そんなのないって、判っていても


   洗い流される前に

 店じまいに日除けを下ろした硝子戸を閉めようといったん外へ出た。ざぁあと頬を撫でる風の湿気は港湾地区にありがちな潮風ではあったがそこに過剰な潤みが感じられて雨季の近さを悟らせた。日本のように四季は明確に区別されずいつの間にか乾期と雨期を繰り返すのがこの大陸の気候だ。手際よく作業を終わらせると硝子戸を内側から施錠する。閉館の看板さえも持って行かれるので硝子戸の内側の取っ手へ鎖を引っかけた。事務仕事の多くなる店の開きと締めは葛が請け負った。同居している葵に任せても良いのだが店じまいでも何でも必ず何か一つ忘れる。結局葛が点検する二度手間になるので客あしらいは葵、帳簿や店の支度は葛と割り振りが行われた。
 帳面を点検しながら認め印を圧していく。金銭の誤差もない。急激な発展で治安が不安定な土地柄ではあるがこのあたりはわりあい安定している方だ。そのぶん閉店も早く月が昇れば店は鎧戸を下ろしたように静まり返る。葛はふと階上を見上げた。先に自室へ引き取った葵が妙に静かだ。普段からうるさくしているわけではないが、葵個人から香り立つような騒がしさがないのだ。葛は手早く仕事を終えると、階段をきしきし言わせて階上へ上がっていく。廊下に一筋差す橙の明かりは葵がすでに眠りについているかまだ起きているかの判断を決めかねた。卓上灯をつけたまま寝台に転がり眠ってしまうことも少なくない葵だ。気付いた葛が足首まで紐でくくる葵の靴を脱がせたり毛布をかけてやったりしている。その時の葵は死んだように従順で目覚めもしない。
 今回もその口かと葛は自室より手前にある葵の部屋の戸をあけた。
「あぁ、かずらぁ」
へろんと、蕩けそうに笑う葵は今にも椅子から落ちそうだ。流動体が滑るように椅子からずり落ちそうになるのを案外細い腕が支えている。小卓の上には一升瓶と空のグラス。鼻を突く香りでそれがなんであるかは想像に難くない。酒である。非合法な命令でもこなす必要のある本業を持つ葵と葛であるから、酒を飲んだことがないわけはない。潜伏先で勧められてたしなむことも多い。
 健康的な色艶に灼けた葵の皮膚は上気して薄紅をお帯び、目元や唇の紅さが際立った。頑固な性質を示すようにくっきりと太い眉が情けなく八の字に下がって葛をしきりに呼びよせる。
「一緒に呑もうぜ? 下戸じゃないのは知ってる」
それどころかいける口なんだろ。蠎がいるんだってさ。葛ン中に巣食ってるのが見えるなァ。きゃらきゃらともともと高い声を震わせて葵はひとしきり笑う。肉桂色の短髪の毛先が橙の卓上灯できらきらと蜂蜜色の艶で煌めいた。葛が目をやれば一升瓶がだいぶ空いている。翌日の惨事を考えて頭が痛い。葵と葛は特殊能力こそ有しているがそれはおまけのようなもので基礎体力は通常の人と同じだ。鍛えれば強くなるし手を抜けば脆弱になる。歩み寄った葛は黙って一升瓶のラベルをみる。日本酒だ。洋酒や現地で漬けた果実酒などが好まれる地域にあってこそ、物珍しさも手伝って葵が栓を開けたのだろう。大陸に暮らしてこそいるが葵も葛も生誕の地は極東と呼ばれる日本だ。しかしだからこそ日本酒などというものは手に入り難い。
「どうやって手に入れた…」
葛でも聞いたことのある銘柄の名が薄墨で書かれたラベルにため息が出た。
「いい写真をありがとうございました! って、断ったんだけどじゃあこれだけでもって、珍しいからって。晩酌にどうぞ、熱くても冷たくても美味しいですからって」
そしたらおいしいンだよ! 葵がにゃあーと口を裂くように笑む。得意げなそれに葛は瓶を取った。葵の呑みさしへ新たに注ぐと口をつける。喉越しが灼けるように熱く痺れて心地いい。それでいて舌触りは滑らかで飲みやすい。これでは進むのも仕方ないかと葛が納得しかけた。葛はグラスをおいて落ち付ける心算で寝台へ腰を下ろした。葵の寝台では毛布が隅に丸まっている。いつもあれだけちゃんとしておけと、と小言が出る前に葵が葛の前に立った。
 丈は同程度の二人であるから、腰を下ろしている葛の方が自然と見上げる体勢になる。葵は睫毛まで肉桂色だ。理知的で好奇心も旺盛な、朗らかな葵が葛をじっと見下ろす。葛は整えた黒髪も短く襟足もあらわだ。シャツの襟に隠されたそこの白さを知っているのは今のところは葵くらいなものだ。怜悧であると、性能は好さそうでだが冷たそうであるといつも敬遠される。雨期の近い空気の水気を吸って黒曜石の双眸は挑むように葵を見据え、見上げる。逸らさない。化粧したような柳眉と通った鼻梁。密に彩る睫毛の黒さと長さは葛の美貌の一部分でしかない。やんちゃな気配と朗らかさの残る葵と大人びた空気の葛とが対峙した。
 性別が男であるからある程度の期間をおいて熱の発散を必要とした。これは精神だとか心構えだとかでどうにかなるものではなく体の機能の問題だ。その解決策として葵と葛は互いを互いの発散の相手と決めた。本業は表舞台に出られぬ位置にあるから下手に何も知らない女を巻き込むのは避けたかった。
「葛、お酒弱いの? 蠎がいるって聞いてたんだけどな。表情が変わらないなんてどこのアホが言ったンだろ。葛すごく色っぽい。唇が紅いよ」
「お前のそれもそうだぞ。酒精の効能を聞きたいなら並べ立ててやる」
葵の体が傾いだ。片膝が葛の横へ下ろされて寝台がギシリと鳴った。対面で葛の脚の上へ座りそうな体勢である。それは葵が交渉においてどの役割を志願しているかを示してもいる。葛の脚をまたぐように葵が寝台へ乗っかってくる。顔は背けずに手探りだけで慣れたふうに靴紐を解く。重厚な音を立てて靴が床へ落ちた。
 葵の手が葛の頬を抑える。そのまま唇が重なった。ふわりと柔らかい感触後、すぐに食まれるように舌先が潜り込んでくる。酒の甘みとしびれの余韻が舌越しに伝わってくる。葵の指先は揶揄するように葛の耳の裏をくすぐり、くぼみを圧して来る。調えられた黒髪を指を入れて少しずつ壊していく。葵は熱心に吸いついてくる。葛は奇妙に冷めた気持ちでそれを受けた。酒を飲んでいないから自制という抑制が利いている。葵の方は抑制が弛んだらしく自らタイを弛めて襟を開いた。
「なぁ、葛………シよ?」
「酔ったうえでの勢いならば断わる。素面で言えるようになってから出直せ」
「いつも素面だよ。だからたまには酔ってみたんじゃないか。葛が駄目ならいいよ、これから路地裏へ行って適当な相手と寝てやる」
頬を膨らませてつんとそっぽを向いた葵に葛は嘆息した。
「それは、困る」
葛がグイと葵の襟を掴むとその細みを引き寄せた。噛みつくように激しい吸い上げに葵の目が苦しげに眇められた。ちゅうちゅうと唾液が行き交う水音がした。息を吐くようにして離れた二人の舌先を銀糸がつなぐ。ぷつりと切れるそれを葛は淫靡に紅い舌先でぺろりと舐めとる。葛の皮膚は白くて肌理が細かい。色気を帯びればどこまでも妖艶の位置にいる。それは葛が交渉のどの役割にいても同じだ。覆いかぶさっても脚を開いても葛はどこまでも妖艶に美しい。当の葛はそれを認知していない。
「なんで葛って色っぽいの」
「お前も十分、可愛いが?」
葛は葵の唇をべろりと舐めた。葵がするような動作をわざとしている。葵の不平は葛の唇に呑みこまれてしまった。酒精で火照って熱い葵の指先が葛の頬から離れる。名残のようにわだかまる温さに葛は知らずに笑んだ。葵の襟を掴んで体を反転させ、葵を寝台の上へ押し倒す。タイを解いても釦を外す間でさえも葵は抵抗もしない。シャツを開いてあらわになる葵の胸部や腹部は傷一つなく綺麗なものだ。健康的な色艶を保持する葵の皮膚は案外繊細だ。唇から頤、喉を舐め、喉仏を食んでから鎖骨へと舌を滑らせた。
「葛ってさ、オレのこと好き?」
「嫌いなやつと肌を合わせる趣味はない」
葵の肉桂色の双眸がギラリと鋭くなる。
「路地裏へ行くくせに」
路地裏の生業が主に何であるかを知らぬ二人ではない。どういう場所か何が力を持ち何が踏みにじられるかを知っている。葛は動揺もせずにそうだなと相槌を打った。
「お前こそそうだろう。そのうえ手土産ばかり持って帰ってくる。女物の髪飾りなどこの家には無用なものでさえも」
「葛につけたかったんだよ。そうしたら花魁みたいに綺麗になるかと思ったんだ」
「お前が花魁などという言葉を知っているとは意外だ」
むぅう、と葵が口を一文字に引き結んで葛を睨む。それは憤りというより不満と言った方が正しそうなものだった。
 葛の手がひたりと葵の心臓部を捕らえる。酒精で火照った葵の体はタガが弛んで思いの外、開放的でさえある。葵の鼓動はすぐに葛の手から伝わる冷たさを認識し、馴染んでくる。鼓動が葛のリズムで揺れていく。汗ばんでさえいないのに二人のつなぎ目はパテでも塗り込めたかのように密着していた。
「しっかりとした、鼓動だな。お前らしいと言えばお前らしい。元気がよすぎる」
とろんと蕩けた肉桂色が葛を見上げてくる。葵の手がおそるおそる葛の襟を移ろう。
「触って、いいかな」
葛は手を離すと自らタイを解き釦を外し留め具を外す。シャツを潔く脱いでしまう。射しこむ月光に、葛の上半身は発光しているかのように蒼白かった。葛の体は作られた美しさだ。戦闘を前提とした団体に属していたこともある葛はそこで優秀な成績を収めている。戦闘ではそこらのゴロツキ程度に負けてやる気はない。引き締まって無駄な肉がないから細く見えるだけで、腕力や破壊力、敏捷性は折り紙つきだ。手加減の仕方も心得ているし、己の破壊力も良く知っているから自ら暴力をふるったり特殊能力を使ったりはしない。
「光ってるみたいだ…綺麗だな…」
葵の火照った手が葛の心臓へ触れる。熱い手の触れる感触に葛がピクリと身じろいだ。葵の手は流れ滑るように葛の胸部や腹部を撫で、頤を確かめてから鎖骨のくぼみを軽く圧した。覆いかぶさっている葛を気にしたふうでもなく好き放題している。葛は葵に好き放題をさせながら葵の耳を食んだ。耳朶に歯を立てる。ぷつりと飾りのように紅真珠が生まれては流れ落ちていく。がりがりと音をさせるそれにさえ葵は止めない。
「葛、痛い」
口を放した葛の唇と葵の耳の傷を紅い糸が一瞬つなぎ、葛の唇はますます紅をさしたように艶めいた。血の紅を擦りつけるように葛は葵の唇を食み、葵も潜り込む舌先に自ら舌を絡めた。
 二人で静かに体を重ねているとサァサァと降雨の音がした。鼓動のほかに雨音がする。風がないから吹きこむ心配はないがあたりがしっとりと湿り気を帯びていく。
「雨期が来たな」
「面倒な季節だよなぁ」
身だしなみを必要とする写真館に雨の中かけつける客はそう多くはない。これからは店は閑古鳥が鳴くだろう。葵がくくく、と喉を震わせて笑った。
「さぁほら、天気まで濡れてんだオレ達も濡れようぜ、な? かずら」
「つまらんことを言うな」
葛の手はそっと葵の下腹部へ侵入した。しっとりと重く熱く火照るそれに葛の口元が笑みをかたちどった。


《了》

何番煎じでしょう…お酒に酔うとか一度やってみたいネタだよね!            2011年10月9日UP

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