ただ君が
私は独りになりたくないのです
日常だと思ってずっと毀れないものが毀れてしまった時はどうすればいいのか、葵は初めて直面した。葵は自分が今まで何の落ち度もなく完璧な人生を歩んできたとは思っていない。金銭、作法、血統、あらゆることで間違いを起こしたりしている。だが今回のそれはこういう次元の話ではないのだ。厄介なのは、こういう事態をお膳立てしたことを葵が許可していることだった。約束が出来たから自由時間が欲しいと申し出があり、、珍しくひっきりなしだった客足も途絶えて葵は休憩したかった。じゃあ二人で休んで休館にしようぜ。葛は顔をしかめたが仕方ないと言いたげにその案に同意した。この時に葵が葛の約束内容を言及しなかったことは確実に落ち度だった。
こっそり隠れる葵の視線の先で葛は薄く笑みながら女性と話している。栗色の長い髪をした女性だ。顔立ちや仕草から言ってこの大陸の現地人で階級は上級だ。二人は仲好く話しながら時折品を手にとって言葉を交わす。平素から治安の悪い路地裏ではなくきちんと掏りも捕まえる真っ当な商店街だ。女性がくすくす、と笑う。合わせるように葛はふぅわりと微笑んだ。冷徹な印象を与えがちな葛の笑顔は稀少で、付き合いが長いほどそれをよく知っている。オレになんか滅多に笑ってくれないくせに。いつも口を衝いて出るのは小言ばかりでひどい時には叱責も受ける。その葛の変わり様に葵は半ば打ちひしがれながら二人から背を向けた。尾行に自信がないというよりも、仲良く微笑ましい二人を見ているのが辛かった。
葛と葵は半ば流れに沿うようにして関係を持った。秘密の多い本業だ。情報漏れの監視は厳しく、関わる人間が少ないほど危険性も減る。そのために欲望の発散と言う目的で二人は互いの肉体を提供し、また享受した。だから本来情の行き交いはなく、またそのことが真っ当ではないという負荷を軽くしてもいた。だが葵は葛に対して恋情を抱きはじめていた。初めは軽い同調であったものが今や素肌が触れ合うだけで葵の情報が全て葛へ向けて流動してしまう錯覚を覚えるほど溺れている。葛はそんなことは知らぬげに淡々と動作をこなし熱を吐いて調子を整える。葛に抱かれる時も思った。葛を抱くときはなお思った。言葉にならない想いだった。葛の手にナイフを突き立てて腹を開き臓腑を取り出して溢れる血さえ、何もかも一切を残さず知りたいと思い始めていた。
葵は母のようにはなれない、と思った。母親は幼い葵が時折訪う男の人について訊ねたときに、一緒にいるだけが好きではないわ。あの人は私にあなたをくれて今もこうして私を訪ってくれる。長じてから葵は自身の家庭環境を理解した。葵が住んでいたのは妾宅で、母親はお妾さん。父なし児と後ろ指さされて当然であったのだ。男女であってなお嫌悪されたり侮蔑されたりする関係がある。同性同士であればなおのことそうだ。だから葵と葛は慎重に過ごしてきたつもりだ。翻って、葛が女性と付き合うことはその秘匿の成功を示してもいる。だが葵の気は晴れない。
「お、っと」
葵は思わず通り過ぎそうになって脚を止めた。住居も兼ねる写真館だ。打ち合わせ通り休館の札が下がっていて、潮でべたつく癖にどこか乾燥した風になぶられてからから揺れている。葵は裏口から鍵をあけて入りこむ。そのままあてがわれた自室に直行した。寝台の上にばったり伏せて、茫洋と壁を見詰めた。新しく建てる資金など捻出のしようもなかったから、暗室など特別な場所以外は旧来のものをそのまま使用している。壁の染みがじわじわと大きくなっていくようで目が離せない。普段、明るく痛みなど感じさせない振る舞いの葵は独りになった時だけ膝を抱えて傷を舐めた。誰にも気付かれないように細心の注意を払って一人であることを確かめ、それから痛みを反芻するようにして手当てをする。繰り返すうちに痛みに慣れていく。葵はそうやって負った痛手に対応してきた。それが葵の自負だった。どんな痛みにも傷にも慣れて見せる何でもない顔をして耐えて見せる。
「葛はやっぱ、髪の長い子が好きなのかなぁ」
古風で厳格な家だ、としか聞いていない。短髪にする女性も少なくないが、格のある家柄は斬新さを嫌う。格式高いと自負するお客様の御指名が必ず葛であるように。葵はどこかフランクで、初めて行った場所でも旧知のように馴染んでしまう。くだらない、女と競るつもりか。葛が選ぶべきは女性である。万事手ぬかりなく行う葛であれば特定の女性をつくっても構わぬような気さえしてくる。
「……う―…オレって、用なし?」
悪循環だ。涙さえも出ない。要らないと放り出すのはいつも葵の方なのに。
「オレって、要らない、かな…」
立場としては祝福してやらねばならないだろう。考えが飽和して脳が重い。寝台に靴を履いたまま膝を抱いて丸まると葵は眠りに落ちた。
ほわりほわりと温かい。縁側だ。それは葵がまだ母親と二人で暮らしていた家だ。縁側へ干す布団の上で葵が転寝をしていたのだ。母親は笑って、それでは布団を干す意味がないわね、と笑った。
「今日、小父さん来るの」
母親の薄化粧に気付いた葵の一言に、母は刹那、哀しいような嬉しいような困ったような、曖昧な笑みを浮かべた。あなたは本当にあの小父様が好きね。不定期に訪う男性は葵に菓子をやり、葵の盤上遊戯の相手もしてくれた。それでも時折、外で遊んでおいで、菫と蛇苺の絡みあう土手があったよ。と外へ出される。
「小父さんはいかないの」
小父さんはもう見てきたからねぇ、それに見つけるのが大変だから君には無理かな? そんなことないよ! 葵は絶対見つけてやると意気込んで家を飛び出していく。仕立ての良い夏麻のシャツや半ズボンから覗く膝小僧を真っ黒にして帰ってくる頃には小父さんが家を辞するところだった。菫と蛇苺は見つかったかな? 菫はあったよ。でも蛇苺はなかった。きっと小鳥が食べてしまったんだよ。不満げな葵に男性は葵の頭を撫でてそれじゃあね、と帰っていく。また来るよ、とは言わなかった。母と男性の関係はそんな刹那的に凛と燃えるものだったのだ。
「あおい!」
肩を揺さぶられていると気づくのに時間がかかった。
「………えッ、あ、なに?」
出かけた時のまま、好きのない格好の葛が呆れたように葵を見下ろす。その視線が靴の方を向いているのを見て、葵は慌てて靴を脱いだ。踝まで覆う重厚なものであるから床に落ちるとゴトンと鳴った。それでも葛はその場を動きもしない。睨んでいるように鋭く切れあがる眦だが、それが葛の常態であると葵は知っている。その目尻が赦すように柔らかく和んでから、ふぅと笑んだ。
「何か辛いことでも、あったのか」
「え、や、べつに?」
えへら、と笑う。ぽたり、と。
「泣きながら眠る奴をどうしたらいいか、俺は判らない。だから起こした。不手際だったならば、謝るが」
人は誰でも泣きたいときがあることくらいは知っている。葛は冷静に穏やかにそう言った。葛に隠し事はない、だから葵は素直に打ち明けた。
「実はさ、ちょっと気になって葛の後をつけたんだよ。女の子と買い物してたろ? あぁこれが本来あるべきものなんだって思ったらなんだか切なく、て。だから葛があの子と付き合うなら」
「大馬鹿者めが」
遮られて葵がきょと、と目を瞬かせた。葛がごほんと喉を震わせてから肩を落として説明を始めた。
「数日前に俺が出張したのを覚えているな」
葵が頷く。格式を重んじる家柄で葵から敬遠したのだ。
「そこの娘さんが、婚約者に贈り物をしたいが何をどう選んだらよいか判らない、いろんな人に会うあなたからならいい助言が貰えそうだと思う、だから買い物に付き合ってほしい。彼女にはきちんと真っ当な相手がいる。もめ事を避けるために名刺も持参したしな…」
葛の名刺にはここの写真館の屋号と連絡先が書かれている。葵の体中から力が抜けた。
「こういう経緯だ。お前が何を勘違いしたのか尾行などしているかと思えば途中からいなくなるし――」
「…――ッうぅ」
うわぁああぁああぁああ。葵は声を上げて寝台に突っ伏して大泣きした。同時に笑いがこみあげて葵が噎せた。
「ア、は、ああはははッ…――っげほ、ふぇ、うえぇええ」
「葵、泣くのか笑うのかどちらかにしろ。落ち付け」
葛は生真面目に膝をついて寝台の上の葵の背をさする。
葛は相手に女性を求めたわけではなかった。なんて、嬉しい。
葵はそんなことさえも気付けなかった。なんで、愚かしい。
二人の別れはいつでもそこで口をあけていると実感した。なんて、哀しい。
「かずら、かずら」
蒼うの手が指が、葛の白いシャツを掴んだ。蝋のように白いと思うのに葛の体はいつだって官能的な乳白色だ。半袖であるから尖った肘が見える。爪を立てると紅線が奔りぎりりと血がにじむ。それでも葛は痛いとも言わずに受け入れている。
「葛はオレと一緒に、いてくれる?」
葛が応える刹那を狙って体勢を転換する。寝台の上に仰臥させた葛の体はどこまでも白く美しく発光しているかのようだ。
「泣いていたかと思えばこれか。了承した俺も俺だがお前もお前だな」
「葛を確かめたいんだ。体とか熱とか、ここにいるか、とか」
葛の白い手が葵の頬を包んだ。葵の頬は落涙でひたひたと湿っている。葛がふわりと笑う。それはあの女性に見せていた笑みとは違って包み込むように優しかった。葵が粗相をしてもたしなめながら、仕方ないなと笑ってくれる。
「葵、俺はお前から鞍替えする気は、当分、ないよ」
葵はぽつぽつと夢の内容を話した。落涙するのを見ていた葛が問うたのだ。菫と蛇苺と名前も知らない小父さん。葛はそれだけで理解したらしく、そうかとだけ言って質問もしなかった。
「葵、オレの知っている限りだから確定ではないがな。最近建った、大きなビルがあるだろう、あれの裏庭にな、蓮華と蛇苺が咲いているよ」
ビルの裏地は日当たりが悪いからいつまでたってもはけずに更地として残る。空き地には小鳥の落とし物やどこからか運ばれた種子が実を結んで無法地帯のようにあらゆる植物が茂った。
「行こう」
葛は素早く体を起こすと葵の腕を引く。葵は子供のころからどちらかと言えば仕切る方であったから、こうして従うのも珍しい。富裕層を客層に持つビルの裏手だ。細い路地を通ると箱庭のように空間が開けた。夜だというのに広告塔の明かりであたりは紅や蒼や白や碧に変わる。そこでそれは確かに咲いていた。薄紫の花弁を幾重にも開いてまっすぐ天を向いて。そのまっすぐのびた茎に絡むように紅い果実が実っている。
「蓮華と蛇苺」
葛がぷつりと摘んだ。飛び散った夜露が広告灯で宝石のように煌めく。ほろほろとした透明な雫が葛の桜色の爪先から指へ流れて手頸を伝う。
「ほら、あったろう。もう、ないなんて、泣くな」
葵はその場へ葛を押し倒した。飛び散った夜露がきらきらと降雪のように煌めいた。
「何もないと、うわ言を言っていた。泣いていた。だから俺はお前に誠実であろうと思った」
葛の漆黒は恐ろしい暗渠ではなかった。優しく潤んで艶めく黒曜石が瞬く。
「蛇苺がなかったと、言っていたろう。時期があるんだ、あれは」
葛はくすくす笑う。意味を悟った葵がむっと膨れたがすぐに仰臥させた葛に抱きついた。
「このまま抱きしめていていい?」
「駄目と言う選択肢があるのか?」
葛の拍動が葵の耳へ響く。怖いことがあって母親にすがりついた時。名前も知らない小父さんに無理矢理抱きついた時。それらはきっと愛であったと。だから母は、妾の立場に甘んじたのだと。小父さんが葵に対して冷淡であったなら違ったろう。だが小父さんは葵の相手もし、葵も懐き、だから母は。世間さまから後ろ指をさされても、この関係がよいと選択したのだ。葵は長じてから不定期に訪っていた小父さんがなんであるか、母がなんであったかを知った。逃げるように留学した。それでも葵の中で鮮烈に消えない感情がある。愛人の子ォ。囁かれる言葉に反発するように葵は学校での成績も上位だった。覆せないなら黙らせる。暴力的な諍いも経験がある。
「葛はさ、オレの生まれなんて気にしないんだね…」
「俺自身、語れるほどの生まれではない」
「やさしいね」
葛は黙ってキスをした。抑えつけるようにのしかかる葵の唇を吸った。
「言わずに感じろ。それが全てだ」
互いの情報量が危険性と比例する。だから俺達は互いに何も知らない方が好い。互いにそれは承知している。
「でもそれってさ、少し残酷だよね」
「俺達の生業はもっと残酷かも知れんぞ」
任務のために退けてきた警備兵たち。彼等がその後どうなったのか。情報獲得のためにもぐりこんだ家。その家人がその後どうなったのか。
「誰かを押し退けて生きるというのはそういうことだ」
「だから葛は、何度も、危険に身を投げるんだな」
切り刻むように。ズタズタになるほどひどい目に遭っても葛は何も言わない。それはもしかしたら贖罪のつもりかもしれなかった。
「オレって甘い?」
「それがよさでもある」
確かめ合うような抱擁の後に二人は融けあうように抱きあった。
「実はさ、蛇苺、すぐ見つかったんだ。でも今戻ったらいけないんじゃないかって。野原でぼーっとしてた」
「その判断は正しそうだな。お前の勘の良さは昔からか」
「罪のないウソってあると思う?」
「必要な嘘にも罪くらいある」
「やさしくないなぁ」
《了》