それはひどく辛くて
苦しくて
逃げて、いいですか?
10:僕らはどうして誰かのために生きることを諦めてしまった?
藤堂の声が朗々と響く。心地よく耳朶を打つそれは確かに良いが内容がよろしくない。卜部は行儀悪く脚を組んで手元の機器を見つめた。作戦は戦力差をひっくり返すとはいかなくてもいいところまで相手を追い詰めるだろう。得られただけの情報や保持している戦力。おそらくこれ以上の策は現時点ではないだろう。だが問題はそう言う場所にはないのだ。卜部は天井を仰いだ。まだ少年の高音が残る朝比奈の声が藤堂の説明をさえぎった。
「藤堂さん、これ! これ、藤堂さんの退却が難しいですよ! オレ達に見捨てろって言うんじゃないでしょうね」
卜部は機器を操作して全体俯瞰の表示に切り替える。確かに朝比奈の指摘は正しい。戦力のあるものは如何しても分散する。だからいざというときフォローにまわれないかもしれないことを考え合わせると、藤堂の位置はどうにもまずい。藤堂の位置は重要だろうし上手く働けば多大な効果を期待できる分、反動もある。切り捨てやすい位置に、藤堂は如何も己をそう言う位置に配置する傾向がある。
「朝比奈、変更はない。必要があればそうしてくれて構わない」
言いつのろうとする朝比奈を遮って藤堂は一同に質問がないかを問うた。元より意見などあるはずもない。怪訝そうだが頷き合う仕草からは彼らが了解した旨が伝わってくる。藤堂は各々準備を怠らないように、と引率の教師のように注意を促しておいてから解散を命じた。ばらばらと人が部屋から出ていく。朝比奈や千葉が藤堂のもとへ駆け寄って意見している。卜部に声は聞こえなかったが言っていることは想像がつく。卜部自身も思っていることを彼らははからずも代弁してくれている。藤堂はそれにも頑固に頭をふってはねつけた。卜部は黙って人気が絶えるのを待った。藤堂も何かと用事を作っては立ち去らない。朝比奈がすがるように泣きつくのも藤堂は頷かなかった。悔しそうな顔をして飛び出していく。千葉も無駄を悟ったのか後を追うように出ていく。卜部は配置だけが記憶された機器の電源を落として隠しへしまった。藤堂の元へ行けば藤堂もそれを悟って顔をあげる。
「卜部、私の部屋へ」
誘うように言われた言葉に卜部が藤堂の手を取る。藤堂は手早く荷物をまとめると卜部を引っ張るようにして部屋へ戻った。
そのまま藤堂の部屋へ入りこむと念入りに施錠する。藤堂はすとんと簡易寝台に腰を下ろす。卜部は黙って襟を緩めた。
「どうか、したか? 嫌なら止める」
藤堂と卜部がこうした関係をいつから持っていたのか卜部は思い出さないようにしている。それでも作戦前の昂りの発散を求めて二人は体を重ねた。藤堂は悪い癖が抜けないといつも泣きだしそうな眼をする。だから卜部はこういう流れになった理由を問わない。嘘は嘘のままでいた方がいい場合もあるのだということが判るくらいの歳は喰っている。卜部は黙って藤堂の隣に腰を下ろす。並べば卜部の方が丈はある。藤堂は手を出しかねるように長い脚を居心地悪げに揺らす。組み替えたり爪先を繰ったりと落ち着かない。その原因が卜部の不愛想にあるのだと卜部は気付いている。だがその原因もまた藤堂に起因する。
藤堂が自身の命を軽んじる傾向があることやそれが作戦に反映されることなど何度もあった。そのたびに朝比奈は噛みついたし卜部も口を出した。だが藤堂がそれを直すことはなかったし今でもそうだ。
「うらべ?」
藤堂は困りきった顔で卜部を見上げる。鋭いような灰蒼の瞳は潤んで欲を誘う。それをよく承知している振る舞いを藤堂はする。卜部はぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜるように頭をかいて嘆息した。
「…すんません。ちょっとイラついてるんすよ」
「私の所為か」
「そう言う勘はイイっすね。あんたのことも怒ってますけど俺自身についても苛立ってるんすよ」
卜部の茶水晶の瞳はまっすぐ前を見据えている。そこに藤堂は映りこむことができなかった。気落ちして目線を下げれば長い脚が見える。卜部も藤堂も背丈がある分、脚は長い。藤堂は無為に視線を流して明かりの落ちた部屋を眺めた。卜部の目線の先は追えなかった。
「死ぬのは簡単なんすよ」
藤堂の体がびくりと跳ねた。目線を動かせない。体のどこかが振動すれば涙があふれそうだった。呼吸がせわしなくなる。卜部の言葉は藤堂の内部へ深く切り込んできた。
「誰かのために死ぬのは簡単なんすよ。生きる方が辛い。辛くって苦しくってどうにもなンねぇことやどうしようもねぇことだってあるし」
卜部はもどかしげに頭をふって頭を抱えた。卜部のこうした鬱屈を見るのは珍しく藤堂は目を瞬かせた。卜部はその所作が目立たぬゆえに相違も感じられない。だから藤堂は何故とも問わずに独白を聞く。それを無意識で自覚しているのか卜部は藤堂と交わる時にほろりと胸の内を吐露する。
「あんたがそういう道を選ぶのも、それをどうすることもできねェ俺も、俺は憎くて仕方ねェンす」
卜部ががしゃがしゃと頭をかいた後で乱暴に藤堂の肩を掴んで口付けた。そのまま寝台の上に倒れこむ。藤堂は逆らうこともなく卜部の好きにさせた。卜部は目をあげなかった。視線が鎖骨の辺りに突き刺さるような気がして藤堂は体を反らせた。背骨がしなう感触が伝わってくる。卜部の指先が藤堂のベルトに触れる。躊躇するような間をおいてへその辺りを這うにとどまる人の好さは藤堂を魅了する。嘆息とともに何かを吐き出した藤堂が微笑した。
「俺はあんたに、生きていてほしいんだと思う」
卜部が血を吐くように言い切った。藤堂の返答はない。卜部はたぶん、聞きたくないのだと思った。藤堂が死にたがる理由も。藤堂がこうして男に抱かれる理由も。目線を動かせなかった。くっきりと浮かんだ鎖骨の影まで見える。瞬発力や破壊力も有してるだけに体躯は引き締まって綺麗だ。ただの痩躯である己とは違うと卜部は詮無く思った。この体がどれだけの仕打ちを受けてきたのかは藤堂を見れば判る。外的な暴力にはひどく耐性がある癖に内部へ切り込むものにはひどく無防備だ。裏切られると判っていて胸の内をさらす。傷つくと判っていてありのままをさらす。藤堂はふわりと笑んだ。筋肉の緊張の緩みで卜部はそれを感じ取る。目をあげればきっと猛禽類を思わせる顔立ちが穏やかに微笑しているに違いなかった。鋭く睥睨する灰蒼の瞳の優しさは知ってしまったら逃げられない。卜部が覚悟を決めて顔を上げれば、藤堂は愛しむような表情で卜部を迎え、唇を重ねた。
「生きる方が辛いと知ってなお、お前は私に生を望むか」
卜部は口の端をつり上げて哂った。小さな茶水晶の瞳は挑むように藤堂を見据える。藤堂の指先が縹色の髪を梳いた。卜部は黙って唇を寄せる。首筋を這う熱を持ったその感触に藤堂は身震いした。
「残酷な問いだ。そうっすね、俺は…辛くって苦しくってももがいてあがくあんたの方が好きだ」
「厄介な好みだ」
「生きていてほしいってなぁ、根源的な欲望でしょうよ。死んだらもう手が届かねぇ。だったら、相手にどんな被害が行こうとも生きていてほしいのが正直なとこでしょう。生きてりゃあ傷つくかもしれねぇけど」
卜部の目がふゥと笑んだ。
「癒したり、治したりできるでしょうよ」
藤堂はクックッと笑った。その指先が卜部の服を掴む。卜部は猫のように藤堂の首筋や胸へ頬を摺り寄せてくる。濡れていないのにそれをはねつけがたく思ってしまうのは珍しいからかもしれない。
「すんません、くだらねぇことだって判ってる、でも」
卜部の指先がぐぅと皮膚に食い込んだ。走る痛みと甘い疼痛に藤堂は目を眇めた。
「俺は俺の所為であんたが死ぬのが怖いんだ」
卜部の言葉に藤堂は反応しなかった。はねつけることも抱きしめることもない。卜部は堰を切ったように言葉を紡いだ。必死なようでいてどこか言葉遊びを愉しんでいるような気配が拭えない。それでもそれが卜部の本気なのだと藤堂は判った。
「俺は人の一生を背負えるような器じゃねぇことは判ってる、でも、俺は俺の所為で好きなやつが死ぬなァごめんなんだ。人殺す商売に就いといて寝言言ってるようだって判ってる。…俺は好きなやつ死なすような真似だけはしたくない」
「…お前は損な性分だな」
愛しむようなそれにも卜部は顔をあげなかった。貪るようなふりで顔を伏せて震えているのが判る。
「…小便くさいこと言ってますね。こう言うこたァ朝比奈あたりがいっときゃあいいんでしょうけど」
藤堂はこらえきれずに笑った。ぎゅうと卜部を抱きしめる。
「お前に言われると重みが違うな。朝比奈は口がうまいからな」
藤堂の言葉に卜部の体がふゥと緩む。強張りが取れていつもの柔軟さを取り戻す。
「あんたかばって俺が死んでも俺ァかまわねェンですよ。あんたが生きていればいい」
「それは少し冷たいな。お前がいない残りをどう過ごせと、お前は言うんだ」
初めて卜部は藤堂を見た。藤堂はその瞳をまっすぐに見返した。潤んだ灰蒼が瞬く。藤堂は自ら襟を緩めて留め具を外すと衣服を肌蹴させた。卜部の手をそっと心臓の上へ導く。
鼓動するそれが薄皮一枚の奥に潜んでいる。爪を立てて指を食いこませれば奇跡の藤堂と謳われたこの男を葬れるだろう。それをいとも簡単に許す動作を藤堂はしてのけた。卜部の手の平に藤堂の鼓動が感じられる。藤堂の指先が卜部の襟を肌蹴させた。そのままベルトを緩める。長い脚が卜部の腰に絡んだ。
「私はお前が想っているほど高潔ではないぞ。死にたがりであるのは…認めるがな。私は私の生を、早く終わらせたいと思っている」
「赦さねェっすよ、それは。あんたに死なれたら困るんだ」
卜部はうわごとのように言葉を紡いだ。藤堂は黙ってそれを聞く。
「誰のためでもいいんだ、あんたが生きてさえいてくれりゃあな。誰のためでも構わない、生きていてくださいよ」
藤堂は灰蒼の瞳を眇めた。それはひどく眩しくて、眩しくて直視できないのだ。目を灼き皮膚を刺し肉を裂いて骨を断つ。鋭く尖ったようなそれは陽炎のように揺らいで藤堂を惑わせた。死という甘美な果実と生という辛苦の末が藤堂を魅了する。
「後生だから、生きていてくださいよ。生きてりゃあ楽しいことだってきっと、あるから」
藤堂は泣き笑いのような笑い声を立てた。卜部のそれは苦しくってやるせなくって、切なかった。だがその爪先は正確に藤堂を捕らえて食い込んだ。
あぁ痛む。
君の爪が我を刻み
生きろと爪を立てる
「お前のそう言うところは、嫌いではない」
狂っていると。疾うに狂っていると知っている。
藤堂は喉を震わせて哂い、卜部の指先はそれに応えた。
《了》