助けを必要とするのは珍しい。そしてそれだけの何かがあったのだと朝比奈に勘付かせる。開け放った障子や唐紙から入りこむ夜闇は温い。冬場ならしめ切ってしまうのを温い熱さが遮った。
「鏡志朗さん…大丈夫?」
朝比奈の声に応えるように藤堂は丸くなる。膝を抱えるそれはまるで幼子のようだ。射しこむ月光の仄白さが妙に際立った。藤堂の飛白や首筋を白く照らすそれを振り払いたくなる。
「鏡志朗さん。藤堂さん。ねェお願い、大丈夫? オレ、何かした方がいいかな?」
しがみつく藤堂の指先が朝比奈の皮膚に食い込む。びりりと走る痛みを朝比奈はこらえた。じんわりにじむ深紅も見ないふりをする。
朝比奈の声が響いた。彼の優しさにすがっていると判っている。それでも藤堂は朝比奈を拒否できずにいた。朝比奈は抱かれ疲れた藤堂にふかふかの寝床と消化の良い粥を用意してくれた。同時に風呂を焚き、すがりつく爪先を受け入れてくれた。朝比奈は万事抜かりなく事を進めてくれた。だがその聡明さは同時に藤堂にある種の罪悪感を呼び起こす。
好意にすがる卑劣な行為。
蔑みながら藤堂は最悪の手を取っているという自覚がある。朝比奈は明確に拒否も拒絶もしない。むしろ受け入れてくれた。だがそれが藤堂を針のむしろへ追いやった。常にちくちくと皮膚を刺す針。それは罪悪感という果てのない想い。自身の堕ちようなど己が一番よく知っている。朝比奈の優しさは甘い甘い毒だった。
「私は、穢れて」
朝比奈の応えはない。なくて当然だった。藤堂の唇はわなないただけで音としての言葉を紡いでいない。藤堂は心中で何度も何度も朝比奈に詫びた。朝比奈の優しさは、怜悧で両刃の刃だった。同時に己すら傷つけるそれに藤堂は何度も詫びた。ほかに手がなかった。するべきことが判らなかった。ただ傷を負う朝比奈に詫びた。それでも心中で行われるそれは発散の機もなく溜まっていく。いつか爆発するだろうそれから藤堂は目を背けた。朝比奈も殊更に問わなかった。唐紙の白さが灼きついた。
「鏡志朗さん。あなたに泣かれると辛いんだ。でもあなたがこらえるのも耐えられない。だから我慢なんてしないで」
朝比奈の細腕が藤堂をぎゅうと抱きよせた。矛盾したそれはそれ故に甘く。藤堂は唇を震わせた。
「省悟、お前は私のそばに、いてくれる、と――?」
お願いです私を嫌わないで
私をそばにおいてください
私を、厭わないでください
「オレが藤堂さんを嫌う訳ないじゃないですか。藤堂さんはいるだけでオレの存在理由なんだから」
嫌わす厭わず邪険にせず。私は君を厭うことも嫌うことも疎ましく思うこともなく。
「鏡志朗さん、あなたはオレの生きる理由なんだ」
だからそんな簡単にいなくなってもらっちゃ困る、と朝比奈が笑う。
両刃のそれが藤堂と朝比奈自身を傷つけることに気づいている。藤堂に刃をふるいながら同時に自身を傷つける。二人の狭間に揺れる刃は双方に傷を負わせる。藤堂の怜悧さも朝比奈の賢さも傷を負わせる刃でしかない。互いにそうと知っている。そうと判っていながら身を任せる。
「あなたがオレを切り刻んでも、あなたはオレの生きる理由なんだ」
朝比奈の言葉は藤堂を切り刻んだ。
《了》