逃がしなんかしないけど
壊すほど、愛してよ
逃げ出したいほど君が好き
することがないのも善し悪しだ。どこからか運ばれてくる風はべたついた潮を何故かしら含んだ。したたかに正直に生きる人々と同じくするようにしてここの気候は大雑把だ。強い風は往来の砂が吹きこむので少し困る。営む写真館は人気が絶えればぱったりと絶える。ある程度の顧客はいるがそうそう忙しくもしていられない事情があるのでこの塩梅でよいのだと納得している。人件費の増加と秘密の漏えいは比例する。関係者が増えることを自分たちの匙加減で出来ぬから忙しくないがつぶれないこれがちょうどいい。扱う精密機器を丁寧に棚へ戻す。硝子戸に映った虚像を見て葵は茫洋とした違和感にとらわれた。
釦を留めぬ襟元からは鎖骨が覗く。首もあらわにして白い襟は肌を隠す意味はない。タイも緩く結んでいるだけで端を引けばすぐにほどける。
「キスマークだ」
交渉の手順として触れてくる唇の吸いついた、卑猥で後ろめたくて、けれどなんだか証のような嬉しい痕跡。葵は同居している葛と枕を交わした。素性は知らぬが同じ屋根の下で暮らせば性質くらいは判る。出来るだけ印象に残らぬ暮らしを心がけているから熱の発散の相手として互いに白羽の矢を立てた。同性同士であることが後に何も残さないのは皮肉でしかない。それでも納得ずくで始まったこの関係の記憶が薄い。広い部屋の方へ目線を投げれば葛が机に向かって作業しているのが見える。字も上手いし間違いも少ないので事務仕事を買って出るし葵も任せている。淡白で小奇麗に整ったなりから考えられないほど葛の交渉は乱暴だ。殊更殴られたりはしないが無理を通されて後で不満を垂れ流したことも何度かある。それがしばらくご無沙汰であると葵は遅ればせながらに気付いた。
初めは体がもつと楽観視したが時が経つほど不安になる。あれば大変だと思うのになければないで気にはなる。葛の具合でも悪いのか、それともオレに飽きちゃった? 必要以上の好意はないと思っていたのにこれで葛から引導を渡されたらそれなりに傷つく己がいることに葵は気づいた。葵はなんの気負いもなく葛のそばへ立った。判らないことや納得のいかないことには自分でけりをつけたい性質だ。怯むような羞恥心は持ち合わせていない。判らないことを判らないと言ったり訊いたりすることに躊躇はしない。
「葛、今夜行こうか?」
ぼやかした言い回しでも葛には事足りた。黛を刷いたような柳眉は一瞬ひそめられた。化粧でもしているかと思うほどに綺麗な顔は、これで手入れは最小限だと言うから恐れ入る。
「いらん」
葛の言葉は簡潔だ。余計な装飾や言い回しや揶揄もない。葵は鼻白んだがすぐに気を取り直す。
「そう言えばオレも最近お前に触ってないから恋しいんだけどな。都合悪いのか?」
返答は沈黙だ。葵の眉がピクリと跳ねる。葛は飾らぬ分、嘘も下手でかわしかたも知らない。煙に巻くのはいつだって話を横道へ逸らす葵の方だ。
「なんだい珍しいな。外に敵娼でもできたか?」
刺すように強い眼差しが葵を射抜く。黒曜石の双眸は怒りに燃えて潤み、同時に躊躇さえもにじませた。まずいなとは思ったが葛の怒りと同時に堪えもぶちまけさせるつもりであったから葵は口を閉じない。発散した方がいいことはあるというのが葵の持論だ。
「葛は結構いい体しているしご無沙汰過ぎて出来ないわけじゃないだろ。もしそうなら医院へかかれよ、後を引くと厄介だしオレも困る。まさか壊しちゃいそうとか柄にもない怯えでもあんの」
白い頬が蝋のように白くなっていくのが見える。言い当てられたというよりは混乱の末の動揺であると見当をつける。
「好きなやつがいるならそう言えよ。やっぱり好きなやつとしないとさ、楽しくないしな」
へらへらと弛んだ笑みを浮かべて葵が大仰に肩をすくめる。葵は感情の表現方法を知っているし抑えこむような真似は極力しない。
「やっぱりほらオレだって心配なんだよ」
ぽん、と葛の肩を叩く。刹那に。
乾いた音がして葵の手が跳ねあがる。
弾き飛ばした勢いのまま振り上げられた葛の手が葵の視界に映った。
茫然とした沈黙が場を支配した。葛の平手は葵の手を弾き飛ばした。だが葵より驚いているのは葛のようで、言い訳さえもなく紅い唇を引き結んだ。咄嗟に出たように葛の黒曜石は一瞬、集束して見開かれた。すぐさま取り繕うように表情を引き締めるが葵には明瞭に判った。葛の行動が咄嗟のものであって、なおそれを撤回する気はないこと。葵の表情が渋くなる。葛の性質を葵はけして低く見積もっていない。慣れ合うのを嫌うが反面で正当な評価もできる。むやみに人を毛嫌いもしない。
「葛、どういう意味だ、これは」
理由もなく人を嫌わない。葛が掌握する評価の正当性は葵も知っている。触れただけで拒絶するような狭量ではない。同時に葛が葵の手を払ったことに葵はむやみに憤りを感じた。好意がある分、反動も含まれている。何とも思わぬ輩に嫌われても痛くもかゆくもないが、好意を寄せている相手であれば話は別だ。
「そう言えばご無沙汰な理由ってその辺にあるのか? それともオレは拒否する価値もないのか」
感情の制御に慣れている葛が、それでも葵との交渉では楽しそうであったり微笑んだりもした。嫌われてはいないという葵の甘えを打ち砕かれて、やるせないような悲しいような苦しいような、それらが憤りとなって噴出した。納得がいかないし引き下がる気もない。発熱したような怒りに浮かされて葵は葛に詰め寄った。
葛の対応は一貫して無反応だ。言い訳はおろかそうだと開き直りもしない。自分ひとりで感情的になっていることが葵を一気に突き落す。燃える怒りの後にくるのは後悔に塗れた悲哀ばかりだ。相手を責めても反応がないから批判の目が己にそのまま向けられる。目眩のような揺らぎを感じながら葵は乾いた喉に唾を呑んだ。
「――理由を。葛、せめて理由を頂戴。オレが嫌いになったとか好きなやつが出来たとか、何でもいいから、何か、言って」
二人が本業としながらひそかに所属する団体はその秘密性ゆえに命さえやり取りする。熱の発散も交歓もどこか刹那的であるのはそれが影響しているからだろう。次があるかどうかは判らなくて、その上別れはすぐ迫っているかもしれないのだ。
ペンを放り出している葛の白い手が膝の上で握りしめられた。ぎりぎりと引き攣る皮膚の摩擦音がする。葛は紅い唇の色が薄まるほど強く噛んだ。切れれば紅一色に染まるのに切れるぎりぎりまで皮膚はいっそ白い。ふぅ、と葛の唇が開いた。深い息が吐き出されて肩の力が抜けて行く。葵まで脱力して座り込みそうだと膝が笑うのを感じた。葛の睫毛が重く瞬いて潤んだ漆黒は帳面を睨みつける。人の絶えない往来の喧騒が遠く響いた。
「抑制が…我慢が利かなくなる。俺はもう傷つきたくない」
利己的だと嗤えと葛がうそぶいた。
「お前に酷いことをしてしまう。離れるべきだと、思った。傷つきたくない」
葛が殊更に傷つきたくないと繰り返す。ひどいことをされて傷つくのはむしろ葵の方だ。翻った考えと葛の深く秘められたそれに葵の口の端がみるみる弛んだ。
お前を傷つけると俺も傷つくと葛は言って、くれている。
ふつふつと葵の内部でわき上がる感情に笑みを殺しきれない。葵の変化に気付いた葛が己の失態に気付いたが吐きだした言葉は戻らない。蝋のように白かった頬が色づくように赤らんで、気まずげに長い睫毛を伏せた。
「なぁそれ、ほんとう?」
葵が訊くのは確かめと同時に意地悪い揶揄だ。そうであったら嬉しい。なんて、可愛い。なんて、愛しい。
葛の整えられた髪が乱れてはらりと白い額へ墨が引かれた。葛は払いもしないでそのままにする。そっぽを向くように目線を泳がせて口元は何も言わぬと頑固に引き結ばれた。
「嬉しいな。葛はオレのことそんなに想ってくれてたんだな。だったらオレももっともっと応えよう。どうせなら好き同士が好いもんな」
桜色の爪先がピクリと痙攣的に震えた。それを覆うように押さえて葵は覗きこむ。体を引いた葛を追って唇を重ねる。机と椅子がガタリと鳴った。背もたれに阻まれて葛はそれ以上退けない。知っていて葵は焦らすようについばんだ。覆うように抑えていた手を取り、自分の襟の中へ導く。葛が触れてくれるだけでそこは融けたように体温が行き交うような気がした。皮膚という堰さえ乗り越えてその奥のもっと露骨な流動体がやり取りされる。
「だからお前が好きなんだよ」
葵は葛の返事を待たずに唇を重ねた。負荷に耐えきれなくなった椅子ごと、葵と葛は床の上へ倒れ込んだ。
《了》