誰よりも私を愛してくれる君はきっと誰よりも私を憐れんでいる
12:そしてあなたは憐れみのまなざしを僕に向けるだろう
非合法団体に所属を決めるとそれに比例して裏道や抜け方を覚えた。白光にさらされる場所と暗がりの間に明確に横たわる治安の良し悪しは誰の干渉も必要としていない。文書や念書は意味を失いその場でのやり取りや口約束の比重が増す。カードや手形より現金がものを言い、それでいて莫大な額もやり取りされる。肩や脚もあらわな女性が露骨に袖を引き、気を抜けばどこからか男たちが現れて身ぐるみ剥いで去っていく。損失はすべて自己責任となり賠償も弁償もない。ひらりと紺藍の飛白が裾を翻す。闇に融ける紺藍の飛白を白藍の線がはいった男帯で引き締め、裾さばきにも手慣れている。長身の体躯は無駄のない動きでしなやかに躍動する。鳶色の短髪を流しあらわなうなじに色香が漂う。潤んだような灰蒼の瞳が印象的だ。目を灼く蛍光のネオンで潤んだように煌めく瞳は切れ長で流し目が似合う。引き締められた着姿は意外と細い腰つきがあらわだ。藤堂はあてどなく歩いているようで確実に道を選んだ。
ふいに現れた男が指を数本立てて暗がりを示す。藤堂は頷くと男とともに暗がりへ消えた。ズボン前を緩める男の脚の間へ膝をついて顔をうずめる。しばらく詰めるような呼吸音が続き藤堂の喉仏が上下する。口元を拭う藤堂の目の前へ数枚の紙幣が舞い、気配が消える。藤堂はばらまかれた紙幣には目もくれずに膝を払うと立ち上がる。刹那、背後から近づいた男が藤堂を壁際へ追い詰めた。ごそごそと手でまさぐりながら藤堂の耳朶に囁く。藤堂は数瞬の間をおいて頷いた。同時に着物の裾が乱されたくしあげられたそこから長い脚が覗いた。夜闇の満ちた路地裏は残滓のような白昼よりも交渉に対して寛容だ。
藤堂は奇妙に静かな興奮状態のまま戻ってきた。飛白である藤堂の姿は珍しいが同時に個性を打ちけした。物珍しい着物に目が行って人相は案外覚えられない。抜け道を通ってあてがわれた部屋へ戻った藤堂を寝台の上で丸まっている朝比奈が出迎えた。藤堂は黙ったまま乱れた衿や裾を直す。首筋や耳の裏へ残る紅い鬱血点を朝比奈の暗い目が見つめる。その視線を知らぬように藤堂は浴室へ行くと帯を解いた。ぱさぱさと衣擦れの音が響く。シャワーを頭から浴びた。それが冷水であるのか熱湯であるのかすら区別はつかない。ただ妙に鮮明な感覚が髪の隙間をぬって伝い落ちていくことだけが判る。野蛮な体液にまみれた体が洗われていく。目をあげた藤堂は石鹸が切れていることに気づいた。取りにいくのも億劫でそのままぼんやりしていると目の前に真新しい石鹸が差し出された。まだ幼さを残す綺麗な手の平。目をあげれば眼鏡の硝子も曇らせた朝比奈が立っていた。衣服が湿気ていくのも気にしない気の長さで藤堂が石鹸を受け取るのを待っている。藤堂は石鹸を受け取るとありがとうと呟いた。
「…――ここに泊まって、いいですか」
囁くような懇願は水音に消えそうだった。藤堂は黙って目を背けた。朝比奈はただ愚かしいほどに返事だけを待った。藤堂の動きで跳ねる飛沫を浴びながら朝比奈は眼鏡の曇りを拭うこともせず立ち尽くす。
「藤堂、さん。お願い」
藤堂はシャワーを止めると石鹸を泡立てた。体にこすりつける泡は何の気負いもなく穢れた体を清めていく。
「…構わない」
朝比奈は頷くことも喜ぶこともなく踵を返した。パタン、と閉じられる浴室の扉の音だけがする。淡色の石鹸からほんのり花の香りがした。藤堂は石鹸の泡と一緒に何かを洗い落として飛白をまといなおした。
部屋の明かりは落とされて寝台の上でこんもりとした塊が丸まっていた。毛布をかぶっている朝比奈の隣へ藤堂は体を滑り込ませる。朝比奈は心得たように毛布の半分を空け渡す。藤堂は何も言わず朝比奈も何も言わない。ただ鼓動を聞きとろうとするかのように朝比奈は藤堂の胸に耳を寄せた。朝比奈の指先が藤堂の体を這う。明確な意思などなくただ求めるように無心なそれに藤堂の応えはなかった。衿を乱し帯を緩めながらどこか色事とは遠く隔たったそれに藤堂は目を細めた。路地裏で藤堂を抱く男たちの方がよほど欲にまみれていた。朝比奈の指先が震える。それは恐怖のような、それでいて歓喜のそれに似ている。
「藤堂、さん」
震える朝比奈の声が戦慄いた。それでいて指先が震えることなく明確に触れてくる。
藤堂がこうして寝床を抜け出し流しの娼婦のように体を売るのは初めてではない。朝比奈はそれに誰よりも早く勘付いて誰よりも柔軟に対応した。それでも朝比奈は制止の言葉一つ吐かない。止めろとも何故とも言わぬ。藤堂は試すように朝比奈の訪いを勘付いた時はなおさらに寝床を抜け出した。止めてほしいのかもしれぬと思う。制止という独占を得るために若者はよく道を踏み外す。同じことをしているのかもしれないと思う。けれど朝比奈は訊かない。藤堂も殊更に言わなかった。朝比奈はただ従順に藤堂の帰還を待ち、藤堂もそれを受け入れている。青臭いと切り捨てたり下らぬと言ってのけるのは楽だ。だが朝比奈はそんな言い訳すら呑み込む。ただ黙って待たれるというのは意外に罪悪感を呼ぶ。朝比奈は止めろとは言わなかった。疲れ果てた藤堂を迎え添い寝するだけだ。欲求も何もない。正義も意思も良心もない。
「朝比奈、お前は」
藤堂が口を開く。朝比奈がびくんと体を震わせた。藤堂の言葉が続かない。まさか醜態を己からさらす気にもなれなかった。音が途切れて空調の静音だけが響いた。
「オレは藤堂さんが好きです。幻想でも錯覚でも間違っていてもいい。ただ、オレがあなたを好きだという感覚だけはきっと、本物だから」
好き。すべてを包括し赦し、包み込むその言葉の罠は甘く。藤堂は目蓋を閉じてから肩を落として目を開く。
「好きですべては赦されない」
「判ってます。赦されなくていい。罰でも何でも来ればいい。けどオレは、あなたを好きです」
藤堂は困惑した。引っかけた男たちのする動作と朝比奈のする動作との間に差異が見つけられなかった。どちらもただ指先を這わせ体内に埋め込み、腰を揺するだけだ。藤堂の体は一切の情緒を拒否した。感性から与えられるであろう特別性を藤堂は受けられなかった。彼らの動作はただ同じものであり、そこには想いも感情も何もない。
「すまない。私は違いが、判らない」
「藤堂さん、オレに抱かれてくれませんか」
無為なつぶやきにかぶさるように朝比奈の声が朗々と響いた。藤堂は朝比奈を押しのけると帯を解いた。飛白を脱ぎ落して裸身になる。気高く拒絶する裸身を前にして朝比奈が肩を震わせた。藤堂は逃れるように寝台から立ち上がる。凛と立つ裸身は密閉性の薄い闇の中で窺えた。細い腰や柔軟にしなう背骨、それに続く頸骨。長い四肢が姿を見せ、振り向くようにねじれた体の細さが判る。
「…ごめん、なさい」
朝比奈はまっすぐに見つめながら震えた。うつむいたらもう二度と顔をあげられないような恐怖感に朝比奈は震えた。藤堂は怒らない。責めないが許容もしない。朝比奈はただ打ち震えた。藤堂が夜中に抜け出して路地裏へくり出すことも気づいている。理由は知らぬ。想像もつかない。だが藤堂は朝比奈が訪うと部屋を空にして見も知らぬ男を相手に腰を振っているのだ。朝比奈はそれを殊更に責めなかった。だがそれは無間地獄の始まりでしかなかった。一度許容してしまった事実は否定するのに手間が要る。一度赦してしまったことを駄目だと引き留める明確な理由を朝比奈は有していなかった。だから朝比奈はただ、待った。藤堂の帰りを。欲にまみれて汚れた藤堂をただ待つことだけが朝比奈に出来ることだった。
「ごめんなさい。藤堂さん。ごめん、なさい…」
朝比奈は震えて寝台に這いつくばった。顔は上げられなかった。藤堂の表情を想像するだけで心臓は不規則に脈打った。ギシリと寝台に建てられた爪が柔らかく軋んだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
藤堂の表情は判らない。判りたくなかった。頭を抱えるようにして謝る朝比奈を藤堂は無関心に近い心持で眺めていた。
「省悟」
「すいませんごめんなさいもういいません。だから、お願い。お願いですオレを見ないで。知らないふりをして。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
嫌がるように頭をふって身悶える朝比奈を藤堂は奇妙に冷静に見つめていた。ただ因果なものだと藤堂は無為に思った。なにがよくなかったのだろう、何がここまで狂わせたのだろう。藤堂はただ判らず訊かず朝比奈を見つめた。朝比奈はただ頭を抱えて頭を下げて詫びた。眼鏡がカシャンと落ちて静かな金属音を立てた。
何も言わない私を
何も訊かないオレを
あなたはきっと憐れんでいる
《了》