雲の晴れた
満月の滴
朗らかな葵の声が聞こえる。葵は身ぶりと同じように声も大きいから暗室にいても気配が感じ取れた。何を言っているか明確に聞きとれるわけではない。ただ潮騒のように退いては寄せる高低の波長が好きだった。葛の生家は厳格な家風であったから大きな声を出すと咎められたし、武士の家の子としての自負が子供心にさえ自己抑制を生んでいた。声を上げて駆けまわるというより厳格な祖母の目をいかに盗んで行動するか、猫の様な遊び方が葛の常だった。葛は淡々と暗室での作業を終えると片付けに入る。溶剤の入った壜は棚へ戻し、撹拌や留めに使う容器も洗浄して水切りへ伏せる。
大陸は夏も終わろうという時期であるのに昼日中はまだ暑い。白く乾燥した砂が常に空中を舞い、馬車や自動車は平然とそんな中を駆け抜けていく。幌の様な屋根の非合法露店では砂よけに商品陳列のスペースにあり合わせの材料で傾斜をつけて汚れを防いでいる。廊下から顔をのぞかせれば客は帰ったらしく葵が四苦八苦しながら帳面に必要事項を記入していた。朗らかという言葉から生まれたかのように葵は明るく元気がよく子ども受けも良い。人見知りの子供もあっという間に手懐けてしまう。夏の暑気を残したままの大陸はまだ暑い。扇風機が一台備えつけられているだけの写真館は暑い。開けられるだけの窓は開けたが砂埃を立てる表通りまでは開けていない。葵の額に汗の粒が光る。案外細い手頸に嵌められている腕時計の盤面がちかりと光った。秒針もついているそれは特殊能力に使用制限のある葵の補助用具だ。葛の特殊能力にも制限があるが葛は時間ではなく回数に制限を持つ。葵は時間だ。一度使用したらそれからある程度能力は野放しになり、その期限がくればある程度の時間帯中は使用不可になる。
「お、葛。現像終わった?」
帳面から顔を上げた葵が明るく声をかける。刹那、葛は足元から火が燃え上がったような羞恥を感じて返事もせずに踵を返した。その足がむやみに向かった先は台所だ。食事は店屋物が多いのだが、贔屓にしている店が二・三日休業すると使いの少女からの伝言を思い出したのだ。保冷庫を開けながら葛の頭の中は必死に先程の意味の判らない焦燥と羞恥の理由を考えていた。
「暑いから冷たいもんが食いたいな」
振り向きざま、葛は己の手がどの位置にあるかを全く把握していなかった。ばちん、と葛の裏拳がはからずも葵の頬へ直撃した。打たれた葵はぽかんと口を開けて葛を見ている。葛も己に非があると判っているが突発的なことであったから対応ができない。しばらく二人で茫然と保冷庫の冷気が床を這うのを感じていた。
一瞬、くしゃりと泣きだしそうに歪んだ葵はそれでも堪えきって表情を戻した。葵の表情は豊かだ。感情や想いを顔に出す難解さを葛は葵と出会ってから自覚した。葵は尻もちをついた体勢から四つん這いでにじり寄る。
「オレ、なんか気にくわないこと、したかな」
葛は保冷庫の扉を閉めると立ち去ろうとした。冷却しないと葛の思考はドロドロに蕩けてしまう。だが伸びた葵の手がぐんと強く葛の体を引いてその場へ座らせる。
「かずら、にげるな」
ぴく、と体が震える。葵はどっかりと胡坐をかいたが葛はその場へ正座した。気を落ちつけたい意味もあった。武道をたしなむものとして呼吸法などのコツは心得ている。頭へ上って沸騰した血を落ちつけようと葛は必死だった。
「葛ってさ、オレのこと好きだろ」
微動だにしない。冷たい葛の眼差しにもめげずに葵はにやにやと笑んだ。
「判るんだよねーオレには。オレ、モテるな」
軽口で済まそうとするのは、事あるごとに事を重大に運びがちな葛への配慮だ。それが判るだけに葵の温情が身にしみる。そして葵も葛のそれを感じ取っている。その上での行動だ。悪循環と申し訳ない気持ちが葛の中で円を描く。葵は知らぬふうにペラペラと軽口を交えては話す。何を話しているかは葛にあまり届かなかった。窓硝子から明かりがさしてボヤりとあたりを白く染めた。暗室にこもっていた葛には少し眩しい。目の奥でちかちかと火花が散った。葵の軽妙な語り口の音程が、暗室で聞いていた音の気配と重なって心地よい。高低や長短、調子をつけて話す葵の声が朗らかで聞いていて心地よい。葛は葵に詰問されたり責められたりしていることも忘れて聞き入った。
同じ叱責を受けても祖母のそれと葵のそれは違う。威圧的であった祖母と違って葵は的確に落ち度を指摘する。なんだか、嬉しい。葵が言っているのは作業の手際についてや接客についての不満であったり我儘であったりするのに何故だか葛の心は弾んだ。
凛とした太い眉筋や、一筆で刷いたように長い睫毛。普段が笑んでいるから判らないが案外厚みのある唇。口づけるとき、その柔らかさに葛の方が驚いた。少し子供っぽいところが性質と似ている。その体に触りたい。熱源の根底の、奥深く深くまで――
「かずら?」
きょろっと上目づかいに見上げれて葛がびくっと飛びのいた。
「聞いてた?」
「………すまん」
素直に謝罪する。葛には誤魔化すとかその場を乗り切るという技術が著しく低い。真っ正直に言ってしまう。葵もそれを判っているからけらけら笑って葛を責めない。
「やっぱなー。じゃあさぁ、葛ちゃんを悩ませているのはなんなの?」
葛自身が唸ってしまった。葛の性質から言えば原因が判れば即座に手を打っている。葵もそれを承知しているからの問いだ。葛はやはり黙るしかない。葵が気になって集中できませんでしたなどとは口が裂けても言えぬことである。黙り込む葛に葵はしれっと言い放つ。
「欲情するなら抱いていいよ」
「なッばッ!」
「オレ、そ―ゆーのあんま気にしないし。葛は好きだから葛に抱かれるのは何でもいいよ」
「体をそう簡単に安売りするものではないッ!」
厳しく飛んだ葛の声に葵がきょとんと動きを止めた。葛は白い頬を紅潮させてフーフーと唸っている。威嚇している猫の様だ。葵はほにゃりと微笑んだ。その笑みで葛も己を取り戻す。憤っても仕方のない問題だ。
「葛はオレが好きだよ。オレには判るんだ。だからさ、ほら」
葵の手が釦を外して襟を開いていく。
「抱いて。安売りなんかじゃないよ。葛に抱いてほしいんだ」
葛の手は導かれるまま葵の胸へひたりと張り付く。冷たいな、と笑う葵に葛は茫洋とすまないと詫びた。
「冷たい手は嫌いじゃないぜ。手が冷たいやつは心が温かいっていうしな」
「迷信だ」
「褒めてるんだから否定しないでよ」
くっくっくと二人の笑いがこみ上げる。同時に爆発したように笑いだした。くだらない。
「ばっかみたい! 体だけでつながる関係なんて、馬鹿馬鹿しいや」
「同感だ。つなぎとめる理由が体であるなど、なんと脆弱な」
葵の体が葛に覆いかぶさる。葛の抜き身は探りだされた直後に葵の体内へ呑みこまれた。熱い。胎内に雄を呑んだまま葵はにやりと笑んで見せた。
「お前が欲しかったんだ。それだけ」
「俺もお前が欲しかった」
口付けは貪りあうように激しいものだった。
《了》