スキダヨ
たまにしか言ってくれないくせに
濡れ鼠と猫
天気予報など当たらない。だから葵は機材のほかにはから手で出張先へ出向いたのだ。歓待を受け挨拶を済ませる。わりとフランクな家庭で安心した。格式を求めるような家柄の客には相棒の葛が出向く。彼の持つ堅実そうな空気が場に合うのだ。一度どうしても手が足りずに葵が出向いたが結果は互いに散々な有様だった。葵の気遣いはことごとくからまわる上に相手の要望や不快を買ってしまう点が判らない。お互いに疲れるだけで何とか写真を撮ると挨拶もそこそこに葵は早々に帰路についた。今回はそういうこともなく滞りなく事も済んだ。空模様が怪しいから雨宿りして行ってはと言われたが、商品や機材を防水梱包しながら断った。忙しいわけではないが珍しく裏稼業の方が閑古鳥なのだ。必要であれば何週間も顔を合わせられない愛し人と一刻でも長くともに居たかった。葛は口や顔にこそ出さないが、天気が変わりそうだから早く帰って来いとだけ言った。
葵の方から思いを告げて始まった関係だ。同性同士であるから役割分担で揉めたが葛が頑として譲らないので葵が折れた。もともと葵にはそこまで強固に守りたいものはない。まったく違う価値観や文化圏へ居を構える留学経験者としてある程度の柔軟性は備えている。男に犯されるくらいで男でなくなるとは思わない。自我を守る上で大事なのはとにかく死なないことだ。死んでは元も子もない。留学先で危ない目に遭ったら抵抗せずに命だけを守りなさいと母親に言われた。貞操や所持金などは潔く諦めろということでもある。葵は何度かその助言に助けられて現在にいたっている。葛はまったく違うようで自らが脚を開くなど考えただけで腹立たしいという。憤りの原因が何かを葵は知らないが深く問い詰める気もなく、なんとなくそのままだ。
防水梱包して少し嵩の増した荷物を抱えて歩く葵の頬にぴしゃと水滴が跳ねた。ぽつぽつと地面を斑に染めた雨滴があっという間にざぁあと大雨になる。この雨滴の強さは通り雨だろう。それでもこの雨は大陸が夏に近づいている証拠でもある。冷たく凝る雪や雨を繰り返してから、雨ばかり降る腐敗の季節を経て乾燥した夏が来る。腐臭の満ちる前の雨の匂いがした。
「ひゃあ」
葵は思わず機材を抱えて駆けだす。周りも似たり寄ったりだ。ちょっとした幌で作られた屋根に雨宿りを極め込む連中を尻目に葵は写真館への帰路を急いだ。雨滴は容赦なく葵の頬や眉間を打つ。髪も服も濡れそぼってずっしり重い。何度か写真館へたどりつくと表玄関ではなく裏口へまわった。こんな濡れ鼠で写真館の表に顔を出したら葛に蹴りだされてしまう。
「たっだいまー! 葛ちゃーんなんか拭くものちょうだーい」
機材を下ろして点検しながら店へ向けて大声で叫ぶ。来客がないのはまわりこむ間に横目で確認済みであるから遠慮はない。機材の点検を済ませると靴紐を解いて素足になる。靴も靴下も絞れそうなほどに濡れている。上着も脱いで軽装になる。中に着ているシャツにまで雨滴が沁み込んでいて肌が透けて見えるほどだ。こりゃあ下着まで全部一式駄目だなと葵が唇を尖らせる。熟れた果実のようにそこだけ紅い。
葛がタオルを何枚か抱えてきた。
「写真は」
「一応防水梱包して持って帰って来たけどさ。点検した限りでは大丈夫」
一枚を取り上げると乱暴にガシガシと髪を拭う。後ろ髪から垂れる雫が不意に襟内へうなじを伝って流れ込み、背中が粟立った。女でもないのに、とぶつくさ言いながら髪を拭う。あ、そうだ、葛。そう言おうと振り向いた刹那に唇を吸われた。まだしっとりと濡れそぼつ頬や頤を抑えられて逃げようもない。葛は何度も何度も葵の唇を吸い、口内を荒らし回る。
「――ッて、ちょっと! 着替えさせてよ。もう下着までずぶぬれなんだぜ!!」
あと商売道具はいいのかよ! まともな指摘だなとは葛の厭味である。普段から機材の点検や始末を疎かにするのは葵の方である。
「欲情した」
葛は良くも悪くも率直だ。言いたいことはいうし言いたくないことは何があっても言わない。頑固な性質でその上融通も利かない。そのくせ客商売を切り盛りする裏方を務めるのだから訳が判らない。裏稼業もどこかの富裕層に書生として潜り込んだり身分を偽ることも多い。それさえもこなす。それなのに葛は葵に対する時だけ頑として自分の意志を譲らないのだ。
「だったら閉館の看板くらい下げてこい! 誰か来たらどうすんだよ!」
真っ当な葵の言い分だが葛があっさりと言う。雨の天幕をくぐりぬけてまで来てくれた客なら歓待するべきだ。そうでない客は踵を返して帰るさ。だから必要ない。まともなようで真っ当じゃない。言いたいことはいくらでもあるのに葛は言葉に詰まった葵の襟を開いて濡れた衣服を剥いでいく。
「蛇の脱皮だな」
「…葛にしちゃあ気の利いた言い回しだけどさ。蛇の道ってか。でも機材は片付けた方がいいだろ?」
葛の柳眉がピクリと跳ねる。化粧したように整った顔立ちをしている。筆で刷いたように整った柳眉に切れあがった眦。目の縁を密に彩る睫毛は黒く長い。雪の滴でも乗りそうだ。整った柳眉に紅い唇。皮膚が白いから余計に唇の紅さが目立つのだ。手入れは必要最低限しかしていないという。葛のいう必要最低限とは相手に不快感を与えない清潔さと言う意味で、けして美的なそれではない。そのくせ作られた人形のように綺麗な顔立ちで葵はいつもそれに魅入られている。その隙に四肢を囚われ抜き差しならぬ場所まで追いやられる。そのうえで葛はいつも問うた。
「…いいか?」
裏口の傷んだ板張りに背を預けながら葵は力を抜いた。
「駄目っていてもやるくせに訊くんだ」
唇を尖らせると葛がふふっと笑った。葛が笑うのは珍しいことであるから葵は密やかにそれを愉しんだ。
「盛りのついた猫」
「猫はお前だ」
葛が葵を通り越して裏口の扉を施錠した。がちん、と錠が下りる。それが合図だ。葵は自らベルトのバックルを解いた。濡れそぼつ衣服を脱ぐさまは葛の言葉通りにまさに脱皮じみていて笑ってしまう。濡れた布地はひたひたと皮膚に吸いつき潤む。それをはがしていくと潤みに振られて皮膚が伸縮する。呼吸にも似たそれに葵の体はなにがしかの意味を与えて体の熱を上げて行く。濡れそぼった手で葛の服に触ると十割と雨水が沁みた。糊のきいた隙のない身なりが葵の濡れた手で少しずつ崩されていく。同時に葵の体も熱を上げつつ受け入れる体勢になる。葛の唇は紅でも指したかのように紅い。興奮している証だ。葵が見上げた天井の位置には既に葛の体が入り込んでいる。木目を数えることもできない。葛の皮膚は染み一つないまっさらの新雪のようだ。葛の体調の良し悪しは皮膚で判る。頑固な上に気丈夫だから自ら調子が悪いと葛は絶対に言わないのだ。皮膚が蒼白い時は体調が悪い。唇の紅さも鈍って混濁した紅になる。逆に具合の好い時は官能的なほどの真白な皮膚となまめいた艶を帯びた紅い唇になる。今がまさにそれだ。葛の唇は息づくように潤んで紅く、皮膚も呼吸が判るほど流動的で官能的だ。葛の手がひたりと葵の濡れた胸へあてがわれる。そこから葵は体温と情報の流出を意識した。同性同士の睦みあいであるとしてどうしても一線を越えている自覚があるからの錯覚かもしれない。そんなことがあるわけないと思うのに葵の体温が葛の体へ呑まれていく流れや、葛の冷たい体温が流れ込んでくる流動性を感じずにはいられない。情を交わすとはまさに言い得て妙だ。葛の何かが葵を犯す。同様に葛の中へ葵も何かを放っている。それも悪くないとどこか許容してしまう己がいることさえも葵は赦している。
葛がプチプチと釦を留める衣擦れの音がする。葵は全裸で寝ころんだまま行為の余韻に浸っている。
「身形をキチンとしろ。裏口からの訪いがないわけじゃないんだ」
「だったらここでしないでよ。オレの負担も考えてよ」
葛が珍しくぐぅと言葉に詰まった。半ば無理強いした自覚はあるようで、それだけで葵の留飲は下がる。葵は元来根に持たぬ男であるからその時ことが決着すればそれでかまわぬ。葛が言葉に詰まったのは反省の意があるからだと読んで葵はのそのそと起き上がり、身支度を整え始めた。まだばらばらになった四肢が連動しない。葛との交歓は体のありとあらゆる部分を解体されるかのように執拗で念入りだ。そのせいかどうかは判らないが葵はいつも行為の後、四肢の感覚が戻りにくい。どうも自分のものではないような気がしてしまう。葛に好き放題された体は葛の熱が離れても葛に指針を求めるようで、葵の意志とどうも馴染まない。凝りを解すように葵は何度も軽い体操のようなものをする。そうして初めて四肢の主導権は葵に戻ってくる。
葛は殊更葵を乱暴に扱うわけではない。むしろ細心の気を配って葵の体を抱いた。だからこそ葵の体は葛にあっさりと開いてしまうのだと思う。葵の好悪の情として、葛を嫌っていないことも影響しているだろう。権限の及ばぬ上層部の決定で一つ屋根の下に居住をともにすることになった二人だが、上層部の予測以上に葛と葵は深く結びついた。もっともそれが寄り綿密な連携を必要とする隠密や戦闘に結びついているのだから何処で何が作用するか判らないものである。
「冗談。本気にした?」
くふん、とすれたように嗤えば葛がプイと顔を背ける。耳が真っ赤だ。色白ってのも善し悪しだな、と思う。感情が丸見えだ。葵は適度に灼けた色をしているから少々の変化では変わらない。黄色人種らしく色がついているから赤面なども判りづらい。葛は黄色人種らしくなく白いのだ。だから感情の在り様がすぐ判る。葵はそれが好きだった。
「好きだよ、葛。大好き。笑ってよ」
後ろからドンとぶつかるように抱きついて首や肩へ腕を回す。裸の上にシャツをはおっただけの軽装な葵の姿は葛の劣情を煽ったが葛は行為に及ぼうとしない。
「服を着ろ。みっともない」
「脱がしといていうかそれ」
ぶー、と頬を膨らませると微笑んだ葛がそこにいた。珍しい。葛が柔らかく微笑んでいた。
「お前のいうことにも一理あるか。だがもう遊びは終わりだから恰好を直せ。お前が出来ないなら俺がする」
葵はそれはごめんだとばかりに離れた。葛が着付けたら襟の一番上の釦まで留められてしまう。普段から襟を開いている葵には耐えがたい息苦しさだ。
「判った、判ったよ」
慌てて服を着る葵に葛は声も立てず上品に笑った。獣のように激しく交わっても葛の気品は消えない。格式を求める成金がこぞって葛に仕事を頼む理由がそこにある。気品と歴史と格式。葛はそのどれをとっても非の打ちどころなく、それでいてある程度は柔軟に事をこなす。だから歴史の浅い成金が群がるのだ。
「好きだよ、葵」
紅い唇の紡ぐそれはひどく艶めいた。思わず赤面する葵に葛が意外そうな顔をした。
「慣れていると思ったが」
「な、慣れてないわけじゃない、オレだって…! ただ」
好きだ、なんて。
葛が言ってくれるなんて。いつもオレが言うばっかりだから。
「…やっぱ、慣れてない、かも…」
うむむ、と縮こまるように唸る葵に葛が声を立てて笑った。不味いな、お前と寝るといつもこうだ。余計なことばかり言ってしまうな。葛がうそぶくのを葵は黙って聞いている。葛の言う余計なことはいつも葵を喜ばせるものであればなおさらだ。そんなことはないと即座に言いながらそれは葵がそれを喜んでいるという暗示に他ならなくて、葵は自らの心情を吐露しているに等しい。その所為で気恥かしさに頬を染めることになり、それが葛を余計に喜ばせた。
「濡れ鼠と猫には親切にするものだな」
葛が不可解なことを言う。葵が首を傾げるのを見て葛はさらに声を立てて笑った。
「なぁ、どういう意味、それ」
葛は答えずに性質の好くない揶揄の笑みを浮かべたままだ。顔立ちがよいからそれでも様になる。整った顔と言うのも善し悪しだと葵は再度確認したような気がした。感情の在り様が読めない。心の中を読める少女を知っているが葵にそういった内情を探るような能力はない。壁の奥さえ見とおせる眼力もない。葵にあるのは対象物を弾き飛ばしたり物理的な衝撃を与えたりすることができるだけだ。心情や内面となると手が出ない。葛もそれを判っていて難解な暗示や暗喩を使うのだ。性質が悪いと思う。それでも葵は葛を嫌いにはなれない。
「なァどういう意味なんだよ、それ」
「さぁな」
葛の手が落ちていたタオルを拾って葵の頭をガシガシ拭う。風呂へ行って来いと促されて葵は濡れた靴や脱いだ衣服を片手に風呂場へ向かう。靴までもが洗浄しないと雨の匂いで後日に難渋するだろうことが予想されるからだ。風呂に入るついでに洗ってしまう。
「どーいう意味だかわかんないけどオレ、葛のこと好きだから」
葛はクックッと肩を震わせてさっさと風呂場へ行けと手の平を振った。
「濡れ鼠と猫にはかなわんな」
なにがしかの比喩であることは読み取れても真意までは読めない。葵に人心を読む能力はない。腹いせに長風呂でもしてやるとひたひたと張り付く脚裏で風呂場へ向かいながら葵は悪態をついた。衣服は一切合財が濡れていて駄目だった。風呂が立ててある。葛が雨に降られる葵を見こして立てたのは確実だ。だから葵は葛を嫌いになれない。しかも薬湯だ。何かの乾燥植物を網目の粗い布地に包んで浮かべてある。乾燥植物は湯を含んで少し瑞々しくなっている。
「オレも葛にはかなわないなァ」
ざぶんと湯殿に飛び込んで葵は熱情と雨に濡れて疲労した体を休めた。
《了》