その優しさに殺されるなら
05:あなたの優しさはきっといつか僕を殺してしまう
藤堂は振り返る眼差しの痛みを感じながら通路を駆けた。夜着として使っている単衣の裾の乱れを気にする余裕もなく長い脚を惜しげもなくさらして走る。紺絣に藍鼠の男帯をしめていつもなら合わせも襟もきちんとしているのだが襟は乱れて裾の広がりも気にしない。きょろきょろとあたりを見回してから軽やかに方向を変える。曲がり角も減速しない。はち合わせた人々は藤堂の慌てふためいた様子に言葉をかけるのも忘れて見送った。駆けている時間が長いのか肩が上下に揺れ、その頬も赤らんでいる。藤堂は目的の部屋につくと慌ただしく呼び出し音を鳴らした。
藤堂が現在属している非合法団体である黒の騎士団は新興組織だ。設備も比較的新しく団員の部屋にも施錠が可能なタイプだ。藤堂はその時になって初めて自身をかえりみた。襟を直し裾を引っ張って何とか体裁を整える。かすかな空気圧の音をさせて扉が開くと、長身の藤堂よりさらに長身の卜部が顔を出した。
「中佐? もう寝てる時間ですよね?」
呆気にとられている卜部の痩身を腕力で押しのけて部屋へ入りこむ。卜部は藤堂の腹心とも言える四聖剣の一人だ。藤堂の性質など列挙できるほどに承知している。藤堂は元来無茶を通す性質でないことを知っている所為か、事情を配慮してされるままになっている。卜部は黙って藤堂を受け入れた後に扉を閉めた。
「本当にどうかしたんですか? 中佐がこんな時間に出歩くなんて珍しい…」
卜部は何か飲み物でも用意するべきなのかと見当違いなことに頭を悩ませた。藤堂の方は扉の施錠を確かめてその場にへたへたと座り込んでいる。何より厳しく己を律する藤堂の珍しい醜態に卜部は子供の悪戯心のような優越と至福を感じた。
「卜部」
「はい?」
鳶色の髪が乱れてその秀でた額にはらはらと落ちている。凛とした眉はいささか情けない有様になっているが蠱惑的な灰蒼の瞳が誘うように潤んだ。赤味を増した唇がわなないてとんでもない言葉を吐いた。
「私を助けてくれ…!」
「え、た、助けるって、それどういう」
卜部は四聖剣に名を連ねてこそいるが十人並みだと自覚している。ほかの朝比奈や千葉と言った面々の方が個性が強く我も強い。卜部は藤堂の手を煩わせるような不祥事を起こしたこともなく、印象にも薄いはずだ。そんな己に何を求めるのかと卜部は一瞬言葉を失った。
卜部がさらに問いただそうとした瞬間、無粋な呼び出し音が盛大に響いた。藤堂はさっと顔色を変える。慌ててバスルームへ飛び込む。藤堂の姿が完全に消えたのを確認してから卜部は呼び出しに応じる旨の手続きを踏んで扉を開いた。目の前には全速力で走ってきたのか呼吸の荒い朝比奈が仁王立ちになっていた。
「…何お前。なんかあった」
「藤堂さん知らない?!」
推測するに藤堂はこの朝比奈から逃げていたのではないかということにはすぐに考えが及んだ。朝比奈は日頃から藤堂への好意を隠そうともしないし、むしろその深さを自慢している傾向がある。寝床を共にする回数も片手では足りないだろうことがすぐ知れる。卜部はさらりとしらばっくれた。
「知らないけど。俺のとこに中佐が来るのかよ」
「…だよねぇ。でももう心当たりが…藤堂さん、どこ行っちゃったんだよ!」
なんだか妙に切羽詰まった朝比奈の様子に卜部が怪訝そうに目を眇めた。それにしても藤堂が卜部の所へ来ないということにこうもあっさり同意されるのも四聖剣としてどうかと思う。妙に物悲しい気持ちになった卜部に気づかず朝比奈は駆け出して行った。
扉を閉めてバスルームへ立て籠ってしまった藤堂をどうしようかと思案してすぐにまた呼出音が鳴った。朝比奈が引き返してきたのかと用心深くなった卜部の目に映ったのは四聖剣の紅一点である千葉の姿だった。扉を開けば千葉は遠慮なく扉から見渡せる限りの部屋の内部をじろじろと見た。
「…なんでこうも来客が多いんだ。何か用?」
「中佐…否、朝比奈はどこへ行った」
卜部は片眉だけぴくりと上げて目線を泳がせた。通常時の卜部を詳しく観察するものは皆無で多少の相違は見過ごされがちだ。卜部の立場ならよほど挙動不審にならない限りその差異を見とがめられることはないだろう。
「中佐じゃなくて朝比奈? 朝比奈なら、あっちに猛ダッシュして」
「すまない!」
卜部が指差す方向へ千葉が一気に全速力で駆けだして行った。嘘は言っていない。朝比奈が駆けて行ったのは真実そちらの方向だ。小さくなっていく後ろ姿を横目に卜部は念入りに扉を施錠する。呼びだしも拒否するように設定した。就寝していてもおかしくない時間帯だ、煩わされるのを嫌って拒否体勢に入っているとでも思われるだろうことは計算のうちだ。
バスルームの方を見てから卜部は備え付けの椅子に腰をおろした。藤堂はあれで頑固な性質だから納得するまで出てくることもないだろう。読みさしの文庫本を開いて時間をつぶそうと決めた。そのうちにシャワーの水音がしてきた。なおさら藤堂が出てくる見込みは薄いとみて卜部は上着を脱いで息をついた。すぐに就寝できる格好になって字面を追う。しばらくそんな風に時間を潰していたが藤堂が一向に出てこない。湯船につかっているわけでもないだろうに何が原因なのかと卜部の目線がバスルームと時計との間を行き来する。卜部は本を放り出すようにしてバスルームへ向かった。
「中佐、入りますよ!」
藤堂はシャワーを浴びていた。その水流に手を突っ込んだ卜部が顔色を変える。浴室を使う際の肺が圧迫されるような水蒸気に噎せる感覚がないことに気づいた。怪訝に思ってよかったと卜部がひとりごちた。
「何してるんですか! 水ですよこれ!」
冷水を着衣のまま頭から浴びている藤堂は動こうともしない。濡れたほつれ毛の先から流れるように雫が落ちる。卜部は冷水から温水へ一気にスイッチを切り替えると浴室を飛び出してタオルと着替えを用意する。藤堂の手がカタカタと震えながら給湯のスイッチを切る。シャワーから滴る雫が藤堂の体を濡らす。卜部はすぐにタオルで包んでやると髪を拭ってやる。
「中佐、すぐに着替えて、体拭いて…何してるんですか、朝比奈達が聞いたら怒りますよ」
ピクンと藤堂の体が震えた。
「卜部」
藤堂の手が卜部の手を押しのける。同時に唇が重なった。冷水を浴びていた藤堂の唇は凍てつくような冷たさで、卜部が衝撃と同時に身震いした。潤んだ灰蒼の瞳が眼前に見える。バランスを崩して倒れこむ勢いに乗って藤堂が体重を預けてくる。
「中佐、何か、あったんですか。中佐らしく、ないっすけど」
藤堂は恥じらうように目線をうつむけると唇を引き結んだ。尖った喉仏がこくりと動く。
「朝比奈に…媚薬を盛られた」
「解毒剤探します!」
藤堂を押しのけて卜部は部屋中を引っ掻きまわした。呆けたように卜部を見ている藤堂の唇がわずかに開いていて蠱惑的だ。灰蒼の瞳も過剰な潤みを保ち、常ならぬ藤堂の様子が全身からにじみ出ている。
「…ない、と思うが」
いたって冷静な藤堂の言葉に卜部がぎくりと動きを止める。そもそも媚薬などと言う常ならぬ薬の解毒剤を常備しているのもなんだか嫌な話だ。嘆息して向かい合おうとした卜部の背に濡れた重みが乗りかかった。濡れた単衣の裾が視界に入る。首へ絡みつく腕は十分な筋力と瞬発力を有しているが見苦しいような感覚はない。濡れてひたひたする皮膚がまさに吸いつくようだった。
「…卜部、もう判っている、だろう」
耳朶でささやくのはまさしく悪魔のささやきだ。熱っぽい吐息が卜部の抑止力を失わせていく。卜部の縹色の髪に顔をうずめてから、藤堂は猫がやるように頬をこすりつけてくる。卜部のうなじに藤堂は艶っぽく吸いついた。
「私が如何してほしいか、判るだろう? 浅ましい――実に浅ましい、姿だ…」
卜部は振り切るように体を反転させると藤堂をかき抱いた。濡れた単衣はひたりと張り付いて藤堂の体のありようを教える。それは皮膚のようだと詮無いことを思った。紺色の単衣は深みを増して藍色や群青へと色を変える。
「…中佐、冷たいんですけど」
「私は…熱く、て。熱くて、たまらない…!」
卜部の喉がごくりと鳴る。その振動すら感じ取ったかのように藤堂が笑むのが気配で判った。卜部は目の前に散らかった文具や帳面をむやみに睨んだ。藤堂の指先が揶揄するように卜部の頬を撫でてから首をたどり、下部へと降りていく。
「…すれば、いい」
「――…!」
息を呑む卜部の様子に藤堂の苦笑が耳朶を打った。
「――お前は、優しいんだな」
卜部は藤堂の腕を振りほどくと体を反転させて藤堂の腕を引いた。倒れこむその勢いに乗って唇を重ねる。床の上へ横たわった藤堂は妖艶に笑った。乱れた裾が長い脚をあらわにして襟が乱れて腹部まで覗いた。帯を解けば藤堂は承知したかのように腕をからめた。重く湿った裾が落ちて肌があらわになる。
「俺は優しくなんてないです。俺、結構性質悪いんですけど。…いいんですか?」
「…私だって真っ当ではない。だいたいにして媚薬を盛られる男が真っ当だと思うか。私は、もう…」
藤堂の灰蒼の瞳が潤みきって針のような微小な穴でも開けばそこから崩れて行きそうだった。泣き笑いのように藤堂が苦笑した。ひどく痛いようなそれに卜部は眉をひそめた。藤堂が負った歴戦の傷よりその一太刀が深い。その一太刀は表層を突破して深部を切りつけ犯していく。
「私はもう…実に――実に浅ましい体だ。指導者たる資格などない。私は、ただの」
卜部はそこまで聞くと塞ぐように藤堂に口付けた。言葉が喉の奥へ飲みこまれていく。
「…卜部?」
「もう何も言わないでください。俺だって真っ当とは言えないんですから…でもきっとそんなのは普通なんですよ」
「お前は本当に正直で…いいヤツなんだな。人気もあるだろう」
「ありませんよ。いい人で終わる性質なんです。ただの臆病な奴ですよ」
あと一歩深みに踏み込むのを躊躇する。藤堂との関係はそれをよく表してもいる。藤堂と表面的に付き合うのは案外楽だ。朝比奈のように深部に踏み入るには疲れる性質なのだ。藤堂は表面的な付き合いの輩には深部を見せない代わりに心を許せばその重責すら解き放ってしまう。深部をさらしたときの人間に対する失望を藤堂には抱きたくなくて避けてきた。けれど藤堂はそれすら突破して卜部の深部へ入りこんできた。
「私の方が、性質が悪いかもしれないぞ」
卜部の思考を読んだかのように藤堂がうそぶく。卜部は息をついてから藤堂の喉元へ唇を寄せた。震える喉の振動は藤堂が男性であることを明確に伝えてくる。
「中佐ならいいですよ、俺は好きですから」
「…お前は、本当に優しいな」
「優しいだけで終わるんですから意外と困りもんですよ」
飄々と言ってのければ藤堂が楽しげに笑った。その笑顔に卜部の体も緩む。緊張が解けて程よく脱力する。指先など末端器官が柔軟さを取り戻す。
「…お前のような奴を伴侶に持てたらいいかもしれないな」
「…それ、朝比奈の前で言わないでもらえますか。俺が殺されるんで」
「朝比奈? 何故だ?」
卜部は黙って藤堂の灰蒼の瞳に口付けた。潤んだそこからぽろぽろと雫がこぼれる。痛がるように体をよじる藤堂を抱きしめて舌を這わせた。
「い、たい…なん、だ?」
「少ししょっぱいっすね。泣いてました?」
人を食ったような卜部の問いに藤堂は目を瞬いたがすぐに妖艶に笑んだ。下腹部へ指先を這わせて蠱惑的に微笑する。普段が禁欲的な藤堂のそう言った表情はいともたやすく興奮をあおった。
「言っただろう、媚薬を盛られたと。…はやく、してくれ」
卜部は噛みつくように口付けてからベルトを緩めた。
君にされるならきっとすべてを赦せるだろうから
君になら、君にこそ
私は殺される
《了》