君と同じでありたいと
君のようにありたいと
掴む指先をすり抜けていくそれは
09:届かぬ空に焦がれることをやめられない愚かさで
朝比奈は心地よく冷たい床に行儀悪く座ったまま惚けていた。しばらく道ならぬ恋に胸を焦がして稽古に身が入らなかった。朝比奈は道場で子どもたちを指導する藤堂に焦がれた。藤堂はどこからどう見ても男性だし、朝比奈だって自分を女だと思ったことなどない。同性を想う気持ちをひた隠しに隠して日々を過ごすが、生来感情が先立つ性質ではこらえる期間も短い。玉砕覚悟で朝比奈は藤堂を引きとめて神棚の前で告白した。
「…なんで、あの人は、ああ」
小生意気だと不評を買う傲岸さでやけくそに言い放った朝比奈を、藤堂は罵倒も侮蔑もせずにただまっすぐ見返した。そして判ったと、言ったのだ。届かぬはずの空を掴んでしまった時のような言いようのない、後悔と歓喜がないまぜになったようなそれを朝比奈はまざまざと思い出せる。藤堂は同時に時間が欲しいとも言った。朝比奈は罵倒されないだけで気をよくして気軽く応じた。それが今頃になって妙に負担になっている。結果を先延ばしにされて、焦れる。これでやはり駄目だと言われたら朝比奈はただの馬鹿である。藤堂はそういう心情すら計算に入れて対応を決める性質だから、まさか頭ごなしに不可だとは言われないだろうがどうしても最悪の事態を予想してしまう。想いを告げたあの刹那は勢いというものがあったから自信満々に言い放ったが冷静になって見ると何の根拠もない。同性だろうが異性だろうが反りの合わぬものはいるし、体のシステムが働かなければ意味がない。朝比奈は藤堂を対象にいかがわしいことを想像できるほどだが藤堂の体も同じであるとは限らない。感情面で許せても体が役立たずではお互いにまずいことになる。
朝比奈はずるずると崩れるように道場の床に突っ伏した。道場の板張りの床は毎日通う者たちが手入れを怠らないだけに隅々まで磨かれている。つやつやと照る床はそれでいて確実に分離した冷ややかさを失わない。長くそこへ座って床が温んでも同化はしない。固い床へ額を伏せ、重心をずらしてごろりと横になる。肩の加減で頬と床が離れる。角度を変えた視界では藤堂が穏やかに子供たちを指導している。人を寄せ付けないような雰囲気がこの時ばかりは少し緩む。子供達も赦しを得ていることを本能で感じるのか藤堂を慕う。
「おい!」
ずかずかと朝比奈の視界を遮った少年が腰に手を当てて仁王立ちになって朝比奈を見下ろしている。白い上着と紺袴はここへ通う子どもの標準的な服装だ。朝比奈は隠すことなく眉をひそめて少年を睨み返した。
「チビか」
少年も不愉快そうに顔を歪めた。
「チビじゃない! 枢木スザクだ!」
スザクはこの道場を実質的に管理している素封家の子息だ。彼の父親は政治的な高位にいて親戚もやんごとない身分なのだと聞いている。だがスザクはそれを鼻にかけることもなく素直に育っている。藤堂を慕い日々の鍛錬に励む。時折家に帰りたくないと言って藤堂を困らせるのが鼻につく。彼が実家でどういう立場なのか朝比奈は興味もないし知る必要があるとも思わない。朝比奈にとってスザクは藤堂を対象にした相関図で敵対関係にある年少者というだけだ。スザクの感情がいずれ尊敬や憧れからもっと肉薄した感情にすり変わるだろうことは想像に難くない。何より朝比奈が同じ過程を歩んで想いを告げるに至っているのだ。同類を嗅ぎ分けるだけの鼻はあると自負している。スザクの方もそれを感じるのか事あるごとに朝比奈に食ってかかる。
「チビがなんだよ。オレはお前に用なんかないぜ」
「チビって言うなムカつくやつだな。寝るんだったら帰れよ! 迷惑だし無駄だ」
スザクは年頃のわりに大人びた口を利く。その内容もいちいち小悧巧で朝比奈を苛立たせた。小賢しいだけだと朝比奈は思っている。
「へぇお前、ここの見張り番かよ。そりゃあご苦労さんですね。見張りにばっかり気が行って稽古の邪魔してるのはお前の方じゃねェのかよ。人を気にする前にテメェを見ろ、チビが」
「なんだと、朝比奈の癖に!」
「お前に、癖に呼ばわりされるほどオレは落ちてねぇけど? ガキはすっこんでろ。おとなしくハイハイッて言ってりゃあいいんだよ。いい返事はガキの専売特許だよな?」
朝比奈が言い捨てた刹那にスザクが飛びかかった。朝比奈も応戦する。スザクの爪が手加減なしに皮膚を引っ掻き、朝比奈も平手を見舞う。騒ぎを聞きつけた藤堂が駆けつけて二人を引き剥がした。
「何をしている、二人して」
「せんせぇ」
諫められてスザクの顔がふにゃっと歪む。責任がないと言いたいのだろうがこみ上げるものが先立って言葉にならずしゃくりあげる。朝比奈の方もむくれて口を利かない。藤堂は弱者を守る傾向があり時折その基準は年齢によった。年長の朝比奈の方が不利なのである。ぐずぐずと泣くスザクをなだめながら藤堂は朝比奈の方を見た。スザクの目線に合わせてしゃがんだ藤堂の胸元に紅い鬱血点が覗く。
「…ちょっと、頭冷やしてきます。すぐ戻りますから」
朝比奈は振り切るように立ち上がると手荷物もそのままに突っかけを履いて広い庭へ出た。道場の者たちは朝比奈とスザクの小競り合いなど見飽きている。礼儀のように興味のある眼差しをくれるだけで声をかけてはこない。理由は判らなくともたびたび繰り返されれば騒ぎたてる気も失せる。
「…本気で、あの人は」
藤堂の胸元に鬱血点を残したのは誰あろう朝比奈自身だ。一向にもらえない返事に焦れた朝比奈が藤堂を組み伏せた。一方的な暴力と理不尽であるはずのそれを藤堂は受け入れた。その際に朝比奈は鬱血点を藤堂の体に幾度も刻んだ。着衣のままなら見えないが確実に所有を主張する位置に何度も唇を寄せた。
「なんだよ、これなら殴り倒された方がマシだった」
朝比奈はがしゃがしゃと暗緑色の短髪をかき混ぜた。庭の隅にある小さな池には冴えない顔の若造が映りこんだ。彼の髪は深い緑が強く、遠目からは黒髪に見える。まさしく緑の黒髪だなと戯れるように微笑した藤堂の言葉はいつまでも朝比奈の中で響いた。
見上げた空模様まで鬱陶しく雲が垂れこめていて気が滅入った。この分なら早晩、雨模様になるだろう。朝比奈はしゃがみこんで池のほとりへ膝をついた。枢木の家は確かに高位だが生き物を愛でるような優しさは持ち合わせていないようで池には鯉一匹いない。ただ藻が生い茂り暗い池の中をさらに黒く闇に染めた。袖を抑えてひたりと浸した池の水は皮膚を裂くような鮮烈な冷たさもなく、温く皮膚に馴染む。人肌に手を突っ込んだような、予想外の感触に朝比奈は顔をしかめた。朝比奈が求めるのは冷徹なほどに分離した感触だ。冷たさを求めて朝比奈はむやみに池をかき混ぜた。さざ波が波紋を作り、水底の砂を巻き上げて水を濁らせる。混濁した水面と温い感触とがあいまって、朝比奈をさらに不快にさせた。指先や手首に触れる水草はぬめっていて人体の臓腑をかき混ぜているような錯覚を覚える。
「省悟」
下の名前を呼ばれて朝比奈は初めて後ろを振り向いた。稽古着のままの藤堂がそこに佇んでいた。健康的に日焼けした皮膚は浅黒いほどで上着の白さと紺袴がよく映えた。背筋をぴんと伸ばした姿勢を保ち、その負荷などないかのように凛とした体勢を取る人だ。背骨がしなやかにしない、顎を引いて佇む。衿の合わせから覗く鎖骨や尖った喉仏が目を惹いた。
「藤堂さん。ガキどもは放っといていいんですか?」
何でもないように笑って問うと藤堂も微苦笑を浮かべた。
「皆、もう帰った。お前こそちょっと席を外すと言って稽古が終っても戻ってこないからどうしたかと思ってな」
空を見上げれば相変わらず重く雲が垂れこめている。日が落ちる過程を雲が遮り、朝比奈はそれに気づかなかったらしい。発汗を考えて通気性を重視してある稽古着では少々肌寒いことにいまさらながら気づいた。
「そんなに時間たってました? まずいな」
慌てて水面から腕を引き抜く。温い水が薄く幕を張り、瑞々しい皮膚がそれをはじく。
「お前はよくここにいるな」
「…そう、ですか?」
「ここは空も陸もよく見える位置だしな。見晴らしがいい。隠れ処を奪ってしまったようで、悪かったかな」
朝比奈を窺う藤堂は微苦笑を浮かべていて、朝比奈はいつも通りに軽妙に笑い声を立てた。
「オレの家じゃないからどうでもいいですって。藤堂さんこそ」
そこで言葉が途切れた。二人の間には明確な課題がありそれが言葉を重くした。朝比奈は濡れた腕のまま袖を直した。ひたりと張り付く袖をはがすと生皮を剥いだように生白い腕が覗く。藤堂のような確固たる拠り所のある強さを朝比奈はどんなに鍛錬しても得られずにいる。もっとも易々と手に入るなら誰も稽古などしない。
「…藤堂、さん」
盗み見た藤堂は雲の垂れこめた空を見ていた。鬱陶しいだけのそれを藤堂は懐かしむような悼むような優しさと痛みの混ざりあった表情を見せた。
「お前は、空に似ているな」
「…オレが、空、ですか?」
「航空技術を人類は得たのにまだ空というものにたどり着けずにいる。見えているのに掴めない。その変化すら予想できず前兆を読み取るので精一杯。翻弄されてそれでも魅せられずにはいられない。底のないその圧倒的な空間を把握できない、けれどきっとだからこそ魅入られる」
藤堂の灰蒼の瞳は朝比奈を映した。降雨の直前のように潤んだ瞳は朝比奈を翻弄する。
「想って行動しているはずなのに惑わされる。知っているつもりで驚かされるのも一度ではない。掴めない。だが気を惹いて仕方ない。その色合いや模様をいつも、気にしてしまう」
朝比奈の目がゆっくりと見開かれていく。
「こちらで最善の策をとったつもりでも、それを優にまたぎ越してしまう」
灰蒼の瞳がすがめられた。その口元は愛しむように弧を描いた。朝比奈は唇を引き結んで藤堂を見た。比喩が悟れないほど朝比奈は馬鹿ではないし、藤堂もむやみに飾り立てる性質ではない。
「…意味は、判るだろう」
「それが、返事ですか? オレは馬鹿だからはっきり言ってくれないと判りませんよ。迷惑なら、つっぱねてください」
「迷惑だと思ったことは、ない」
藤堂は躊躇なく言い切った。藤堂は確かに気を遣いすぎる傾向があるが嘘はつかない。相手に誠実であろうとする真っ正直な気質が判るほどに、藤堂は嘘を嫌う。その正々堂々がたまに要らぬ負荷を藤堂に強いる。
「私はお前の想いやお前を迷惑だと感じたことはない。お前が…言わなければ私はきっと一生」
藤堂はゆったりと微笑した。包み込むような、それでいて蠱惑的な笑みだった。慈愛と肉欲を同時に満たす。
「空を掴んだことを知らぬままに時を過ごしていただろう」
朝比奈は体ごとぶつかるように藤堂に抱きついた。藤堂に背丈も目方も、肩幅すら追い付いていない。藤堂から見れば頼りないに違いない。それでも朝比奈は今のまま、藤堂に抱きついた。耳を伏せたそこから藤堂の鼓動が聞こえた。規則的に、けれど早鐘のように脈を打つ。試合の時の緊張感と似ていた。興奮状態にありながら呼吸も肩も指先の震えすら落ち着いている。
「いいんですか、藤堂さん。オレの想いは――知っているでしょう」
欲望に限りも終わりもない。藤堂の気持ちが得られたならば体も欲しくなるだろう。その時になって拒まれても抑止力は効かないだろう。互いに傷を負うことになる。
「体はもう試しただろう。私はそういう性質なんだろう。不愉快ならばそう言うが」
朝比奈は黙って藤堂の肩へ顔を伏せた。ぽつぽつと針が刺さるような痛みの後に雨垂れが容赦なく降り注いだ。重く垂れこめた雲はその水分の含みが限界に達したらしく一気に雨垂れを降らせた。互いの稽古着が重く湿っていく。ひたりと張り付く布地越しに藤堂の体のありようを感じる。
「あぁ、オレの」
朝比奈は顔を上げて笑顔を見せた。
「オレの空はもっと遠くに行っちゃった。きっとまた追いかけるんでしょうね。――あなたは、一所に留まるような人じゃあないから。けれどだから好きなんです。オレはきっと一生、あなたに恋い焦がれる」
朝比奈は踵を浮かせて背伸びをすると雨垂れに濡れた唇に口付けた。
「お前こそ、手の内に入ったと思ったらすり抜けてゆく」
藤堂は笑って朝比奈の濡れた頬に触れた。互いの髪色は雨を吸って暗く色合いを増す。
「空を追うのは、愚かしいかな」
「オレだって愚かしいです。でもだからきっと生きてゆけるんです」
互いに重ねた唇は温く湿って境界を曖昧にした。
《了》