ざざざ、と木々の枝葉が擦れる音がした。海みたいだ、と思う。とにかく目の前の物体を弾き飛ばすことに夢中で飛行機がどこを飛んでいたかなんて考えてもいなかった。あれ、おかしいな、オレ死んでない。胸から突き立った木の枝が体を検める葵の手に触れる。貫通しているそれはちょうど肋骨の間を貫いたらしく骨折の痛みはなかった。ただ肺を貫通しているので咳き込む唾がドロドロと紅い。そこから体を引き抜くように体を起こす。ず、る…と鋭利な木の枝が引き抜かれる。何度か嘔吐の様に咳き込んで吐血した後に葵はあたりを見回した。
ここは、どこだ?
帰還者
大陸は広い。情報の精度は低い。葵は野戦病院を転々としながら診療所を回っては傷を治した。所持金は少なかったから病院に向かう途中で仕留めた動物や果実と交換してもらった。葵の特殊能力は一瞬だが相手にある程度の衝撃を与えることができる。オレ、狩人になろうかなぁとは冗談半分本気半分だ。枝が貫いた箇所は器官としては末端の方で回復も早かった。だけどまだ少し息をするのは辛いし、血痰を吐く。これの回復にはもう少し時間がかかりそうだった。市街地へ近づくほどに戦意高揚の広告や軍歌もけたたましい。葛の性格なら軍属になっているかもしれないと思う。もともと軍属でありそちらの道へ進もうをしたのを止めて引き入れたのが狸爺だと聞いたから、これ幸いと軍属へ籍を戻しているかもしれない。でもそうだったら嫌だなぁと葵は茫洋と思った。
小高い丘の上で噎せる様な緑陰で涼みながら葵は静養している。もう少ししたら今治療を受けている診療所へ戻らなければならない。腕時計を見る。飛行機がばらばらになって放り出される爆発的なエネルギーの破壊力を覚えている。それでも耐えたこの装飾品は透明な硝子盤にひびを入れただけで狂うこともなく時を刻んでいる。
『大人』
現地風に呼ばれて葵は振り向いた。少年と呼ばれる歳ではないし、大人と呼んでほしいと葵が言ったのだ。葵は用心深く名前は明かさなかった。後ろ暗いところがないわけではないし、相手方もそういう客層を多く持つ所為か特に深入りはしてこない。呼びに来たのは少女だ。長い黒髪を細いみつあみのお下げにして揺らし、白衣を着ている。ナプキンを折りたたんだような帽子をかぶって、それは葵は徐々に市街地へ近づきつつあることを示している。服装が都会的かどうかで位置を測っている。
『外で考え事をするのはいいけれどもっと体をいたわって頂戴』
『そりゃ悪かったな。部屋に押し込められるとそれだけで具合が悪くなる』
『大人に頼まれていたもの、買っておいたわ。商売人に見える服、なんて奇妙な注文。日本人ならそう言えばいいのに』
大陸に元来土着している平均的な顔立ちから見れば葵の容貌は線が細すぎる。亜細亜人と言うくくりでしか見ない欧米人には判らない差異が判るのは同じ亜細亜に住む民族だからだろう。少女も少しえらが張ってやや四角ばった顔つきであるし目も細めだ。むくんでいるわけでもないのに眼だけが奇妙に細い。
『大人には大人の事情があるんだよ。見つけたいものがあるからさ』
葵はすっくと立ち上がる。流れるような動作は葵の体の回復の証だ。病院めぐりもここを終いにしようと葵は心中で呟いた。
かずら。心中で何度もその名を呼んだ。傷が疼いて眠れない夜も。焼けつく日差しに倦むような眼差しを寝台から投げる時も。葛の申し出を断ったことを葵は後悔していないし、判断を間違えたとも思っていない。あの物体を大気圏外まで弾き飛ばすということは葵にしか出来なかったし、そうである以上取る手段は一つだ。退路を考えに含める攻撃は完全な力を発揮できない。だから葵はあえて葛を一人で中空へ放り出すように、葛の申し出を断ったのだ。だけど。不意に訪れる静寂の暗渠の中で葵は毛布にくるまり膝を抱える。これで葵と葛の縁さえも切れてしまっていたらどうしようか。葛は怜悧な容貌のように思考と行動力に無駄な遠慮はない。葵が切られる可能性は大いにあった。眠れない夜はいつもその堂々巡りを繰り返して朝を待つ。
あの時葛の全てをオレは拒絶したのかもしれない。もしそうであったなら体が回復したからと言って葵が気軽く葛の元へ訪っていいわけがない。元来優秀な能力を保持している固体であるから組織が離さない場合もあるだろう。だけど。飛行機の爆散後、木の枝に貫かれてなお生きていた葵が思ったのは、そこへ葛がいなくてよかったということだったのだ。葛の体は確かに強い。白兵戦もこなすし教えれば戦闘機にも乗れるだろう。だが同時に脆い。それは白磁や青磁の陶器のように、葛は美しく強く、そして脆いのだ。だから葵が顔を出すことで葛の日常を毀す危険性もあった。
「…だったらせめて、元気に暮らしてる顔くらいみたいもんだよ」
病院に対価を払い、用意してもらった商売人を示す長衣を着て葵は街を放浪した。香草と違法植物を混ぜた違法煙草に手をつけながら点々と居を変える。摘発されそうになって逃げるかと思えば、この街に葛はいないと判じて離れたりと理由は様々だ。だが葵には確信がある。葛はきっとオレのことを気にしている。葵の生死くらいは気に留めているだろう。そうでなければ泣きたい気分である。だからと言って現状の葵が変わるわけでもないが、やはり気にされていると思っている方が気が華やいだ。
あの薄く白い皮膚は肌理も細かく、奥に秘める骨格さえも透けさせる。卑猥な揶揄で紅潮させた葛の顔は愛らしくて愛らしくて、葵は出会いたくて仕方なかった。
かずら、オレ生きてるよ
生きてるんだよ
おねがいだから
おねがいだからおれのまえにそのすがた、みせて――
『金持ちの日本人て奇妙なことするもんだな』
その噂が耳に入る。葵はいつも通り乾燥した香草を紙で丸めて紙巻きを作っていた。
『何でも死んだ人間の分の飯まで作ってるらしいぜ。だからいつも買ってく食料は二人分。おまけに夜中にいきなりリンリン金属ならすってんだから日本人てなァ判らねェなァ』
『金持ちのやることなんかオレ達に判るかよ』
『それも表札まで下げてやがるンだとさ。あとをつけてった小僧が言ってた。日本人名だってよ。伊、波、葛、だったか。何処で切れるんだかわかりゃしねェ』
葵の指が止まった。脊椎を震えが奔るのが判る。伊波葛。それは葵が求めて求めてやまない名前だった。震えを殺しながら葵はその和へ滑り込んだ。
『哥さん、面白いそうな話してるね、くわしく聞かせてよ。そろそろ煙草売りも飽きてきたんでね』
場合によっちゃあ道具一式手放してもいいよ。煙草売りの道具とは暗に取引相手さえも含んだ。販売ルートごと手放しても良いという葵の言葉に男二人の口は軽くなる。
『和洋折衷みたいな奇妙な家を作らされたって話だぜ。日本式の祭壇があるとさ。ブツダン、とかいうらしい』
『買ってく食料はいつも二人分で計算できる量らしい。それでも一人分は傷んだ状態で廃棄されてるらしいからそのブツダンとかいう祭壇に供えてるんじゃねぇか』
『伊波葛ってのは本当かい』
『見に行った小僧の話じゃその綴りだな。何て読むかどこまで苗字かとかはオレ達には判らねぇけどな』
汚水に浸した指先で器用に石畳に「伊波葛」と書きつけると男たちはそうそうそれだと頷き合う。
みつけた
葵はさらさらと隠しに入れていた紙片に一筆書くと煙草を作る一式を男たちに押しつけた。
『約束のものだよ。それは哥さん達の好きにしていい』
駆けだす葵の頭上からちらちらと雪が舞っていた。
日本でも旧式な門構えだ。表札は確かに伊波葛。葵はしばらく周辺に身をひそめた。もし葛がこれで結婚して家族でも持っていたなら退く心算だった。無事でいたならそれでいい。男たちの話では独り暮らしらしいが情報の真偽は五分五分だ。白砂を巻き上げる乾燥した日も。傘を撃つ雨音が耳朶に残る日も。しんしんと降りつもる雪が白く往来を化粧する日まで。葛だった。葛がどこかへ出かけていく。あとをつけるたびに葛の目的地は定まらない。港湾部へ行ったかと思えば路地裏へ足を運び、葵の方がひやひやした。上着をきちんと着こんで襟の釦も上まで留める。タイを締めてきっちりとしたなりの葛の棒を入れたようにしゃんとした背筋は葵と別れる前とちっとも変りなかった。
「なんだ、全然変わってないなぁ」
そう呟いた刹那、ぶわっと涙があふれた。
「あれ、なんだ、これ。おかしいな」
ずず、と鼻を鳴らして洟をすする。涙が目頭から眦から滑り落ちる。路地裏で葵はうずくまって一人で泣いた。葛の生活を一日、一週間と追ううちに独り暮らしであることが判った。夜になると鳴る金属音は仏壇の鈴だ。廃棄された食事には葵が好きな惣菜が一品加えられている。葛は葵の菩提を弔っている。そう思ったらもう堪えが消えた。めちゃくちゃに走って何かにつまずいて転んだ。擦過傷は大したことない。それなのに涙があふれた。だから葵は路地裏で、ありふれた奪略者として見られてもいいから一人で泣いた。
葛はオレを忘れてなかった
「ぅあ、あぁ、ああぁああぁあ」
慟哭のように土を爪で抉り伏して泣いた。嬉しかった。哀しかった。葛がまだ葵を想ってくれていることが嬉しかった。葛がまだ葵に囚われていることが哀しかった。それでも、葵は。
「あ、は。あはははは」
泣きながら笑った。泣き笑いのみっともなさなど意識外だった。嬉しかった。喜ばしかった。葛に会おう。そうしてきっと、あの日みたいにまた二人で――
「くら、せ、たら、いい、なぁ……」
気がつくと雪がしんしんと降っていた。辺りは白い綿毛につつまれたようにけば立ち冷たい滴を垂らす。葵が一足一足、葛の家へ近づいて行く。枝折戸を押して開ける。こんな裏口を作っておくなんて、日本人だって話題になってもしょうがないな。と思う。薄く引かれた雪の絨毯を踏むたびにキュッキュッと音がする。喬木と灌木が密に茂って目隠しを兼ねるのは日本式だ。葛らしいや、と笑いながら葵は濡れ縁と向かい合った。駆けて来る人影がある。それは、あぁ――求めて求めて求めて仕方のなかった、あの人。伊波葛。
「死に損ないました。葛ちゃん、元気?」
にぱっと笑ってみせると葛がその場へ腰を抜かしたようにへたり込む。慌てて駆け寄ると葛の手が葵の手に触れる。葵の茶化した心配事に返事をするでもなく葛は葵の手を検めている。抱きついては泣きじゃくる葛を冗談でなだめながら葵は何度もその背をさする。筋肉がついていたはずのそこはひどく薄くてそれまでの葛の過酷さを思わせて葵は泣きたくなった。
葛の体は痩せていて、それは葛がどれだけの消耗を強いていたかを示し、葵は泣きたいような切ないような苦しいようなやるせない思いに目を潤ませた。泣くのを堪える葛を見るのは初めてではない。あぁほら、鼻と耳が真っ赤だ。葛の肌は白いからすぐに判るんだ泣き出しそうだってことが。それがひどく、嬉しい――
「葛ちゃんは泣き虫ですねー」
抱きよせながら葵は吐きそうになる血痰を堪えた。まだ肺に達した傷は治っていないようだ。それでも、葵は何でもない顔をして。
「ずっとそばにいる。今までいられなかった分までお前の傍にいる」
泣きじゃくる葛を抱き寄せ抱きしめながら葵は微笑んだ。嬉しい。涙があふれた。熱が行き交う。体は明らかに葛を求めていた。この静謐とした体の熱を葵は求めて求めて大陸を転々と移動したのだ。
「会えてよかった。これからも、よろしく」
泣きじゃくって気づかない葛の肩に顔を伏せて葵は涙を吸わせた。葛が泣くように葵も泣いた。
会いたかった。
触れたかった。
愛したかった。
「あはは、なンだろ嬉しいのに。涙が、とまんね…」
葛にきつくしがみついて葵は泣いた。葛が葵にしがみついて泣いたように。二人で爪を立てる睦み言のようにきつくしがみついた。互いに衣服に互いの涙や洟が沁みる。そうした汚れさえなんとも思わない。しんしんと降る雪が二人を白く化粧した。
あいたかったよ――
《了》