※最終回後パラレルです


 何度もその都度、新しく


   桜恋

 不意に一緒くたにされて別れは突然で、だから忘れられなかったのだと思う。考え方や好みがわかってきた。水面下に抑えつけられていた情欲は唐突で一方的な別れに啼いた。ただの未練だと識っていた。相手から同じだけの感情を得られると信じるほど葛は楽天家ではなかった。自分が好きなだけでいいし墓場まで持っていくつもりだった。独りで想って独りで死ぬ。生まれた時から踏みしめた足場が崩れてこの世界に身を投げた時から崩壊していた葛を新たに立て直した人を経験という踏み台にすることが出来ない。不器用にも程があるし事と次第によっては迷惑なのだ。馬鹿だとも思う。それでも。
 沓脱ぎの履物をつっかけて庭へ出る。俺が一生弔うと決めた男は生還した。ありふれた嫉妬や疑いや諍いを繰り返した。面倒だ腹が立つと思っても、その男と行う全てはまるで不自由で秘密に満ちたあの頃のようで。どこかで葛は安堵や心地よさを感じていた。またこうしてこの男と口が利けるだけで。食事を出来ること。共に寄り添って眠ることが出来ること。思い出すように繰り返す閨でさえも。甘く染みてくる快感はまるで喪失をはらむ。しゃぶるように葛はそれを味わいながら独りで泣いた。歓喜と謝罪を繰り返す。感謝します、ごめんなさい。ざわりとそよいだ風に色がついて葛は桜吹雪のもとに居た。黒土の地面は淡い紅で白く染まり不意に色づいた。盛りを迎える桜の古木は葛さえ掻き消すほど密に花弁を震わせ降らせた。なんの用事か忘れたが葛は何かの折に売られているこの木を見つけて買い求めた。理由はあった。降り注ぐ花弁は、それでも空に開く孔はなく桜色の天井と床がある。桜は古木の方が映える。形が良いし花も咲く。若木は新鮮というより青臭い印象が先立つ種類なのだ。矯めも効く。こうと思う形に矯められるから技量が問われる花材だ。
 茫洋と佇む葛に桜が微笑った。楽しそうに笑む口が見えると思ったら葵だった。
「回り込んだの見えてただろ? 気づかなかった?」
幹へもたれてしなやかそうな体躯をそらす。短くて明るめの肉桂色をした髪。うなじを見せるほど短くするのは離れていても変わらなかった。暑くもないのに袖をまくったりシャツの裾を外へ出す。腕時計の盤面の硝子が不意にきらめいた。どうしたの、これ。これ?
「この桜だよ。大陸じゃあ見ないと思ったのにこんな古木が植わってるから驚いたよ」
「植えた」
見れば判るよ。随分確り根を張ってるな。葵の靴先がトントンと張り詰めた太い根をつつく。
 一方的な出会いと別れと再会を、葛はこの葵を相手に辛酸を嘗めるごとく骨身にしみた。真っ当ではない組織に雇われ、実力と特殊能力の証明と顔合わせを兼ねた初仕事。面識はおろか予備知識さえなく同居を申し付けられ、なおかつ不自然さはないようにと厳命された。取り繕いとして葵と葛は写真館の共同経営という地位とくくりで大陸に居座って任務をこなした。相手が住処を空けることさえ頻繁で、横のつながりは嫌われたから素性さえよく知らない。互いの特殊な能力だけは思い知った。葵は使用を躊躇わないし、実戦では使わざるをえないこともままあった。いつのまにか生まれていた感情はひどく勁く二人を結んだ。ぎりぎりの線を保っていた組織と任務と仕事は崩壊し、二人は所属母体を喪失した。爆散が目前に迫った機体の中で、瞬間的な移動ができる葛が逃げようと言った。葵はあっさりとそれを拒んだ。機体は恐ろしく危険で甚大な凶器をはらんでいた。物理的に遠距離へ物を弾き飛ばす能力を持つ葵が、オレがこれを遠くに飛ばすと決めた。躊躇した葛を突き放した葵と、それきりだった。木々をかき分けて地面へ焦げ跡を残す機体の破片の中を葛は這った。肉の焼けた臭いはなかった。死体に出会わない幸運と生きてるかもしれない希望は、同時に短く長い沈黙と辛抱を葛に強いた。
 二人で営んだ写真館を葛はたたんでこの家を買い、越してきた。行方知れずの葵を待つという理由をつけて葛は大陸から離れなかった。葵は帰ってきてくれて。肺を少しと言って葵はしばらく血痰を吐いたり咳を繰り返したりした。今ではそれも稀になるほど回復した。慌ただしさや焦りが消えた今、葛の体は行き場をなくして移ろった。
「ねぇ、なんで桜なんか植えたんだ」
「見かけて欲しいと思ったからだ」
「いらないものを植える習慣は知らないぜ。…桜って、軍隊を思い出すよな」
唇をとがらせる葵の言葉に葛は初めて己の旧所属に思い至った。予科生として成績優秀で賜り物さえあったのに綺麗サッパリ忘れていた。
「それは関係ない」
ふぅん、そう。矛先をおさめても葵は葛を見据える。榛色の聡明な目が葛を窺い見る。人付き合いは葵のほうが上手だ。近所への挨拶回りや付き合い、客あしらいをおおかた葵が担っていた。葛が意味のないことをするなんて想像できないな。なぁ、本当に、どうして?
 葛は不意に燃えるように紅潮するのを自覚した。頬が火照り、耳は千切れそうだ。見開かれた目が潤む。戦慄く唇を噛み殺して呻きを呑んだ。堪えるのは得意だ。ただ葵にはなぜだか軒並みバレる。葵はすぐさま嗅ぎつける。ほら理由がある。怒らないし馬鹿にしないから教えてよ。桜の古木なんて高価いはずなんだよ、ねぇ、なんで? 降り注ぐ淡い紅が葛をかき消してくれたら良かった。退こうと思うのに葛の履物は踏みしめた花弁から退かない。切り取られた桜の世界で葵は葛の言葉を待っている。
「植えるものがなくなったから、見かけて、これが好いと、思ったんだ…」
葵の目が傍らの桜を見上げる。随分思い切った買い物するなぁ。焦燥と哀切と安堵で葛は目を伏せた。黒く密な睫毛が葛の白い頬へ憂いを落とす。白磁の額をあらわにして墨染の黒髪を整える葛のなりを葵は横目で眺めている。葛の肌はシャツに負けないほど白い。具合を悪くすると青白くなる。
 「本当だけど全部じゃないな、それ」
葛の指や肩が跳ねた。あっさりと見抜かれた己の不手際と同時に見抜いてくれた葵に歓喜が湧いた。教えて。じゃないとひどいことするよ。桜色の爪が白い掌をえぐる。慄える朱唇を葵の目線は捉えて放さない。
「…お前、がいなくなってから。ここを買って、庭に樹や花を植えた。盛りをお前と見れたら好いと、詮無く、思っただけだ…」
一つの季節をすぎるごとに、来年見よう。一つの巡りを経るごとに、次は見ようと繰り返す。葵との離別はひと月やふた月ではない。生活費の捻出に喘ぎながら手を止めて庭を眺めた。あの花の時期の頃には葵がいるだろうか。散花を見ては次は見れると好いと。新たな花の蕾を見つけるごとに、ほころぶ頃にいると好いと。葛は繰り返し植えた。大陸の土は大雑把であるし立地の相性もあって花も実も付けないものもあった。駄目になったものを取り除いてその空隙に新たな花を植えた。
「…俺の我慢など、たかが知れている。俺の我慢程度でお前が戻ってくることなど出来ないと、だから」

これが育ったらこれが咲いたら。きっと戻ってきてくれる。

葛は全て吐き出した。己の弱さだ。脆弱で胡乱な。それでもそのまま死んでもいいと思えるくらいには。馬鹿にされてもいいし呆れられてもいい。それが全部だった。
 激しく強い力が葛の体を拘束した。不均一についた筋肉を躍動させて葵が葛を抱擁した。葛は軍属として戦闘を前提にした体作りが出来ている。葵は必要な場所についたという風情で育ちと生まれの良ささえ見せる。その体が葛にしがみつく強さで抱きしめる。
「ごめん、嬉しい」
葛、大好き。葛の我慢でオレはきっと生きて帰れた。こうしてまた葛と会えて触れて抱き合える。葵の声は優しく葛の鼓膜を震わせる。葵の声が震えているのか葛が震えているのか判らない。振動は快感だった。葵の脇腹で移ろっていた葛の手が葵の背を掴む。葵は逃げも嫌がりもしない。勁く抱きしめ返す。
「一度死ぬのも悪くない」
「…は? 葵、俺は」
憤りで燃える葛の方へ俯せて葵が笑った。目元や顔は角度や視界の関係で葛には見えない。葵はよく葛に隠れて菓子を食ったり不始末をやらかした。葛は死角でさえ相手を窺うくせがついている。葵の肉桂の髪が流れた。刈り上げたうなじは灼けている。シャツの白い襟が際立った。耳の裏からくぼみを撫でて流れるうなじはなだらかだ。
 「葛、オレは一度死んだよ。でも葛がもう一度オレを生かしたんだよ」
だからオレはお前に会いたかった。お前に触れたかった。お前と暮らしたかった。お前を、見たかった。
「待っていてくれないって思ってた。それでいいんだって。あの状況でオレが生きてるって仮定するほうが難しいよ」
葛が幸せならオレを忘れてくれても良かったんだ。でもオレは一度だけお前を見たかった。お前が誰かお嫁さんをもらって子どもと遊んでても良かった。葛が幸せに暮らす姿が見れたらオレは生きていけるよ。……待ってて、くれた、なんて。

オレの世界はもう一度、色を取り戻した

「あおい」
葛の指先が肉桂の髪を梳く。葵の指が葛の黒髪を掴む。頬を寄せあって首筋へ顔を埋める。なんて、幸福。なんて、愉悦。閉じた目蓋からホロホロと溢れるものがあって、それが互いの襟を濡らした。濡れた睫毛は葵に見えない位置で艶めいて、這わせた指先から葵がそれを識る。葵の強い腕や指先に背中を震わせて引き付ける肩甲骨の痙攣に快感の震えを得る。熱を呑み込む時よりずっと禁忌で快く甘く芯まで染み渡る。シャツも皮膚も突き抜けて葵の熱が判るのだと思うとそれに呑まれて死んでも良かった。お前が侮蔑でも憤りでも良いから見ていてくれるなら死ねる。
 「泣かないで」
不意にかけられた言葉に葛が息を呑む。零れそうな涙が目縁にとどまった。豊かに潤む眼差しで葵を見据えると真摯に見つめ返す葵の榛と目が合った。
「お前が泣くのが耐えられない。オレの体がどうなってもお前が泣くのだけは」
あぁ、でも。でもやっぱり葛が泣くのは辛いな。お前をはねつけて一人になって、お前に辛い思いをさせたかなって、あれが一番辛かった。葛は一人で抱え込むから。辛かったら泣いてよ。痛かったら言ってよ。オレたち一緒に暮らしたんだよ? 遠慮なんかもう、するなよ。

お前の全部が好きなんだ。腹を立てても嘆いてもオレはお前を好きなんだ

ざわりと鳴った桜吹雪の中で葛は腕を伸ばして葵を掴んだ。白いシャツを掴み背に爪を立てて葛は吹雪を浴びながら葵を掴んだ。淡雪の紅が二人を包む。履物が踏みしめる地面は薄紅が積もって境界線さえ見えない。散らして揺れる花さえ見えずにただ桜色がざわざわ鳴って梢を揺らし花弁を散らした。
「綺麗だよ、葛」
キスする間さえ惜しいくらいに。
 葛から口付けた。朱唇が葵の桜をついばむ。葵は灼けた皮膚だから葛ほど紅さが目立たない。それでも健康的に膨らむ唇は彩る。葛の白い指が葵の頬を抑えて何度もついばんだ。爪を立てて頬に赤い線が引かれても葵は気にも留めない。あ、お、い。食みながら紡ぐ言葉の意味を葵は正確に読み取る。微笑う。
「オレは桜でいいや」
「あおい?」
「散っても散っても、また咲くよ」

繰り返す。
君のもとでオレは
何度も散って何度も

「また、咲うから」
だから葛も、咲って?
淡雪の紅に吹かれて。葵が、咲った。
「あ、お」
散る嬉しさと咲う切なさに泣いて。葛は涙した。透明な滴は白い頬を滑る。舞い散ってかぶさる花弁が葛の頬へとどまる。葵の指先は静かにそれを摘む。葛は葵の頬を抑えて食むように唇を重ねた。
 薄紅の切り取られた世界で。ふたりきりだった。二人だけの城だった。世界は終わる。葵と葛しかいなかった。それでよかった。それがよかった。このまま朽ちてしまえば良いと、思った。二人は二人のためだけに生きていく。老いても刹那に生きていく。
「三好、葵」
「伊波葛」
二人だけに通じる暗号だ。この名前はきっと埋もれて消える。その名前こそがふさわしい。

桜が散るようにまた咲くように
おれたちは泣いて咲って

くりかえす

お前が好きだと、言うこと


《了》

酔っ払いすぎ          2013年5月5日UP

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