忘れられずすがりつく
罪深い私を、君は
07:失ったはずの涙が今日もまたこの双眸から流れ落ちる
藤堂は四肢がひきつれるような感覚に眉を寄せた。まるで動きがかみ合わず連動しない。感覚もなかった。もう何度目かも判らない景色に相対して藤堂はようやく足を止めた。どくどくと脈打つ鼓動は耳鳴りのように響いた。頭蓋の内部で反響して響く音色はどこかヒステリックで煩わしかった。ずるりと膝が抜けてしゃがみこみそうになる体を無理矢理に引きずって袋小路へ体を潜り込ませた。熱の発散を求めてむやみに歩き回った体は確実に疲労していて藤堂は目眩がした。高まる熱に心当たりがある。だがそれを認めるのは藤堂の自我を揺らがせる。すがりつくほどのプライドはないが護りたい自我くらいは持っている。
「…閣下」
ゆっくりと膝をついて壁へ肘をつけて体を預けて休息する。いつの間にか息が上がっていた。吐き出す息が濡れているような気がするのはうがちすぎだと思いながら明確に否定ができずにいる。
目の奥が熱くしびれるようだと思った時には涙があふれていた。日頃から自制の利く藤堂は人前で涙することなどない。代わりにその堰が決壊した時に痛手は通常の何倍にもなった。歯止めも利かない。ある程度の発散を見るまで藤堂の体は意識の制御を振り切って暴走した。ぼとぼとと滴る涙が床に濃灰の染みを作る。喉が震えて鼻の奥が熱い。せめて泣き声を殺そうと唇をかみしめ壁に爪を立てる。ツンと鼻にくる煙草の香りがした。
「か、っか」
枢木ゲンブは愛煙家で行為の最中や前後によく煙草を吸っていた。高級なのだろう種類の煙草をゲンブは惜しげもなく吸い、その匂いは藤堂の体に染みついた。足元へ伸びる人影にはっとして顔を上げて振り向けば長身の男が立っていた。表情はちょうど明かりの位置と逆光になっていて細部が判らない。
「藤堂鏡志朗、でしたっけね」
よく響く低音に藤堂は心当たりがある。黒の騎士団の通信など報道関係を一手に担う男だ。ブリタニア人であると聞いている。彼が祖国に弓引く真似をした理由は知らない。詮索するつもりもなかった。
「…ディートハルト」
藤堂はみっともないと思いながら鼻をすすり涙を拭った。泣いているのを見られた気まずさがある。ディートハルトはその長い指先で煙草を揺らす。はらはらと灰が落ちた。
「奇跡の藤堂の涙! 扇情的で刺激的だ。ぜひその理由をお伺いしたいものですね…あなたの体はとてもよく応えてくれそうだ」
藤堂の肩を鷲掴んで壁へ縫い止める。向かい合ったディートハルトを藤堂はまっすぐに見つめた。冴え冴えとした蒼い瞳はどこか作り物めいている。ディートハルトが口元を歪めて哂う。くんと顎の先を掴まれたと思うと唇が重なった。びりっと感じる刺激が煙草のものであると気づく。藤堂の奥底がざわざわと揺れた。体を這う手つき。その目的が明確になった刹那、ふぅわりと煙草の香りが鼻をかすめた。ビッと布地を引き裂くように留め具を引きちぎって肌蹴させる。乱暴なその所作に藤堂は覚えがあった。
「――ぅ、あ、あぁ――…!」
叫びだしそうな藤堂の口をディートハルトは舌打ちしてふさいだ。
「黙って。みんなが目を覚ますでしょう。それとも私の部屋へいらっしゃっていただけるので?」
ディートハルトの言葉は滑って藤堂の意識に上らない。
がちがちと歯がぶつかる硬質な音が小さく響く。力の抜けた指先がカタカタと震える。ゲンブは藤堂を乱暴に扱うほどに機嫌を良くした。鬱憤晴らしに殴られたことも一度や二度ではない。そして藤堂はそれらを享受する道を選んだ。藤堂だって感じないわけではない。ただ堪えていただけだった。
「んぅ、うゥ――!」
乱暴にベルトを外すディートハルトの手を必死に押しのける。口をふさぐ手に噛みつく。肌蹴た場所から入り込もうとする手は叩き落した。なりふり構わない藤堂の抵抗にディートハルトは顔をしかめて腕を一閃した。鈍い音がして藤堂の体が傾いだ。頬が紅く腫れていく。
「どうやら噂は本当らしい。色仕掛けの中佐殿。何人たらしこみましたか? それなりの身分にまで食い込んだと聞きましたよ」
藤堂の平手がディートハルトに命中した。咄嗟のことで藤堂にも余裕がなく加減はしなかった。軍属としてそれなりの体躯を有することの証のように殴ったディートハルトの頬が腫れていく。
「なるほど」
ぐんと首を掴まれたと認識した刹那に壁に頭部ごと打ち付けられた。目の奥で星が散って衝撃を吸収しきれずにうめく。その間にディートハルトは上着の留め具をすべて引きちぎって肌蹴させる。
「――ぁ…や、め…ぁあ、あ…!」
「あなたは扇情的だ。禁欲的でそれ故に屈服させたくなる」
『お前が膝を屈する姿は実にいいな』
「やぁ…――閣、下…!」
ゲンブの声がこだました。嬌声を殺そうと藤堂は自分で口をふさぐ。指や手に噛みつくのをディートハルトは興味深いとでも言いたげに横目で見た。
「閣下、とは」
びくんと藤堂の体がはた目にも解るほど震えた。見開かれていく灰蒼の瞳は哀れすら感じさせる。涙に濡れたそこは過剰に潤んで今にも雫をこぼしそうだ。ぎちりと皮膚を噛む音がした。みるみる深紅がにじんで雫が伝う。ディートハルトは興味が失せたという態度で行為を再開したがその手をぴたりと止めた。藤堂はその時になって床に伸びる人影が一つ増えているのに気づいた。ディートハルトの肩越しに彼を見る。
「…まったく、物騒だ」
「テメェに言われたかぁねぇけどな。何してんだ。事と次第によっちゃ容赦しないぜ」
「うら、べ」
ディートハルトは慣れた仕草で立ち上がる。卜部の腕は一緒に移動した。その指先で鈍く光る漆黒がなんであるか藤堂は知らぬほどもの知らずではない。卜部は備えとして持ち歩いていた銃をディートハルトに向けていた。藤堂はへたり込んだまま動けない。下手に動いて卜部の立場を悪くしたくなかった。
「日本人というものは恐れを知らぬといいますが、これほどとはね。恐れないというより無謀だ。何をしているか承知しているのですか」
卜部はフンと口の端をつり上げて笑んだ。
「いざとなりゃあお前を殺して死ぬだけだ。理由は墓場まで持って行ってやる。黒の騎士団がどうなろうと実のところはどうでもいいんでね、俺は四聖剣だ。忠誠を誓ったのは藤堂鏡志朗だけだ。侵すものは赦さねぇ、それだけだ」
ディートハルトは大仰に肩をすくめてから身なりを整えた。
「命には命をもって、と。この色仕掛けの中佐はなんの処分もないと」
「次にそれ言ったらマジで撃つぞ。藤堂鏡志朗って戦力をこの新興組織が手放すたぁ思えないけどな。俺やテメェと違って代えが利かない。せいぜい謹慎程度だろうよ」
「盲信的なのは朝比奈というあの眼鏡だけだと思っていましたがね。泣いているから慰めて差し上げただけで」
卜部の指先ががちんと撃鉄を起こした。
「人払いして慰めね、そりゃあ結構だ。どんな慰めだか知りたいもんだぜ。朝比奈がお前の手飼いに捕まってんのを見たぜ」
「なるほど、私には不利だ」
「うら、べ…よせ…」
卜部はじろりとディートハルトを睨んでから銃を収めた。ディートハルトは肩をすくめて堂々と立ち去った。その後ろ姿を卜部は疎ましそうに眺めた。
「中佐、大丈夫っすか」
卜部は剥きだしの戦意を収めて藤堂のもとへ屈んだ。見慣れた飄然とした態度に藤堂も息を吐く。
「だい、じょうぶだ」
「すぐばれる嘘はつかんでくださいよ」
藤堂の指先はカチカチと震えて脱がされかけた衣服を直すのもままならない。卜部は吐息と一緒に何かを吐き出して藤堂の肩を抱いた。
「俺の部屋来てください。その格好じゃあ千葉あたりに見とがめられますよ。あれで執拗なとこがあるから言いくるめんのァ大変でしょう」
「…すまない」
卜部と二人でこそこそと部屋へ引き取った。脱ぐように促されて藤堂は恐る恐る脱いだ。卜部はその間に裁縫の道具を引っ張り出した。小さな綻びやボタンつけ程度をこなせるだけの少ない道具だ。卜部は器用に留め具をつけなおしていく。その手際は手慣れていて不自然さなどない。長い手脚で器用に細かいことをこなすものだと藤堂はその手元を凝視した。卜部の背丈は藤堂よりある。腕や脚も藤堂よりは丈がありそうだ。痩身なだけに余計にそう感じられる。藤堂はちょこんと寝台に座って作業が終わるのを待った。
部屋を見れば私物が少ない。もともと私物の少ない職種であるのだからそれは当然かもしれないが逆にそれが卜部の覚悟のような気がした。朝比奈などの方が私物が多いような気がする。雑誌の号もとびとびでそれほど勤勉にそろえているわけではなさそうだ。蔵書も少ない。
「どうかしたンすか」
不思議そうな卜部に藤堂はしどろもどろになって弁解した。部屋の主に断りも入れずに部屋をじろじろ見ていたのだと思えば具合が悪い。
「いや、私物が少ないなと…朝比奈はもっとものが多かったような気がしただけだ」
「あぁ。いやぁ、だって死んだ時にものが多いと残された奴が難渋するじゃないっすか。遺品が多けりゃあ踏ん切りもつかないだろうし。カッコつけて言えば、後腐れなく、って奴っすよ」
卜部の言葉に藤堂の眉が寄った。不満だと言いたげなそれに卜部は笑んだ。
「…私は、お前たちを死なせる気はない」
「その心意気はありがたいっすけどね。俺達は軍人だし、そういうところに身を置いてる。中佐だって、私物は少ないっすよ。部屋に入った時にそう思ったっすから」
卜部の手が止まった。しばらく考え込むように手元を睨んでいたが卜部の瞳が不意に藤堂を射抜いた。
「…訊いていいっすか。閣下ッて、誰」
藤堂の体が瞬時に凍りつく。藤堂はたっぷりの間と逡巡の末に口を開いた。
「枢木、ゲンブ」
わざと呼び捨てる言いように関係の良し悪しが知れようというものだ。卜部は嘆息して藤堂を見つめた。藤堂は卜部の手元を睨むように凝視していた。縫いさしのそこは殊更に下手ではなくある程度の熟練が見て取れた。
「…予感がなかったって言ったら嘘になりますが。あんた、煙草吸うやつが嫌いだし。ただ衛生上の好き嫌いじゃないのは判りましたからね…あんたは人を嫌うってこと、しない性質っすからね」
「…閣下は、よく煙草を嗜まれていた、から」
卜部は一度だけ枢木ゲンブを訪ったことがある。藤堂が体調を崩して倒れて呼び出しに応じられない旨を告げに行った。藤堂の元には朝比奈が張り付いていたし、まさか千葉をやるわけにもいかず己が行くと申し出た。その時の煙るような部屋を卜部は覚えている。藤堂の不調を伝えて帰る間際にゲンブはうそぶいた。せいぜい体は大事にしておけと。卜部はそれに目を眇めただけで気づかぬふりで帰った。藤堂には伝えていない。
「死人を気にかけるのは無駄っすよ」
枢木ゲンブはすでに他界している。その経緯は何事か厄介があったらしいことは察しているが殊更に問うた事はない。藤堂の方でも話さなかった。
「…お前のそういう性質は、ひどく羨ましいというか…魅惑的だ」
「…泣かないでもらえますか。そんなふうに言われたら、俺は」
藤堂はその時になってはじめて頬を滑るそれが涙なのだと認識した。はっと顔を上げて卜部を茫洋と見つめる。卜部は痛いような悲しいような顔で藤堂を見ていた。卜部の手がもっていた繕いかけを放り出して藤堂に抱きついた。抱き締めてくる腕の確かさと熱に藤堂の涙腺は崩壊した。人肌はするりと奥底へ馴染み、皮膚と同化する。抱きしめられる喜びを感情より先に体が感じていた。ぎゅうと抱きしめてくる腕のぬくもりは藤堂のあらゆる拘束を解いた。支えや見栄は一息に取っ払われてあるがままの姿をさらす。筋肉の硬直が緩んであらゆるものが解放される。あふれる涙としゃくりあげる喉の動きが止まらない。
「俺は中佐が穢れてると思ったことはないっすよ」
藤堂は目を見開いて卜部の肩を凝視した。涙で染みをつけてしまうと卜部を押しのけようとする手は力を失って抱きしめられるままになる。余計に涙が溢れた。人肌がこれほどまでに解放感と心地よさを有するのだと、久しく忘れていた。求める言葉を与えられるのも久しぶりの感覚だった。罵倒や叱責は容易い。責任が己に返ってくることはないのだから言いたい放題できる。けれど慰めだとか癒しだとかそういうものはある程度の同調が必要であり技術や機会をはかる能力も要る。卜部はそれを相手に感じさせずにやってのけるだけの度量があるのだと改めて感じさせた。不意に与えられた同調感に藤堂の体は容易く降伏した。
「は、は…お前は、本当、に…いつも」
喉が震えた。藤堂の指先が意識する前に卜部の肩へ爪を立てた。肩甲骨がありありと感じられる。躍動するそれはけして貧弱ではない。
ことがあるごとにゲンブの影を見出してしまうのは己がそれを求めるゆえだと藤堂は断罪した。それは自我すら責めた。ありようを根底から否定し、打ち砕く。ありようを否定されるほどに藤堂はゲンブの影を見た。そこから先は悪循環だ。ちらつく枢木ゲンブの影は死してなお、藤堂を苛んだ。藤堂の内部で生は価値を失い戦場では戦死のリスクが高まる場所へ先陣を切った。死のうとは思わなかったが生きたいとも思わなかった。ただ無価値な己が諾々と生を全うするのが疎ましかった。無価値な己の代わりに誰かが失われていくのはたまらなく苦痛だった。諫めも説教も藤堂には何ともなかった。価値がないという価値観だけは動かず揺るがず、藤堂は終わりを急いた。
「あんたに死なれたら寝覚めが悪くてしょうがないっすよ。何人狂うと思ってンすか。あんたは死んじゃあいけないンすよ」
卜部の指先が幼子にするように固い鳶色の髪を梳く。卜部は藤堂のありようを否定すらせずに受け入れた。藤堂が自身に価値を認めていないのも承知の上だ。そのうえで卜部は語り聞かせるように口を利いた。穏やかに、余裕があれば聞き入れてほしいという控えめなそれは、それだけに身にしみた。
「私は、穢れて」
「あんたが穢れてるたぁ思いませんよ。あんたより汚い奴はごまんといるし性根が腐ったやつもごまんといる。あんたは清らか過ぎるんすよ」
「…私などを清らかだというのはお前くらいだ」
藤堂は顔をあげると卜部と唇を重ねた。少し乾いたそこは一瞬分離したがすぐに馴染んだ。湿った舌先が唇を舐めていく。びっくりしたような藤堂に卜部は唇を舐めて悪戯っぽく笑った。
「あんたは生きているだけでも価値がある。価値がない奴なんていないって言ったのはあんただ」
藤堂は子供たちに武道を教える際にそうした精神論を説いた。青臭くて偽善に満ちていたと切って捨てたそれを卜部は心に留めていた。
藤堂はとさりと卜部の胸に顔を伏せた。あふれる涙の熱さだけが鮮明に灼きついた。
「お前がいてくれるというのが、ひどく、嬉しい…そう言ってもらえるのがこんなに、嬉しいなんて思わなかった…」
「俺はあんたにどんな理由があっても死んでほしくない。生きてりゃあ挽回することだって雪ぐことだってできる。だけど中佐、死んだら終わりなンすよ。死んだらもう何もできない。だから俺はあんたに生きていてほしい」
「だからお前は優しいと、言うんだ…」
藤堂は溢れるままに涙した。卜部はただ優しく髪を梳くように撫でた。
「私は赦される、というのか」
藤堂はひきつる喉で泣き声をこらえた。抱きしめてくれる卜部の腕のぬくもりだけがひどく温かくて。
《了》