人はきっと自分のことしか見えてなくて、それでも
終わるって判っているけど、終わらないと言ったらそうなればいいのに
もともと広い建物ではないからさらに奥まった暗室は狭い。ともすればぶつかりそうになる肘をやり過ごして葵と葛は作業した。本来であれば個々に作業するべきの広さであるのに双方ともに譲れない締め切りを抱えてしまった。嘆息した葛が先に済ませろと言うのを葵が無理やり連れ込んだ。割り振られたように互いに位置を変わり作業する。手間を省こうと溶剤を出しっぱなしにするので余計に狭い。暗紫色に満ちた部屋は狭くてなんだか妙な気分になるなと葵は気を紛らわせた。ある程度の目処を立ててから葵はこっそりと体の向きを変えた。互いに背を向けて作業しているから顔は見えない。
暗い視界でも葛の肌は白い。部屋の灯りの色で刷いたように染まっているのにどこか発光しているように仄白い気がする。すっきりと整えられたうなじや袖をまくってあらわになった手首や肘の締まりが見える。汚れよけの留め紐が腰のあたりにわだかまって結ばれている。葵も同じものをしている。使用不可になった時の予備も含めて多めに誂えた。液体の溶剤を多く使うから部屋の湿度は高い。ひたひたとした湿り気がいつの間にかシャツや頸へまとわりつく。
「表の方、大丈夫かな」
葵の明瞭な声が発せられたが吸いこまれるように消えた。声の響きや大きさで葛には、葵が葛の方を向いていることは知れたろうと思う。それでも葛は言及はおろか振り返りさえしない。葵が焦れた頃合いに静かな声で、お前が休館の看板を出したろう、と返事があった。日除けや目隠しの布で覆われた硝子戸に人々はありふれた不在を知るだけだ。店屋物の世話になるときの少女も来ないだろう。二人が店を閉めると極めたのは昨晩であったから早いうちから開けていない。今日一日は休みだなと葵は自分が言った台詞も思い出した。
葛の作業はよどみなく進んでいる。葛の動きはいちいち鋭い。攻撃的にも見えるそれは威嚇のようにきびきびとした。開始と終了が明確であり、途中経過に躊躇はない。動作や足運び、手つきなどで何らかの訓練を受けていると判る。出来ぬ事と判らぬことを知っていて、適当に流さない。避けておく。葵などは流れでそのままこなして後で不出来を叱られる。でも、と葵は不服がそこでいつも生じた。出来ないこととしないことはけして同じではないと思う。経過が大切とは幼いころに聞きあきるほど聞いた。現実としては結果が優先されることも知った。それでも、と思う。
靴を睨んでいた葵の視界で葛の足元が反転した。手抜かりなく磨かれた靴が鈍く照る。目線を上げれば葵と同じ装備の葛が葵を見据えていた。
「え、なに」
「手を動かせ」
作業の停止を言われて葵は不服そうに唇をつきだしたが葛は取り合わない。
頑固だ、と思う。葛の根幹はちゃんと根を張って揺らぐことなく、そして抜けたりすることなどないのだ。ひっくり返すどころが揺らすことさえ難儀するだろう。葛の性質がそうなんだろうな、と思う。言われたことはするし不足や失敗はあまりない。それでも葛はどこか綺麗で、その綺麗さというのはどこか無欲にも通じた。葛の双眸は深みを増して黒い。暗渠のようでもある。葵はわりあい早く、己の髪や瞳の色が微妙に違うことを自覚した。どういう仕組みかは知らないが外部の血統が混じっていると思うほどの変貌を宿すことはあるらしい。揶揄や侮蔑を受ける前に葵は自覚した。だから指摘に衝撃は受けなかった。そういうものだろうと構える。変えようもなかった状況であったことも開き直りに拍車をかけた。だから葵の譲歩はどこかで反発と通じている。
「ちょっと休憩」
「手を動かせと言っている」
濡れた指先が機敏な動きで葵の手元を指す。溶剤に湿っていたはずの葵の指先はすでに乾いて剥離した。葵が渋々作業に戻る。割れた皮膚に溶剤が少し沁みて情けない。嘆息して肩を落とすところに刺すような視線を感じて居心地が悪い。
「見てなくったってするから!」
手を止めて半分だけ振り返れば葛の眼は葵の手元ではなく顔を見据えていた。睨みつけるような黒曜石の煌めきに葵の手が止まった。葛の双眸は潤んだように濡れて光る。威嚇するような眉筋も切れあがった眦も、葛が綺麗である証明のように凛とした。睫毛が案外長いことに葵は寝床をともにしてから気づいた。黒く密に彩る睫毛はある意味で飾り付けた女のそれより性質悪く魅了する。肌も白くて肌理が細かいから、墨を刷いたような黒髪や黒曜石の双眸、紅い唇が艶やかに映える。上着を羽織っていないから細腰も際立つ。体つき自体は葵の方が細いのに、葛の方が印象として華奢なのだ。細く見える葛の四肢は驚くほど柔軟で強靭だ。
戦い方は綺麗だ。曲げ伸ばしに無理はないし反りもなく返しも滑らか。力強さも拘束力も持っている。それでもどこか何かが欠けているように思うのは葛の性質に由来する。
「かずら」
葵は声が震えるのを自覚した。葛は聞く体勢をとるために作業を中断できるところまで黙々と進めた。新興の街で所以さえなく始めた写真館の写真の出来など人々は期待していない。それでも葛は手を抜かない。葵も作業を終わらせた。溶剤や器を片して、すぐに葛が使えるようにする。話が長くなりそうだと思えば葛の作業をさせる心算で葵は自分の割り当てを手早く終えた。しばらく二人が作業する微音が続いた。そう言えば写真館を営むと極めて店を開きたての頃もこんなふうに二人で暗室へこもった。現像の作業はある程度の慣れが必要で、手順を覚える必要もあった。日常の動作と写真館の経営に必要な作業はまったく関連せず、双方共に一から覚えた。現像作業の確認と実践を含んで二人でこもったのを思い出す。そう遠い過去ではないはずなのに、もう何十年と時を隔てたような気がした。あのときは要領の良い葵は手早く終えたが、葛は質の良い写真を拵えた。性質が出てると笑う葵に葛は上から言いつける物言いで意見し、しばらく喧嘩した。
作業を終えて向きを変えれば葛はすでに引き継ぎさえ終えて佇んでいた。手元にひたひたとした水面が鎮まっている。水輪一つないそれは葛がその水面から手を抜いてから時が経っていることを示した。葵が染みる手を拭いながら腰を据える。互いに暗室を出ようとは言わなかった。この狭小な空間を出たらその解放感にわだかまりさえ融けて消えてしまう。わだかまりはけして突発的なものではなく積み重なったものであることを互いに感じ取っていたから発散の機会として暗室をとらえていた。邪魔も入りづらい。店を閉めている理由が二人とも作業に忙しいという建前であるからいざという時にも言い訳が利く。
「なんだ、葵」
葛の声は低く潤んだように響く。白く照る喉のわずかな動きが反射角度を変えて照る具合を変えた。ぴかぴかしたような安っぽい照りではなく、真珠の光沢に似ていると思う。
「かずら、あのな」
葵の言葉遣いはどうしても子供っぽい。厳格な家庭ではなかったから作法などもかじっただけだし、殊更無作法を咎められるような場面に対したこともない。対して葛は砕けてこそいるがきちんと基本を知っている。必要があればどこまででも基準を上げられる。葛が上流家庭にもぐりこむ頻度はそこに由来するだろう。
「あおい?」
葛は罪なく問う。葵の躊躇や逡巡を気付きながら、葵が気にしてほしくないことさえ悟って、翻って気に留めるようなそぶりは見せない。硬派な葛のそういう不器用なところが葵は好きだ。何も知らない馬鹿であれば葵だって気にしない。葛はけして馬鹿ではないし手加減と手心の違いも知っている。相手に与える具合を測れるし、結果を予測もできる。その熟考の果てに一番損な手を取るのだから、葵は葛から目が離せない。命令である、仕方ない、の一言で葛は己の損失を取り返すことを諦める。
「かずら、あのさ」
葵の喉が震えた。
「欲しがらないと手になんか入らない」
散々言い淀んだ末の言葉にしては露骨だ。心中で頭を抱える葵に葛はさほど傷ついたふうでもなく顎を引き締めた。口元を引き結んで頤を引き締めると、細い葛の輪郭がさらに華奢になった。なんでもないふうを装う葵の心中が荒れた。自分のしたことは最低であるしいい結果など招きようもない。馬鹿らしいと一蹴されてしまって終わりだ。葛が自分のあり様に他者の言葉を取り入れない頑固さは折り紙つきだ。もっと外堀から攻めて葛の納得を得たうえで言うべき台詞を葵は一足飛びに直接ぶつけた。赦されるなら頭を抱えて髪をかきむしりたいくらいだ。予想に反して葛は少し考えこんでから口元を弛めた。
「お前は、人が好いな」
「かず、ら葛ッオレは! オレはお前が欲しいんだ今だけじゃなくてこれからも! 今だけなんかじゃなくて、これからも、この諍いが終わった後も、オレはお前と付き合いたい」
総評でくくられては果たせないと葵はさらに露骨な言葉をぶつけた。これで任を解かれても本望だ。葛から不服申し立てがあっても構わないつもりで葵は言い募った。
「この諍いの後にも、オレはお前とやり取りがしたいし、出来れば一緒にいたい。今だけで終わるなんて嫌だ」
葵の言葉に葛は一瞬目を瞬かせたがすぐにふわりと笑んだ。平素はどこか人形じみて動きのない葛の表情の動きに葵の方が動揺した。葛はその動揺すら許容の内であると言ったように淡く笑んだ。
「葛、オレ達は今だけなのか? もうこの諍いが終わったりしたら、会ったりできないのかな。オレは葛と一緒にいたことを過去やなかったことにしたいとは思わない。出来ればこれからも付き合っていきたいと思ってる。出来るかどうか判らないけど、でも、オレは、そうしたいと思ってる――」
「お前は優しいのだな」
葛の返答に葵は背筋が震える想いをした。それは、つまり。優しいんだなって、それはお前はそうじゃないっていうことなのか?
肉桂色の双眸を見開いて見据える葵に葛は暗く紅い照明のもとで微笑んだ。
「俺には今しかない」
短いが詳細な一言だ。葛の内側が推し量れる。何も言わない葵に葛は困ったような諦めたような淡い笑顔を向けた。笑顔が不自然にひきつるのは慣れていないからだ。口元や目元の弛みが不慣れに震えた。
「あおい、俺には未来が見えない。付き合う相手や国の先や、俺自身の未来さえ、俺には判らない」
だから今、しろと言われたことをすることしか俺には出来ない。すまない。
詫びる葛に葵は慄然と震えた。
「葵、俺には燦然と輝く未来も暗澹とした未来も、何も見えないんだ。何も判らない」
作り物じみて小綺麗な葛の顔は崩れない。墨で描いたような眉筋や切れあがった涼しげな目元や紅い唇や、引き締まっているのに綺麗なそこに、逡巡による弛みは窺えなかった。そしてそれが本心であると、葵の神経に痛いほどに沁み渡る。
唐突に考えが行き渡る。葛が熱心なのは先を考えに含めていないからだ。今で終わると考えるから現在に全力を注ぐ。未来を考え含めないから現在に固執する。
「か、ずら、葛ッでもそれは! 今からでも変えられるから、かずらお願いだから」
葵の喉が震えた。渇いて張り付く。言葉さえも出ない。こんなに狭い空間にいるのに葛は指先や爪先さえ届かないほど遠くに。もっとお前を感じたいんだ、だからお願い、もっと、近づいて。震える指先を抑えこむことに葵は必死になった。気を抜けばすぐにでも無遠慮な指先は葛へしがみついてしまう。もどかしげに震えた唇を引き結んで葵は歯を食いしばった。葛はそれを知っているかのように逃げもせずに穏やかに笑んでいる。
「そんなこといわないで」
「あおい」
声が被った。不規則に入り乱れる言葉と音が混じり合って曲を奏でるかのようだ。何一つ判りはしないのに何も判らぬ自覚はない。
「先を見ようと思わない奴に見える先などない。でも俺は」
化粧したように綺麗で、それでいて天然でしかありえない綺麗さで。整った黒髪や眉筋や涼しげな目元や紅い唇や白い肌。そのどれ一つとして葵を責めたりはしなかった。
「お前を経由して未来を見たような気がする」
葵の手が机を弾いた。葛の体を抱き寄せる。骨格や作りが葵よりしっかりしている。それなのに儚げなのは葛は己を省みない所為かも知れない。葛は驚くほど自分を保つことに対して消極的だ。在り様ではなく、葛という人格に対しての執着がない。偽りの名であればこそ、葵は逆に偽りを覆う心算で自己主張した。だが葛は覆うことはおろか、葛という存在がいつ消えても構わぬと言う仕草で日々を暮らす。軋ませる脊椎も肩を作る肩甲骨も、手に触れるものはいくつもあるのに伊波葛を作るものはいつ消えるとも知れないのだ。
「オレを通じて見たものがあるなら、オレも見て。オレは葛が欲しいんだよ?」
命令があれば明日にでも伊波葛は消えてしまうかも知れなくて。でも葵は葛を伊波葛としてしか知りえない。もどかしくて苛立たしくて焦れる。だがどうしようもない。葵の名前とて偽りだ。そこを責められたら葵は黙るしかない。けれど葛は葵のことになど気も払わない。
「葛、葛はオレが『三好葵』じゃなくてもいいのか」
葛の息が少し乱れた。戦慄く唇はすぐに引き結ばれた。紅いそれの動きは奇妙に灼きついた。
「俺が知るお前は『三好葵』だ。本当に興味はない。まかり通ったことが、真実だ…」
葛の震えは収まった。しがみつく葵をなだめるように髪を梳き、肩を撫でる。
「俺が知るのは『三好葵』で、それ以外ではない」
だからお前はお前を生きればいい。
俺のことなど気にしないで。
「葛、かずら、オレは! オレは、『伊波葛』が欲しいッ!」
ほとばしるような熱に葛は冷ややかに言葉を紡いだ。
「『伊波葛』ではない俺は要らないか?」
葵の目が痛々しいほどに見開かれた。集束する瞳孔に葛の黒い瞳が動揺もなく見つめる。葵は唾さえ呑まずに言った。しがみつく指先が憐れなほどに震えている。葵にもそれは止められない。突きつけられた刃は簡単に葵の喉を裂いた。
「オレはお前が欲しい! 『葛』でもなくても記憶と違っても、オレはお前が欲しいんだ!」
オレはお前を過去にする気はないッ!
何もなかったと口を拭うのも葛を別人として紹介されようとも、なおオレは。オレは『伊波葛』としてオレの隣にいてくれたお前と一緒にいたいんだ。
名前が違っても過去が違っても、お前はお前でしかないから。過去も未来も偽ろうと思えば簡単なんだ、だからオレはそんなことどうでもいい。ただ、今、お前が一緒にいてくれるということがとても大事で、そのお前が。
「葵、先を見ろ」
葛の手が葵の頤を捕える。首筋へ埋めようとするのを留める。涙に塗れた葵の顔を厭うこともなく見据える。泣き顔に歪むことさえ葛は真っ直ぐ見据えた。静謐に美しい顔がそこにある。穏やかに笑みさえしながら葛の顔は作り物じみて綺麗だ。
「未来を見れない俺などを、見るな」
葛のその言葉が葵の中へ突き刺さる。関わるなと言われたように葵の中で余韻を残した。葛の歪みはどこか泣き顔のようで葵は突き放せない。葛は突き放して傷つけながら己さえも傷つけている。
「俺もお前も本当の名前がある。だから、それを忘れずに生きろ」
「お前はッ、お前は幻じゃないここにいるのに――オレはそれを」
「忘れるんだ。どうせその場限りの名前だ、全てなかったことにするんだ」
そういう葛の双眸は揺らいだ。潤んだように揺らめく漆黒の双眸に葵は目を潤ませて口元を引き結んだ。
「俺のことなど、忘れろ」
不必要であれば切り捨てられる。痛いほどに浸透しているその判断に葵は異議を唱えられなかった。過ぎても及ばなくても切り捨てられる。欲しがられるままに応じることでしか、『伊波葛』も『三好葵』も生きられない。
「おれはおまえといっしょにいたいだけなのに」
名前も身分も。そして過去さえも。何もかも捨てられてお前とともにいれたらそれは幸せではないだろうか。
けれど未来は過去を失くして作られることはない。葛は葵の泣き顔を引き剥がして笑んだ。
「今が辛いだけだ。時間が経てば忘れるから」
葵から唇を重ねた。噛みつくように激しいそれに傾いだ葛の体が台を揺らした。溶剤や写真の入った器が硬質に鳴る。揺らいだ水面が激しさを示す。葵の体はためらいや恐れさえ知らずに葛の領域を犯す。
「葛、オレはお前にうらまれてもいい。お前の中に残れるなら、手段は選ばない心算だ」
葵の言葉が続く。心地よい声音に葛は制止するすべさえ持たない。
「お前がオレを憎んでもいい。オレはお前を覚えていたいしお前に覚えていてほしい。お前の中にオレは、残りたい――」
オレはお前が好きだと言ってくれた言葉で生きていく。
葛の双眸が見開かれていく。驚愕のそれを葵は呑みこむように拒んだ。
「ばか」
それでも嬉しそうに弛む葛の緊張に葵は価値を見出す。泣きだしそうに弛みながら涙はこぼさない。葛の気持ちはいつだって引き締まっている。葛の拘束を逃れる心算で葵はより強く葛を抱きしめた。強い拘束に葛の腕が鈍る。解かれていく腕を目で追いながら葵は葛の華奢に見える体を抱きしめた。葛の腕はすでに力を失くして垂れている。
言葉は要らない。葵は葛を抱きしめ、葛もそれに応えた。たとえ名前が違っても。
君を違えることはない
誓いのように粛々と、戯れのように整然と。葵は葛を抱きしめた。たとえ名前を忘れてもこの抱きしめた具合も体温も、忘れたりはしないから。君の熱を忘れない。
抱きしめる葵の腕に葛の背は軋んだように反る。それでいて不具合を訴えることもない。
「忘れるぞ」
「忘れるかもな。でもオレは、この抱きしめた体温は絶対に忘れないよ」
名前も意識も偽られても、この体温を覚えている。
「それがばかだと、いうんだ」
葛の声が泣き出しそうで葵は言及しなかった。葛の腕は葵を振り払わなかったし、腕を解こうともしなかった。
ただ、君を想う。
忘れてくれていい。忘れてほしい。
それでもオレが君を好きだったことはオレの中にあるから
《了》