有か無か
手に入らないならば?
03:満たせないならばいっそ壊してしまえばいい
バタバタと部屋の外を忙しく駆ける足音に卜部は目を覚ました。寝起きのぼやけた意識はただ茫然と駆け去る足音といくらかの間をおいて戻ってくる足音とを聞いた。床を蹴るタイミングが同じ間隔であることをぼんやり考えながら再度眠りに就こうと毛布をかぶった。眠りに落ちる直前の奇妙に鋭敏な感覚は足音が部屋の前で止まったことに気づいていたが重要性には思いいたらなかった。茫洋とした、自室の前に人がいる気配だけを感じる。携帯用の通信機器は耳障りな電子音でメールを受信した。むぅなどと唸りながら寝ボケ眼でメッセージを表示すれば、それはともに死線を潜り抜けたいささか厄介な同僚からのものだった。卜部たちの上官である藤堂の所在を問うメッセージを卜部は黙殺した。藤堂を過度に慕う朝比奈から、藤堂は時折逃げ出す。朝比奈は結構執拗な性質で自分のものは確実に縛りつけておきたいタイプだ。その拘束が度を超すと藤堂は朝比奈の元から逃げる。藤堂自身、拘束しないしされたくない性質だ。藤堂が部下である四聖剣の面々に何事か無理や無茶を言うことはない。自主性を尊重してくれるし意見も聞く。
通信機器を放り出して枕にぼすんと頭を乗せると見計らったように呼び出し音が鳴った。毛布から名残惜しげに長い四肢を這いださせて起き上がる。卜部は相手の確認もせずに施錠を解いた。朝比奈が焦れて駆けこんできたのだと高をくくっていた。彼は直情的で行動原理も読みやすい面がある。だがそこにいたのはまだ年若い朝比奈ではなく、卜部がひそかに想いを寄せる藤堂だった。唖然として固まる卜部を藤堂はきまり悪そうに上目づかいで見た。藤堂も長身だが卜部は藤堂の上をゆく数少ない人間だ。
「…めずらしい、っすね…朝比奈から逃げてるんすか」
藤堂は小首を傾げて眉を寄せた。普段が精悍で人を寄せ付けないだけに何気ない仕草が映える人だ。
「朝比奈? いや、今日は時間がないと言ってあるはずだが」
どうも齟齬がある。卜部は朝比奈の言葉から藤堂が例のごとく逃げ出したと思っていたが違うらしい。卜部は間抜けたタイミングで体をよけて藤堂を部屋に入れると扉を閉めた。藤堂はまっすぐ寝台に腰かけてしまって卜部の居場所がない。藤堂にとって男の部屋で寝台に腰かけることに深い意味などないのだ。
藤堂の体がわずかに揺らいでいる。その時になって初めて卜部は差異に気づいた。ほんのり紅をさしたような目元や頬。特殊な香りはそれがなんであるかすぐに判った。
「…酒」
天を仰ぐ卜部を藤堂は茫洋とした表情で見つめている。いつもならきちんとしている襟や裾が乱れているのはその所為だろう。朝比奈に飲まされたのかもしれない。朝比奈は年若くそれ故に手段を選ばない。
「朝比奈に飲まされました?」
「…否、自分で少し、飲もうと思って」
「どんくらい飲んだンすか」
ぽぉっとした表情の藤堂が立っている卜部を見上げる。くっきりと浮かび上がった鎖骨や細い腰のラインが目を誘う。指折り何かを数えていた藤堂だが途中でそれを放棄した。
「…判らない。気づいたら周りはみんな潰れていて。誰か吐いていたが」
「部屋で休んでください」
藤堂は飲酒しても顔に出ない性質だ。その所為で周りが限度を越して飲んだり飲まされたりするのは日常茶飯事である。元々表情の変化が乏しい藤堂は酒を飲んでも乱れることはない。要するに変化に気づきづらい。
きっぱり扉を指差す卜部に藤堂は珍しく不満げな表情を浮かべた。
「朝比奈は部屋で休んでいくといいと」
「俺は朝比奈じゃないっす。部屋に戻って鍵かけて水飲んで寝てください」
酒でタガの外れた獲物と枕を並べて何もせずに眠れるほど卜部は聖人君子ではない。加えて酒の効果で藤堂の皮膚はほのかに染まって艶を増している。堪えきれる自信が卜部にはなかった。藤堂はそれでも不服そうに唸ると毛布をかぶろうとする。
「あんた本気でいい加減にしてくださいよ?!」
ばりッと毛布を奪う。藤堂は大切な存在であり、自制のきかない状況下においておけるほど図々しくもなれない。毛布を奪った卜部にその勢いのまま藤堂が唇を重ねた。腕が伸びて卜部の首へ絡んで引き寄せる。重ねた唇は熱っぽくアルコールの味がする舌を絡めてくる。よく馴染んだその味は今どき珍しい日本酒だ。ほのかな甘みの後にびりりとくる酒の強さに目眩がした。卜部の決心がぐらりと揺らぐ。
離れていく舌先を銀糸がつなぐ。燃えるような紅いそれがスゥッと唇の間に吸い込まれていく。普段の藤堂からは想像できない挑戦的な笑みを浮かべて唇を舐める。
「朝比奈とは、違うんだな。焦りもしないか」
卜部は口元を引き結んで藤堂を睨んだ。卜部が必死に自制していることを承知の上なのだから性質が悪い。藤堂は相手の心情を慮れないほど野暮でも馬鹿でもない。礼儀作法にも厳しく戒めにも手加減を加えたりしない。必要とあれば手をあげる。
「…殴られたくなかったら部屋ァ戻ってください。あんた仕込みだ、厳しいっすよ」
藤堂は肩をすくめたが試すように卜部を見上げた。絡めた腕に体重を乗せてしなだれかかってくる。瞬発力もあるしまった体躯はしなやかに躍動する。
「卜部、お前は私に欲を感じるか?」
何でもないことのように問われたその内容に応えきれずに卜部は沈黙した。感じないと言えば嘘になる。だがそれは真っ当な男として認めるには多少の度量が必要だ。卜部は自分がそんなに大きな器でないことは知っているし、性別を超えた好意を得られているとおごる気もない。結果として沈黙した卜部をどう見たのか藤堂は灰蒼の目を伏せて笑った。
「私は欲を感じる…お前を欲しいと、想うことがある。肌を合わせる意味合いでほしいと思う。軽蔑してくれて構わない。私は、お前を」
目蓋を震わせて瞬き、濡れた睫毛が見えた。灰蒼の瞳はこぼれそうに潤んで震え、瞬く。
卜部は想定外の事態に茫然とした。真っ当ではないと自覚しているこの感情に、藤堂は好意的に応えあまつさえ寄り添う気でいる。支障なくこの想いが受け入れられると思っていなかっただけに驚きが先に立つ。藤堂は自嘲するような蠱惑的な笑みを見せた。口の端をつり上げるそれは普段からは見られない。
「私はお前達が想うほど清廉ではない。もっと、俗物だ」
卜部に抱きつく腕に力がこもる。甘く爪を立てるのは反応が鈍い卜部に対する抗議だろう。卜部は力を抜くと藤堂の髪をわしゃわしゃかき混ぜた。硬い鳶色の髪がてんでバラバラの方向を向く。
「なんだ」
「可愛いなーって思っただけっす。俺も俗物なんで」
拗ねたように目を反らす藤堂の様子に卜部はクックッと喉を震わせて笑った。不意に灰蒼の視線が卜部を射抜く。鋭い切っ先を思い起こさせるその刺激が卜部の体を震わせる。
「私はお前を多少なりとも掌握しているつもりだが。――壊す自信も、あるぞ。他者に渡したくない故の破壊衝動は共感する部分もある」
藤堂の煌めく灰蒼の瞳に卜部の茶水晶の瞳は甘く見つめ返す。その類いの衝動を抱かなかったとは言えない。覚えのある後ろめたさに卜部は微笑した。
「壊れてくれるンすか? 俺のために。そしたら一生面倒みますけど」
掴んでいた毛布がかすかな音をさせて床に落ちる。藤堂は卜部の首筋へ甘く唇を寄せた。脈打つそこへ軽く歯を立てる。食い千切れば致命傷になりえる位置を簡単にさらす卜部に藤堂は口の端をつり上げた。
「お前が一生私の面倒を見てくれるのか? …酔っているな、戯言だ」
卜部は藤堂の頭を掴んで引き寄せると噛みつくように口付けた。唇に歯を立てれば藤堂も噛みついてくる。そのまま寝台の上に押し倒すのを藤堂は受け入れた。
「共に壊れてくれる気でもあるのか? 一緒に、壊れて」
言葉の続きを喉の奥に呑み込ませて唇を重ねる。藤堂の表情はひどくはかなげで泣き出しそうに頼りない。先陣を切る藤堂らしくないそれに卜部の意識はかき乱された。藤堂は後方支援もするが、本来は最新鋭の機体を上手く駆って先陣を切る。それだけの自信と裏打ちされた能力の持ち主だ。
「…反則っすよ、そんな顔。普段は見せもしない、癖に」
「どんな顔だか見当もつかないが」
藤堂のしゃあしゃあとした言い草に卜部は顔を背けて噴き出した。時折見せるこう言った子供じみた仕草が鼻につかないのは彼の才だろう。藤堂は実直な性質でそれがそのまま対人関係に現れる。時折表現や言葉が足りずにもめるが、それで駄目ならば構わないと切り捨てる潔さも見える。相手の限度を超えないその配慮は時に冷徹さとして見られる。
「俺はもうとうに壊れている気がしますけどね」
「至極真っ当なのだと思っていたんだが。お前こそ性質が悪いな」
「あんたこそ性質が悪い。そうでないものまで引きずりこむンすからね」
「さて、そうだったかな」
藤堂の微笑の振動が伝わってくる。卜部はもう一度噛みつくようなキスをした。激しいそれにも藤堂は厭うことなく腕に力を入れて応えた。互いの拍動が意識を埋めて心地よく意識を振動させた。
《了》