オレのこと、好きになってくれてありがとう


   ずっと見てるよ

 ざらざらと舌に残る砂埃を巻き上げて馬車は轍を残していく。いまにも止まりそうな機械音を立てる車が走るかと思えばひっくり返りそうな小船が運河を行き交い、往来を馬車が走る。無秩序なようで人々は目的に応じてそれらを上手く使い分けていた。転んでもただでは起きない大陸気質には時々倦む。圧されているような気になるのだ。だが葵はそれを負担に思ったことはない。そういう図々しさのようなものは暮らしていくには重要だ。ちろり、と目線を投げる先には白い顔をした葛が座って帳面に書きつけては算盤をはじいている。字も綺麗だしこういう黙々とやる仕事が葵は性質として合わないのだ。自然と書き損じや間違いも多発して結局葛が点検するなら最初から葛がやった方が早いというもので、何とはなしにそんな振り分けが行われた。
 葵は機材のチェックをしながらファインダー越しに葛を見る。皮膚一枚で覆われたように白皙の美貌。肌理細かく滑らかな肌は日に当てたことなどないように白く、黛もくっきりと切れ長な眦は化粧を必要としない。唇だけが妙に紅い。熟れた果実のようなそこへ葵は何度も吸いついた。行為のたびに繰り返すこれを葛は受け入れてくれている。葛は服装もきちんとしているから動かないのを見ると人形じみて見える。今日はいつにも増して人形らしい。それも蝋人形だ。肌が蝋のように白い。蒼白い。それが異変なのだと気づいた葵は一人で愕然とした。葛は不調を葵に訴えることもなく作業を続けている。
「かずらッ」
いつも昼寝に使う長椅子を飛び越えて葛の机の元へ行く。がっちりと足首まで固めた短靴を履いている葵の足音がどたどた響く。葛が眉をひそめるが気にしない。もともと葛はどこかしら近づきがたいような気配があって当人にもそれを和らげる意識がみられないので、気にしていたら始まらない。だから葵は無作法で乱暴に踏み荒らすように葛の領域を犯す。
 「大丈夫か、なんだか少し顔色が悪いぜ」
半ば閉じたような目蓋は透けるように仄白い。奥に眠る黒曜石の潤みが透けて見えるかのようだ。何度か瞬きを繰り返してから葛の眼差しは葵に据えられる。葵は両手を腰に当ててふんぞり返った。日常生活において立場は対等であるが小言を喰らうのは葵で説教するのは葛と決まっているから、こうしてたまに優劣が逆転する時に葵は仕返しのようにつけ込む。
「休んでろよ。店は閉めればいいさ。狸親仁から連絡もないし」
「具合など悪くない」
葵をさえぎるように葛は静かに言い放つ。確かめのように帳面へ走るペンの速度は変わらない。それでも洋墨の滴を落とさず必死にやりくりしているのを葵は見逃さなかった。ペン先を拭う反古紙が多いのもそうだ。葛は通常であればペン先がどのくらい洋墨を含むか感覚で上手に量る。絶妙の頃あいでペン先を整え拭う。
 「嘘つけ。見てれば判るよ。葛ちゃん目蓋に血管透けてますよー顔色が青白いですよー」
茶化すように葵が言えば葛はますます意固地になって大丈夫だ邪魔をするなと応酬する。二・三度そんなことを繰り返して二人同時に爆発した。
「具合悪そうだから悪そうだねっつってんの! 病人は寝てろ! 我慢の限界でぶっ倒れでもしたらその後始末だってあるんだからな!」
「だから具合は悪くないと言っているだろう! 肌が白いのは生まれつきだ! 何度か海にも行ったが焼けずに紅く腫れただけだった。こういうみてくれなんだ、それはお前も判っているはずだろう!」
はンッ、と葵は口元から手首の返しで空気を払う。小馬鹿にしたそれに葛の柳眉が吊りあがっていく。堪えている。葛は赦されるなら葵に罵詈雑言を吐きかけているところだ。それを赦さないのは葛自身が人は冷静でいるべきであるという自己信念と精神的鍛錬の賜物でしかない。
 葵はつかつかと写真館の戸締りを始めた。がらんと乱暴に閉館の札まで下げてしまう。
「おい!」
不満げな葛など無視して葵は裏口まで施錠する念入りさだ。表通りに面した扉の硝子面には日除けを兼ねた布地を下ろす。これで写真館の内部は誰にも見られないし本当に閉館したと思われるだろう。
「勝手なことをするな!!」
激昂した葛がぐらりと傾いだ。椅子を蹴立てて立ち上がったかと思うとくらりと重心を失ってよろめく。葵が駆けよるとか裏は椅子のあった場所に座り込んで息を整えていた。吐きだされる呼気は熱を帯びて湿り、ひゅうひゅうと喉が鳴る。何度か咳き込んだ後に葛が突然立ち上がって走りだす。ご不浄だ。吐瀉している音と気配がする。
「だから具合悪いって、言ってンのに」
葵は葛の作業を中断したところで片付けを始める。ペン先を拭い反古紙を屑籠へ。帳面を閉じて所定の場所へしまい、椅子を直す。それからゆっくりとご不浄へ行くと便器にすがりつくように蒼白い顔をした葛がいた。タイが緩められて襟が開いている。千切り開けたか釦が一つ飛んでいて、葵はそれを拾うと隠しへしまった。
「だから言ったのに。いつから? 食事もとってないだろ。貯蔵庫見たから知ってるぜ」
「……二・三日前。食事が妙にもたれて…粥でしのいだが粥も駄目だな、これでは」
はぁッと葛は大きく息を吐く。堪えていたものを吐き出してしまって少し楽になったのか葵との会話が珍しく続く。
 葵がコツンと額を当てれは蝋より冷たい。それでいて玉のような汗をかいている。本格的に具合が悪そうだ。
「…隠し通す心算だったが」
「無駄無駄。オレは葛ちゃんのこと何でも知ってるし見てるんだから」
「お前には関係ないところで迷惑を」
がん、と葵が床を殴りつけた。憤怒の形相に葛の方が怯んだ。普段が明朗闊達な葵であればなお怒りにかられた目が潤んでいる。

「オレは! …葛のことで、オレに関係ないことなんてない! 葛のことはオレのことでもある!」

だから一人にならないで。だから何でも話して。だから何度も抱かれて。
肌を合わせたからだけじゃない、肉体関係なんかなくたってオレは葛を。

「葛の全部を知りたいなんて我儘だって判ってる。でもオレは葛の全部を知りたいし、オレの全部を知ってほしいよ」

しばらく静かに話を聞いていた葛の顔がいつの間にか俯いている。耳が真っ赤だ。発熱しているように紅いそれに葵の方が慌てた。
「え、ちょっと、熱あるんじゃ」
「違う、馬鹿」
 葛が怯んだ。一方的な命令と承諾と事後処理と報告。それが葛の全てであった、はずなのに。葵は葛のことも自分のことだという。恋愛経験が乏しい己には判らない。だから判る。葵は最上級の恋情を葛に注いでくれている。潤みきった眦からぽたぽた雫が垂れた。きっとこれが、嬉しい、ってこと。
 葵がじっと葛を見据える。それは咎めるというより心配そうに見上げてくる子供のようだ。葛の目から涙があふれているのを見て葵が慌てる。吐瀉で潤んだ双眸は湖面のように波紋を広げて水輪が広がっていく。
「葛ちゃん、なんで泣くの。オレ、何かした? ごめんね、ごめんなさい、すみません」
「…ちが、う。…この、馬鹿…」
ぐずぐずと鼻をすすりながら乱暴に袖で顔を拭った葛はふらりと立ち上がる。身だしなみに隙のない葛のそういった動作は珍しい。水洗で吐瀉物を流してから葛はふらふらと階段を上る。葵が寄り添うように付き添った。手は出さない。肩に触れて支えるか否かの距離感を保つ。それは葛の自尊心を傷つけない距離の取り方でもあった。
 葵に導かれるように葛は寝台に沈んだ。葵が靴を脱がせてやったり上着を脱がせてやっているのも気づいていないようだ。ひゅうひゅうと喉を鳴らして胸部が緩やかに上下した。吐瀉の後の独特の饐えた臭いがする。
「水でも持ってくるよ」
靴を上着を片づけた葵が離れる刹那、熱い手が葵の手首を掴んだ。燃えるように熱い。ひゅうひゅうと空を切る、音。
「…――い、くな…」
げほげほと葛が激しく咳き込む。気温と湿度の上下が激しいこの地では肺病が蔓延しており路地裏にはありとあらゆるくぼみへ痰や血痰が吐かれている。話せるということはそう重篤な症状ではない。そもそも葵以上に自己管理の徹底している葛であるからこそ風邪であると葵は判じた。
「だいじょぶ、すぐ」
 ぐっと呻いた葛か口元を手で覆って何度か咳をした。白い敷布にぽつぽつと紅い華が咲く。葵が息を呑んだ。吐血に怯んでいる葵から葛は手を離した。何度か咳き込んでいるが出血は続いていない。
「…水を、くれ。咳の、拍子に…舌と頬裏の肉を、食んだ…」
半開きの口の中は紅い塗料でもぶちまけたように鮮烈で葵は逃げるように駆けだした。洗面器やグラス、水呑みを用意して盆に載せる。まずは洗面器とぬれタオルを持っていって葛の汗を拭う。火照りきった体に濡れタオルが気持ちいいのか葛の表情がとろりと潤む。口の端から垂れる紅い滴がぽたぽたと染みの花を咲かせる。とんぼ返りで引き返した葵は水差しとグラス、水呑みを備えて枕辺へ戻る。
「ねぇ大丈夫、本当に? 口の中噛んだだけ? 肺病とかそういう」
「舌で探れば判る。痛いが…裂けているから出血がひどい、だけだ」
葛は何度か水呑みから水を呑んだ。ふぅ、と息をついて横になる。葛がくすっと笑う。
「お前の方が病人のようだな」
「――だ、だって! 葛ちゃんは倒れちゃうし吐いちゃうし血まで」
 「いつ気付いた?」
「任務から帰ってきてから。なんか違うなって。いつも見てる葛じゃないって」
葛は素直に頬を染めて恥じるようにはにかんだ。その後で小さく言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
素直じゃなくて恥ずかしがり屋で頑固な性質の葛の最大限の礼であることに気付けない葵ではない。何でもないよと笑って葵は葛の目蓋を閉じさせた。
「少し寝た方がいい。ゆっくり休んで」
しばらくそうしている。
 葵の手の内側にやわい眼球の感触がする。血管が透けるほど仄白い肌で懸命に葵が任務で不在の中で頑張っていたのだ。それがもどかしい。好きな人には幸せであってほしい。もちろん体調的な意味さえもそれには含まれる。けれど葵に出来るのはこうして後から気づいて寄り添うことだけなのだ。葛がそれに不満を言ったことはない。そも、葛は不平不満を訴えたりしない。その葛が唯一感情をぶつけるのが己であると思えばこそきつい言葉にも耐えられた。弱っていて頼られれば嬉しいし応えてやりたい。
「大丈夫だよ、葛」
そっと手を放す。葛の寝台に背を預けるようにして葵も座りこむ。熱く火照った手を握りしめる。祈るように。
 両手で掴み祈りをささげるように葵はそこへ顔を伏せて泣いた。

葛がほら、こんなになるまでオレは何も出来なかった。

葵の具合が悪ければ葛は葵の仕事を減らすし早く休めよと言ってくれる。笑わない。それでもその優しさは確かにあるものであって。笑うだけが優しさじゃない。甘やかすだけが優しさじゃない。葛はきっと本当の優しさがなんであるか知ってる。その葛が初めて葵の手を引いた。

いくな

行かないよ。
お前の傍から離れたりしない。オレはずっとお前の傍にいる。
「葛ちゃん、ごめんね。気付けなくて」

 葵は数日間を任務のために留守にしていた。葛が体調を崩したのはその期間中であったろう。葵に出来ることなどなく、葛もまたそれを承知していて葵を責めたりはしない。それが葵を抉る。
「かずら」
葵の頬を涙が滑る。好きな人が体を毀してしまうのは心配で心配で治ればいいなと、そしてそれ以上に。

オレの前からいなくなるようなことになりませんように。

身勝手だと知っている。それでも葵は願わずにはいられない。我儘だ。身勝手だ。それでも、だからこそ。

「ずっと見てるよ、葛。だから葛、お前も、オレのこと、見てて…――…」

眠る葛を起こさぬように葵は唇を噛んで嗚咽を殺し泣いた。
 組織の上層部が極めた組み合わせであったはずだった。一定の期間が来ればハイサヨナラ、それまでの辛抱だ、知らない奴と暮らすなんて、そう思ってた。だが葛は葵の中へ踏み込んできて葵もまた葛の裡を知った。嵌まってしまった。抜けだせない。抜けだす気もない。葛が葵を引きとめるなら葵は喜んで組織を裏切る。葛がそうしないと知っているから。ずるいよな。葛の眠る寝台へボスっと顔を伏せた。涙が沁みて行く。にゃあと葵の口の端が吊りあがって笑う。眦から涙があふれた。

「大好き。ずっと見てるよ、そばにいるよ」


《了》

いい加減に具合悪いネタするのやめなさいと自戒してみる。
今度は葵が具合悪くなるとかどうだろwww(懲りてない)          2012年2月19日UP

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